かぐや姫を殺したのは誰か?
八月十五日。
この世の理ことわりが、天より降る光によって白日の下にさらされる夜。
だが、竹取の翁の屋敷だけは、なお底知れぬ影に沈んでいた。
「阿倍様。警固は万全にございます」
衛士の報告に、阿倍御主人――あべのみうしは短く頷いた。
帝の命により動員された二千の兵が、屋敷を二重三重に取り囲んでいる。
屋根には弓の名手が並び、月へと続く夜空を睨み据えていた。
阿倍は、かつてこの屋敷の主に「火鼠の皮衣」を献上し、それを偽物と見抜かれた男である。
あの日以来、かぐや姫を、ただの絶世の美女だとは思っていない。
――あれは、人の心を惑わし、国家の秩序すら揺るがしかねぬ「天災」に近い存在だ。
数カ月前
平安の京、夜の帳が下りる頃。大納言・阿倍御主人は、手元に届いたばかりの箱を震える指で撫でていた。
「これだ……。これさえあれば、あのかぐや姫も私のものだ」
かぐや姫が彼に突きつけた条件は、唐の国にあるという「火の中に投げ込んでも燃えず、むしろ輝きを増す」という伝説の皮衣。御主人は部下たちに莫大な金銀を持たせ、商人を介してようやくこれを手に入れたのだ。
箱を開けると、そこには青く、不思議な光沢を放つ毛皮が収まっていた。毛の先々までが宝石のようにきらめき、見る者を惑わせる。
「美しい……。これこそが、かぐや姫にふさわしい」
翌日、御主人は意気揚々と竹取の翁の家を訪れた。
「姫よ、ついに手に入れましたぞ。海を越え、火の山を越えて届けられた、天下一の宝物だ」
御簾の向こうで、かぐや姫の涼やかな声が響く。
「それは見事なことでございます。ですが……念のため、その本物である証拠を、今ここで火にくべて確かめていただけますか?」
御主人は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
(もし燃えてしまったら? いや、これほど高価だったのだ、偽物であるはずがない。何より、ここで躊躇えば男がすたる)
「よろしい。真実の輝きをご覧に入れよう」
御主人は自信満々に、庭の火鉢の中に皮衣を投げ入れた。
バチバチと火が爆ぜる。
次の瞬間、御主人の期待は、無残な黒煙とともに消え失せた。
「ああっ!!」
青く美しかったはずの皮衣は、瞬く間にメラメラと燃え上がり、見る影もなく灰へと変わっていったのだ。火鼠の皮衣なら、火の中でいっそう白く輝くはず。しかしそこにあるのは、ただの焦げ臭いゴミだった。
「……阿倍様。残念ながら、これは『火に耐えぬ』まがい物だったようですわね」
思い出すだけで阿部御主人は屈辱に怒りが込み上げた
しかし今は警備を優先せねばと屋敷に目を向ける。
屋敷の奥深く、重い戸の隙間から差し込む月光を浴びて、かぐや姫は身動きもせず座っている。その膝にすがって、童は声を殺して泣いていた。
「姫様、本当に行ってしまわれるのですか。外にはあんなにたくさんの兵隊様がいるのに、誰も姫様を守れないのですか」
「泣かないで、童。あの兵たちの弓矢では、月の理を射抜くことはできません。私は、迎えを拒むことができないのです」
かぐや姫の声は、鈴を転がすように美しいものでしたが、そこには感情の起伏がない。
「嫌です。姫様が行ってしまったら、誰が私に歌を教えてくれるのですか。誰が私の頭を撫でてくれるのですか」
童の必死の訴えに、
「これは、私が大切にしていた紅と、少しばかりの文です。……そして、このお守りを持っていて。月の使者が持ってくる『天の羽衣』を着れば、私は地上のことをすべて忘れてしまうでしょう。あなたのことも、おじい様やおばあ様のことも」
童は息を呑みました。
「忘れてしまう……? 私たちのことを、全部ですか?」
「……姫様、間もなくでございます」
屋敷の最深部。
窓一つない塗籠ぬりごめの扉の向こうから、女房たちの震える声が漏れ聞こえる。
姫は数日前から食を断ち、泣き腫らした目でこの部屋に閉じこもっていた。
「私は、月へ帰りたくありません。
ですが迎えが来れば、私の心は消され、人形のように連れ去られるでしょう。
どうか――その瞬間まで、私をこの部屋に封じてください」
姫の願いにより、塗籠の重い扉には外から頑丈な閂が下ろされた。
阿倍自らが、その前に立つ。
中には姫の身の回りを世話する女房が十人ほど、さらに幼い童たちも数名、共に入っている。
月が天頂に達し、屋敷全体が銀色の光に侵され始めた、その時だった。
「ひいっ……来ました! 天からの光が!」
外で待機していた兵たちの悲鳴が上がる。
空には五色の雲がたなびき、言葉では言い表せぬ音楽が、雨のように降り注いだ。
阿倍は、思わず腰の太刀を握り締めた。
――その直後である。
静寂を保っていたはずの塗籠の中から、
この世のものとは思えぬ、凄惨な悲鳴が響き渡った。
「ああっ! 姫様! 姫様ぁ!」
「血が……血が溢れて……!」
女房たちの狂乱した叫び。
阿倍は迷わず怒鳴った。
「閂を外せ! 中へ入るぞ!」
「しかし、姫様の命により、扉は――」
「構わぬ! 殺気がした!」
阿倍は自ら扉を蹴り破った。
灯明の火はすべて消え、
部屋の中は月明かりの逆光に満たされている。
青白い光が、不気味な陰影を畳に落としていた。
鼻を突いたのは、濃厚な竹の匂い。
そして――
鉄の錆を思わせる、生々しい血の臭気。
「……これは……」
阿倍は、息を呑んだ。
部屋の中央。
姫が座していたはずの場所には、
鮮やかな唐衣をまとった首のない死体が、
畳を赤く染めて横たわっていた。
その傍らでは、三人の童たちが、
返り血に濡れた手で顔を覆い、
甲高い声で泣き叫んでいる。
異常な光景に、阿倍は言葉を失った。
――なぜ、こんなことに。
阿倍は、はっとして振り返る。
「賊か!
どこから入った!」
周囲を見渡すが、壁はすべて塗り壁。
窓はなく、天井の板も一枚の狂いなく閉じられている。
「……阿倍様、これをご覧に」
一人の衛士が、部屋の隅を指し示した。
そこには、
姫が「月へ帰らぬために」と大切に持っていたはずの
『不死の薬』の壺が、無残に砕け散っていた。
さらに――
姫が纏っていたはずの、
月の光を織り込んだという『天の羽衣』が、
どこにも見当たらない。
「密室の中で、姫は首を断たれ、
そのうえ羽衣まで消えたというのか……」
阿倍の背筋に、冷たいものが走る。
かぐや姫を殺したのは、誰か。
――いや。
脳裏に、かつての屈辱が蘇る。
火鼠の皮衣を偽物と見抜かれた、あの日。
あの女が、
これほど無様に、
ただ殺されるだけの存在であるはずがない。
阿倍は、返り血に汚れた畳の上に膝をつき、
まだ熱を帯びた首のない死体を、じっと凝視した。




