迷いの儀④
周りの慌ただしい音が聞こえる。朝のようだ……。以前の部屋ではなく、畳のない狭い部屋で二日間を過ごした。部屋の出入りは許可されておらず、トイレに行くのも従者がついてきた。天音はアクィロにも会えず、暇な時間を持て余していた。やる事といえば、歌を歌うぐらいで、歌詞も曖昧な歌を椅子や机を叩きながら歌うと、外からドアをノックされた。食事は一日に二回で、衣類の交換もない。儀式の後からライにもシアンにも会っていない。
戸が勢いよく開く。
「おはようございます。本日は〈豊水の儀〉の支度をします」
入ってきた女は俯き、こちらを見ようとしない。以前とは違い、今日は一人だけで、ただ淡々と準備が行われる。手つきは乱暴ではないが、帯の締めは一拍ごとにきつく、痛い。髪を梳くのも痛く、我慢するのが大変だった。
「今日は、こちらに滞在する最終日です。荷をまとめてください」
「あの、何か入れ物……カバンみたいなの、もらえませんか?」
「神殿からの施しは基本ございません。こちらの衣装はシアン様からの献上品でございます」
「そうなんですね……わかりました」
天音は水筒の蓋の中にビー玉と鱗を入れ、来るときに着ていたTシャツでズボンと水筒を包み、風呂敷代わりにして縛った。
用意された朝食は、お米と野菜の漬物。飲み物や汁物がこの二日間なく、天音は喉の渇きをずっと我慢していた。夜中に喉が渇きすぎて水をお願いしたが、従者は天音を無視し、もらうことができなかった。何度か中庭の水を飲みに抜け出そうとしたが、そのたびにつかまってしまった。
女の後についていくと、白い石が敷かれた広間に出た。周りは質素な木の壁で囲まれ、広間の真ん中から水が湧き出ている。その水は大きな門の下にまで続いている。振り返ると、巨大な神社があり、装飾はあまりないが威厳がある。さらに後ろには摩天楼がそびえ、上は雲を突き抜けて終わりが見えない。
天音は女の後を追うが、どこへ向かうのかの説明はなく、ただ歩くしかなかった。大きな門を軍人が六人で引いて開ける。いつの間にか増えていた従者たちとともに神殿の外へ出ると、そこから長い階段が下に続き、下町の風景が見える。京都の授業を思い出す……昼間の街並みもまた美しい。
人々の声が聞こえる。どうやら祭りの会場は、この階段を下りた先にあるらしい。
階段を下りた先には深い霧。空に浮かぶクラゲが鈍い明かりを放っている。石の祭壇の先には大きな水瓶があり、その裏には畳の舞台がある。その舞台の上には供え物がたくさん置いてある。
女は舞台の袖まで天音を導くと、その近くにあった茣蓙の上に座った。天音はその様子を見て、その近くに体育座りで待機する。
「はぁ……」
空耳か? ため息が聞こえた。天音は、このまま何をするのかも分からず、不安を紛らわすために水筒を取り出す。喉の渇きはもう尋常ではない。「こぽ、こぽ……」。こっそりと少しだけコップに水を入れ、女に見えないように飲み干した。服の中にまた隠して振り返ると、先ほどの巫女が何も言わずに、細く目をすがめた。
一時間ほどだろうか。待っていると、会場が湧き上がる。
「水主様! アクィロ様!」
女は天音の腕を強く握って立たせた。「お時間です。舞台に上がってください」
押し出されるまま舞台に上がると、天音の目には、民衆の輪郭がときおり崩れ、耳の長い影や、額に角の影がちらつく。あの儀式の時と同じことが起きている。ここに住まう人は人間の形をしながらも、本当は異形の姿なのだ。思わず後ずさる天音に、アクィロが声をかける。
「さぁ、こちらにおいで」
声の方を見ると、アクィロと、その横に二人の幼い男の子と女の子がいた。二人とも、天音を睨んでいる。恐怖で天音が立ち止まっていると、後ろから肩を押された。
「あまね様、本日はご機嫌いかがですか?」
シゲムネが天音の身長に合わせて中腰になり、後ろからアクィロのもとまで押していく。
「あの……今日は何をすれば……」
「あの場所に座っていれば大丈夫ですよ。さぁ、お進みください」
天音はシゲムネに押されるまま進み、お膳の前に座った。シゲムネも前回会った時とは違い、黒い髪と黒い瞳になっていた。
厳かに儀礼の音楽が鳴る。アクィロが進み、舞を踊る。アクィロの隣では、狐のような無表情の少年が鈴を鳴らし、その対にいる女の子は目を閉じ、和歌のような歌を歌う。人々は静かに見ていた。
