12.フェリシアの思惑
「殿下、お味はいかがですか?」
「筆舌しがたいくらい美味であるな」
「それは良かったですわ」
目の前の美しき令嬢は、微笑みを浮かべる。その笑顔に見とれた隣の男が、女に顔を引っぱたかれていた。
フェリシアは余をオペラを見て、優雅な時間を過ごした。まさか、犯人が彼奴だったとは。その後、こうしてディナーを予約してくれていたが、噂によると一年待ちの店だとか。
「オペラも喜んでもらって、光栄ですわ」
余の好みを把握されている気がするな。余はフェリシアにも楽しんで欲しかったのだが。
「最近の殿下は、とても素敵な方ですわ」
「余は前からシューデリアであるが?」
「えぇ、そうですね。……今の殿下に、わたくしは言わなければいけないことがあるのです。聞いてくださいますか?」
フェリシアはそう言って余を見つめる。その思い詰めた表情に、何故か喉がなった。
「あぁ」
「……殿下、実は、チェリー殿下を──」
「イヤーーーッ!」
皿が割れ、甲高い叫び声が辺りに響き渡った。先程ぶたれていた男が、その女に襲いかかっていた。その目は黒く、正気を失っているようにみえる。
「なっ、あれは!」
そのタキシードの襟の部分には、黒い紋章が浮かび上がっている。
「助けて!!」
その声に体が動き、男から女を引き離す。濁った目がこちらを認識し、襲いかかっきた。
「殿下!」
その声に流れるように余は男の襟元を掴み、華麗に地面へと叩きつけた。苦しそうな表情に、馬乗りになり、手袋を外して襟首に当てた。
「お怪我は無いですか!」
衛兵らしきものが駆け寄り、余と男を交互に見つめる。
「あぁ、問題ない。この男も、少し酔っ払っていただけであろう」
「いや、そんなはず……」
「そうだ」
怪訝そうな顔をした衛兵に微笑みを送ると、ハッとしたように目を見張る。
「た、大変失礼いたしました! では、この者を病院へと連れていきますので失礼いたします!」
そう言って男の腕を自身の肩へ回し、そのまま逃げるように去っていった。
「ありがとうごさいました」
「よい、其方に怪我は無いか?」
そう言いながら、その女の頬に一筋の線が走っているのが見えた。女に傷をつけるとは、この呪いもそろそろどうにかしなくてはいけないな。
「失礼」
女の頬にハンカチをあてると、その顔はみるみる赤くなっていく。
「ぇ、ふぁ、あの、あの人を追いかけるので失礼します!」
ハンカチを抑え、男の後を追う女性。ふむ、怪我が広がらないといいが。
「殿下、平気ですか!?」
フェリィの声がして、左手に鋭い痛みが走る。フェリシアが両手で余の左手もを握っていた。
「っ! あぁ大丈夫だ」
痛みに耐えながら、気づかれないようそっと左手を抜く。それを見ると、呪印がより濃く完成に近づいているのが分かる。
「そろそろ帰ろう。今夜は冷えそうだ」
「えぇ、そうですわね」
微笑みながらも、じわじわと痛みが襲ってくる。それに耐えながら、話を続けていた。
*
「殿下!?」
「平気だ、それよりオイドンを呼べ」
「わ、分かりました」
部屋に入りふかふかなソファに沈み込む。そして大きく息を吐いた。今日は、疲れたな。
左の手の平に刻まれた黒い紋様は、月明りを反射し、怪しい光を放っていた。
「殿下、失礼します」
軽いノックと共に、小柄な執事が顔を見せる。珍しく黙ったままの余に、オイドンは口を開く。
「本日はアリシア様が黙々と公務をなさっていましたよ。殿下がいなくて悲しんでおいででした」
「そうか……」
王女が頬を膨らまし、まだ大きい机に一生懸命に向かっていく様子が目に浮かぶ。
「チェリア様は、殿下のことを心配していらっしゃいました」
「……あぁ」
エマは思いやりについて、少しずつでも分かっているのだろうか。
「殿下……」
オイドンが心配そうにこちらを伺う。自分でもわかっているのだ、少しずつ何かに気付いていることが。
「……オイドン、今から言うのは余の独り言だ。お前はゆっくり聞いていないふりをしてくれ」
「かしこまりました」
忠実な執事は窓を見上げる。
「もしかしたら……フェリシアはチェリーと婚約したかったのかもしれぬ。そしてチェリーも、満更ではなさそうだった。それはつまり、余が、二人の仲を引き裂いているということなのか?」
オイドンは何も答えない。ただその瞳に、美しい空を映している。
「殿下はそれに、精神的苦痛を感じていたのか? それで、余が殿下に変わったのか?」
いつの間にか天高く上った月は雲に隠され、辺りには薄暗い空気に満ちていた。
「そうしたら余は……余は、どうすればよいのだ?」
弱々しい声がぽつりと落ちた。辺りには夜の静けさが漂う。
「これからおいどんは独り言を言います」
オイドンの声が部屋に響く。はっと顔を上げると、その後ろ姿が目に入る。
「殿下は素晴らしいお方です。そして同時に、全てを手に入れてきた方でもあります。諦めるという言葉を知ってもなお、一度もそれを実行したことのない人です。私はそんな殿下を、誰よりも誇りに思っています」
オイドンは振り返り、穏やかな表情を浮かべた。
「それはお休みなさいませ、殿下。いい夢を」
そう言い放ち扉を閉めた。コツコツと足音が遠ざかっていく。
「一度も諦めたことがない……」
ではなぜ余は、殿下になっているのだ……?
そんな疑問が頭をよぎる。月明りはゆっくりと、部屋の影を変えていった。




