偽りの昇天
竹林の奥深くで、阿倍御主人は息を切らし、立ち止まった。
頭上には、不気味なほど巨大な満月。
だが、追っていたはずの「羽衣の気配」は、霧が晴れるように、ふっと消えていた。
「……おかしい」
阿倍は眉をひそめる。
「羽衣で姿を隠したとて、
足跡も、草を分ける音も残さぬなど……」
嫌な予感が、胸をよぎった。
阿倍は太刀を鞘に収め、踵を返す。
兵たちの捜索の喧騒が遠のき、
再び静まり返った塗籠ぬりごめの部屋。
そこには、先ほどと変わらぬ首のない死体と、
隅で肩を寄せ合う女房たち。
そして――。
「……おじ様。
姫様は、見つかった?」
三人の童わらわが、
血に汚れたままの顔で、阿倍を見上げていた。
その瞬間、
阿倍の中で、言葉にできぬ違和感が形を結んだ。
彼は、改めて部屋を見渡す。
鋭い観察眼が、いくつもの矛盾を拾い上げていく。
――竹の匂い。
窓一つないこの部屋に、なぜ切り出したばかりのような、生々しい竹の香りが満ちている?
――返り血の斑紋。
童たちの着物に付いた血は、飛沫を浴びたにしては不自然だ。
まるで、内側から滲み出したように広がっている。
――砕けた壺。
『不死の薬』の壺は粉々に砕けているが、
破片は部屋の中心から外側へと飛び散っている。
「……お前たち」
阿倍はしゃがみ込み、童たちと視線を合わせた。
「一つ、聞かせてくれ。
姫様が消える直前――
お前たちは、何を見ていた?」
一番年長の童が、虚ろな目で答える。
「……光じゃない」
「何?」
「竹。
竹の音がしたの」
「竹の音……?」
「ササッ、ササッて……
畳の下から」
童の声は、淡々としていた。
「姫様が『来ないで、まだ帰らない』って泣いたら……
姫様の足元から、大きな竹が突き出してきたの」
阿倍の背筋を、冷たいものが走る。
彼は、死体の下の畳を勢いよく剥ぎ取った。
「――これは……!」
床板を貫き、部屋の中に数寸ほど突き出した
巨大な竹の切り株。
それは、ただの竹ではなかった。
切り口からは、人のもののような赤い血が滴り、
中心部は不気味な空洞になっている。
阿倍は、すべてを理解した。
「羽衣で逃げたのではない……
姫は、この竹の中へ――
引きずり込まれたのだ」
この密室は、人の手で作られたものではない。
かつて、竹取の翁が姫を見つけた時と同じ。
竹が地中から急成長し、床を突き破り、
姫を飲み込み、再び地中へと引き戻したのだ。
その際、
身代わりにされた女房・小萩の首は、
急成長する竹の縁によって、
鋭利な刃物のように断ち切られた。
不死の薬の壺が外側へ砕けていたのも、
内側から突き上げてきた竹の衝撃によるものだった。
「だが……なぜ、竹がそんな動きを……
月の使者の術か?」
「いいえ」
背後から、冷ややかな声がした。
振り返ると、
三人の童たちが、いつの間にか立ち上がり、
阿倍を囲むように立っていた。
阿倍御主人の太刀が、
銀色に光る童の瞳を捉えた。
だが、童たちは逃げも、隠れもしない。
ただ血に濡れた唇を歪め、薄く笑っている。
「阿倍様……。
先ほど貴方は、『姫が自ら女房を殺して逃げた』と仰いましたね」
一番小さな童が、首のない死体の傍へと歩み寄る。
その足取りは、先ほどまでの怯えきった子供のものではない。
長く人を殺してきた者の、それだった。
「それは……大きな買い被り、というものです」
童は続ける。
「姫様は、優しすぎた。
月へ帰りたくないと泣いたのは、地上の民を愛したからではありません」
阿倍の視線が、鋭く細まる。
「月の法を破った自分を、
月が“生かしたまま”連れ戻すはずがない――
それを、姫様は最初から知っていたのです」