時間が進むにつれ、天音の目の前のお膳の食べ物は段々と苔が生え、民衆はますます人外へと見え始めた。音と舞を見ながら、天音の意識は一瞬どこかへ飛んでいく。
目を開けると、どこまでも青い水の中に漂っていた。
「ここは? どこ?」
声はこもって、自分にしか聞こえない。
【天音。聞いておくれ】
声がする方を振り返る。
「……誰?! 誰ですか?」
【見えるものを信じないでほしい。人々は忘れてしまったのだ。嘆き悲しまないで】
「どういう意味ですか……!? どこにいるんですか!?」
【もうすぐです】
どこにも姿がないのに、声だけが聞こえる。どこか懐かしい声。天音は周りを見渡しながら、不安で涙があふれてきた。十歳には、あまりにも辛い現実。
「私を……誰か守ってよ……こわいよ……」
天音が泣いていると、急に息苦しくなった。水に溺れる感じとはまた違う、詰まるような苦しさ——
「ゲホ!!!!!」
「食え!!」
すぐそこで低く尖った声。アクィロの横にいた男の子が、天音の口に食べ物を押し込んでいた。生い茂った苔を無理やり。天音はその手を押し払い、食べ物を投げ飛ばす。
「あぁぁああ!」
どうやら天音は眠っていたようだ。夢から覚め、現実に引き戻される。アクィロはまだ舞っている。
「お前が食わねば、アクィロ様は舞を終えられぬのだ!! 今すぐ食え!!」
「ゲホ……無理やり食べさせるなんて……最低! 気持ち悪い!」
天音は咳き込みながら暴言を吐く。少年は顔を真っ赤にした。
「自分で食べれます!」
天音は苔をつかみ、口に入れる。味は土そのもので、食べ物とは思えない。飲み下した瞬間、儀式の時と同じ鋭い痛みが全身を駆け巡る。天音は腹を押さえてうずくまった。
「痛い……痛い! 水をちょうだい」
「うるさい……能無しにやる水はない。邪魔せず、ここに黙って座っていろ!」
少年が天音の頭をつかみ上げる。痛みで声も出ない。天音を睨みつけると少年はアクィロの一歩後方に戻った。
苦しさで意識が朦朧とする中、唱和が始まる。アクィロが祈りを行うと雨が降ってきた。人々は歓喜し、賛美の声で満ちる。
祈りが終わると、バタバタと足音が聞こえる。
「お飲みください。あまね様」
シゲムネだ。
「……少しで構いません。楽になりますから」
天音は痛みに耐えながら、升の水をひと口飲んだ。するとどうだろう、痛みが少しずつ和らいでいく。天音は自力で座り直し、升を自分で持って飲み干す。その様子をアクィロが心配そうに見ていた。いや、アクィロの肩は大きく呼吸し、余裕のない辛い面持ちだ。男の子と女の子がアクィロを反対側の階段へ案内し、その足取りは重く緩やかだった。舞台裏にアクィロが消えると、巫女とライが駆け寄っていく姿が見えた。
シゲムネも天音を置いて舞台裏へ移動してしまう。天音はひとり、舞台に座ったままだった。不思議なことに、民衆の姿は人間に戻っている。
「あれ? 新名の儀は?」
「前回の時は命名がこの後にあったよね……?」
「アクィロ様、何かあったのかしら……?」
「さっき迷い人、供え物を投げてなかった?」
民衆から動揺の声が上がる。
天音はただ座り続けるしかない。居心地の悪い時間が過ぎる。雨はまだ降り続ける。三十分以上たっただろうか。駆け寄ってきたのはシアンだった。軍装に白いマントを羽織っている。
「あまね、何をしている?」
「分からないです……。みんな後ろに移動してから帰ってこないんです」
シアンは眉をひそめ、舞台裏を覗き、すぐ踵を返して戻ってきた。
「あまね。こちらに来るのだ」
シアンは舞台に上がれないのか、舞台下から手を差し伸べる。天音が手を取ろうと移動した時、神殿の階段を上る女の手に、天音の水筒が見えた。
「あ! 私の水筒!! 返して!!」
天音が声をあげ、女を指さす。その指先を皆が一斉に見た。女は聞こえないようで、何かから逃げるようにそそくさと階段を駆け上がる。天音はどうすればいいか分からず、とりあえず急いで柵を越えて舞台を降りようとする。高い舞台から飛び降りた天音を、シアンが抱きとめた。
「あの女が持っているのは、あまねの持ち物か?」
「そう! あれ、大切な物が入ってるの……」
「分かった」
シアンは天音を抱えたまま強烈な光を放った。天音は眩しさのあまり目をつむる。
「その荷物を返してもらおうか?」
目を開けると、天音は女の目の前にいた。ほんの一〜二秒の出来事だ。
(瞬間移動——!?)
