1.失われた記憶
目を開けると、そこには透明がかった水色の空が広がっていた。頭を押さえながら、上体を起こす。
立ち上がり、辺りを見渡す。どこを見ても、咲き誇った薔薇にバラに薔薇。
「シューデリア殿下?」
その時、後ろから声がした。振り返ると、髪をなびかせて、一人の女が駆け寄ってくるのが見えた。その女は心配そうにこちらを見上げながら、手を伸ばす。
「殿下、花びらが……」
見知らぬ女の手が近づいてきて、思わず一歩下がる。
「で、殿下?」
困惑したようにその手が下ろされ、いぶかしげな瞳がこちらを見つめる。
「花びらが……」
「誰だ、貴様は?」
その声を遮って、首をかしげると、女は息をのんだ。キラキラとした瞳から光が消え、黒く濁った殺意が顔をのぞかせた。
「殿下、さっきお願いした通りですので、そのようなことはもう二度とおっしゃらないでくださいませ」
「貴様は何を言っているのだ?」
混乱して問いかけると、女は悲しそうな表情を浮かべる。
「ですから相思相愛なふりをしてくださいと、あれほどお願いしたではありませんか!」
「?」
女は涙目でこちらを睨む。
「殿下、揶揄うのはおやめください!」
そういい捨てて、何処かへ立ち去っていった。いつの間にか、横には執事らしき人物が構えている。
「何が起こった? 余は誰だ?」
「貴方様はシューデリア・ディ・オリビア殿下。我が国の皇太子にございます」
「はぁ、して、其方は誰だ?」
「わたくしは執事長のオイドンと申します」
にこやかな笑みを浮かべる執事。
「オイドン!? 貴様の一人称は今日からおいどんに決まりだな」
「はい?」
「それと、余の名前はなんだったか?」
「シューデリア・ディ――」
「よし、余はシューデリアだ! して、ここはどこだ?」
見覚えのない顔に、体に、場所。
「ここは、殿下の庭園にございます。加えて申し上げますと、先ほどの女性は殿下の婚約者です」
「余の婚約者だと? なるほど、まったくわけがわからないな」
軽く笑い声をあげて、目の前の野暮ったい前髪をかき上げる。
「ではその婚約者とやらに会いに行こうではないか」
「はい、ご案内致します……こちらでございます」
歩いている間にも、自分の姿を見れば見るほど不思議に思えてくる。
なんだ、この筋肉質な体は。これはまるで、理想の王子様ではないか。
少し歩くと、泉のほとりに白い建物が見えた。先ほどの女が、優雅に紅茶を飲んでいる。余が近づくと、慌てて立ち上がった。
「殿下、先ほどは――」
と言いかけた女の顔が固まる。それから、口をぽかんと開けた。
「殿下、その恰好は、一体どうなさいましたの!?」
「フッ、何がだ、我が婚約者よ?」
「きゃっ! 気安く触らないでくださいませ!」
その腰を抱き寄せると、驚いた顔をして振り払う婚約者。落ち着きを取り戻したものの、その耳は赤い。
「貴様は余の婚約者なんだって? 名は何という?」
「……わたくしは、フェリシア・ナイトステラですわ」
「フェリシア? ふむ……では今日から貴様をフェリと呼ぼう」
「はい?」
その目に驚愕の色が宿る。
「さぁフェリ、ここに座り給え。今からあなたのことを語って貰おうではないか」
椅子に腰かけて自分の膝を叩くと、その顔は赤く染まっていく。
「ちょ、どうなさったんですの? オイドン? オイドンはいらっしゃる?」
「はい、おいどんはこちらに」
忠実な執事は、余の教えを守ったようだ。
その言葉に笑いだすと、婚約者様は化け物を見るような目で、こちらを眺める。
「あの、オイドン、殿下はどうなさったの? 近頃流行りの風邪にでもかかったんですの?」
「いえ、ご主人様は至って正常でございます」
「じゃあ、このはしたない格好はなんですの!?」
手で目を隠しながら、悲鳴を上げる令嬢。
「ボタンを二個ほど外し、上着を肩にかけ、膝を広げて座っているだけで、何か問題でもあるのか?」
「その全部に問題大アリですわ!」
「だが余は皇太子なんだろう? なら何も問題はない」
その言い草に、執事が女にこそこそと耳打ちをする。
「フェリシア様、わた――おいどんは、本日のご主人様に何か問題があるのかと。ひとまず、お帰りになられてはいかがですか?」
「えぇ、そう致しますわ。殿下、わたくしはこれで失礼いたします」
綺麗なお辞儀をして、後ろを向くフェリィ。その細い手首を掴む。
「待て。話はまだ終わっていないぞ」
「なっ」
軽く手を引き彼女を膝に乗せ、その顔に微笑みかける。と、その肩が震えているのに気づいた。
「フェリィ、どうかしたか?」
「っーー!」
彼女の右手が頬に当たり、ぺちんと音を立てた。そして叫びながら、脇目もふらずに駆けていってしまう。
「ふむ、フェリィを怒らせてしまったようだな。何故だ?」
頬を抑えオイドンに尋ねると、目を見開き、首を横に振る執事。
「それは、おいどんにもわかりかねます」
「ワハハ、余にも分からん」
それにしても先ほどの女、フェリィと言ったか。なかなか良い女であったな。
艶やかな髪に、美しい顔。それに何と言っても、華奢な体に見合わぬアレ。
横から、執事が声をかけてくる。
「殿下、本日はご家族揃っての晩餐会ですので、そろそろご準備をなさらなければ」
「晩餐会だと?」
余の家族との初対面ではないか。いやそれよりも、そろそろ自らの顔を確認したいものだ。
「では、準備とやらに取り掛かろうではないか」
立ち上がって歩き始めた、その足が止まる。
「オイドン、余の屋敷はどこだ?」
「……ご案内致します」
執事の、弱々しい声が響いた。