女は水筒をぎゅっと抱え、離そうとしない。
「これは水神様の物だ! 能無しの小娘に渡すものか!! ここには神水がある!! この小娘は神水を盗んだ!!」
シアンは静かに諭すように女に、水筒を返すよう手を差し出す。
「迷い人の所有物は不可侵である——その掟を水神教が破るというのなら、政府も見逃せなくなるぞ」
天音は瞬間移動に驚きドキドキして、遅れをとったが・・・疑問に思ったことを口にする。
「あの…ただの“富士山の天然水”だけど……神水って、何?」
一瞬、シアンも女も黙り、女はわなわなと震えて天音を指さし、罵り始めた。
「何も知らぬ能無しの小娘に神水を与える方が神を冒涜している!! 天罰が下る!! この水は我々の物だ!! 触らせぬ!!」
女がシアンの横を走って逃げようとする。シアンは黙って見ていた。焦った天音は、逃げる女に手を伸ばした。
——ドン! ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……ドサ。
女は何かにぶつかり、後方に倒れ階段を転げ落ちた。階段の下まで落ちるに時間は掛からなかった。そして、そのまま動かなくなった。天音は手を伸ばしたまま固まる。何が起きたのか、全く分からない。
シアンが神殿の門の近くへ視線をやる。そこには、あの日おまじないをしてくれた白髪の盲目の男性が、片目を包帯で巻いて立っていた。シアンはその姿を確認すると、天音を下ろし、女のもとへ降りていく。何かを確かめ、水筒を持って戻ってきて天音に渡した。
「大切なものなんだろ?」
天音は水のことを聞かないシアンに、少し信頼感を持った。
「ありがとうございます……。あ……中に龍の鱗が……」
天音は水筒の中からビー玉と龍の鱗を取り出し、シアンに見せた。シアンはわずかに目を見開く。
「それは、ものすごい。宝玉と龍の鱗——神の加護に等しい」
シアンは少し考えたのち、再び天音を抱え広間の上空へ。天音は驚き、龍の鱗を手に持ったまま口を押さえた。
広間は、ひときわ大きなざわめきに包まれていた。
「名は? 名は与えられぬのか」「不吉だ」「神水を盗んだ!?」「女が倒れたぞ……」——いくつもの声が重なっては割れていく。民衆は、シアンが飛ぶことには驚かずに、2人を見上げていた。
飛んでいる間、アクィロがシゲムネに抱えられて舞台裏の裏道を進むのが見えた。巫女たちが動揺し、走り回っている。
シアンは天音を抱きながら、広場の中央へ向き直り、よく通る声を放つ。
「光の主の名のもとに——龍の守護者に名を与える。名は、『アマネ』」
瞬間、空気が反転した。ざわめきは歓声に変わり、手を合わせる者、膝を折る者——。“アマネ”の名を呼ぶ声が重なる。
シアンは——歓声に合わせアマネを高く抱き上げた。
天音は龍の鱗とビー玉を両手に持ち、高く持ち上げた。
光に輝くビー玉。裏側が透けて見える大きな青い鱗
ややシュールだが、民衆の熱気はおさまらない。
シアンが口笛を吹くと、雲の切れ間から影が舞い降りる。御簾を下ろした牛車を曳く、翼の生えた二足歩行の水牛が、静かに石畳へ蹄を置いた。
「アマネ。乗るぞ」
シアンが御簾をめくり、アマネを中へ押し入れる。水牛は一歩、二歩と踏み出すだけで、屋形はゆっくり宙に浮かび進み出す。人々の歓声が遠のき、祈りの鈴が風に溶けた。
アマネは胸に水筒を押し当て、ほっとため息をつく。シアンが後から車箱へ入り、手にはアマネの着替えが握られていた。




