迷いの儀
目が覚めると、天井には太い木の梁、空気は日向の匂いがした。
敷いた布団は軽い。胸の上まで掛け直すと、このまま二度寝したくなる。
「これは……夢?」
そっとあたりを見回す。畳の上、いぐさの青い香り。
枕元には水筒、ビー玉、たたんだ乾いた服、それから小さな鱗が一枚。
(夢じゃない……)
水をくぐり、龍に押されてどこかへ落ちた――その感覚が、ゆっくり戻ってくる。
喉が渇いている。水筒の蓋を回して、ひと口。冷たさが喉から胸へ落ち、乾きがすっと引いた。
「水筒……持ってきてて、よかった……」
ことん。戸がやさしく鳴いて開く。
「失礼しますよ」
白と灰を重ねた衣の男がひとり。背は高く、声は低い。胸元に細い印が縫い込まれている。
「気分はどうですか」
「あ、の……ここ、どこですか」
「日の国です」
「日本、ですよね? あなたはだれ?」
男は小さく首を振った。
「日本ではありません。日の国は光の守護者に守られている国であります」
「えっ」
「私はライ。水神を祀る神主様を補佐する神官でございます」
「私は……あまねです」
「時折、神が住まう世界から迷い人がやってきます。貴方はこの世界に迷い込まれた。これは神の導き。――これからこちら側に適応するための儀式を執り行います。ご準備を。明日の祭事までに済ませることがございます」
ライが手を打つと、奥の簾の向こうから白い和服の女が入ってきた。盆を静かに運んでいる。
理解が追いつかないまま、天音は震える声でたずねた。
「あの……帰れますか? 帰り道は?」
口から言葉がわなわなと溢れる。母と父の顔が浮かぶ。もう会えないの?――涙が勝手にあふれた。
ライは少しだけ目を伏せる。
「道は一方通行です。戻れた方は記録上おりません。……ご理解ください」
ゆっくり、落とすように言い、天音の手をそっと握った。
天音は急な別れに胸が詰まった。
「お母さん……お父さん……もう会えないの?」
涙は止まらない。ライは女から盆を受け取り、畳の上に置いた、その時――
シャリン……シャリン……。鈴の音が細く続く。
『アクィロ様が御通りなさいます』
廊下を人の気配が渡る。布の音、低い囁き、遠い鈴。
奥の簾のすきまを白い髪が一瞬だけ横切った。天音と同じくらいの少年。目は朝の水みたいに淡い色。人の列はそのまま過ぎ、静けさが戻る。
ライと女は、いつのまにか廊下側へ深々と礼をしていた。
「これより神主様は水儀を行われます。また、明日の儀式までお力添えもいただけます。――あまね様も、儀式のご準備を」
ライが顔を上げ、まっすぐ天音を見る。
「水儀……?」
「この世界は水が乏しい。私どもは神主様が召喚なさる水がなければ生きていけません」
ライは衣装箱を差し出した。
「明日はこちらを。――少々、お手を」
そのまま天音の手を取り、刃を軽くあてた。
「いたっ!!」
指先から血がにじむ。ライは小皿にそっと受け、終えると手早く包帯を巻いた。
固まった天音の背後に、女の鋏がふっと入る。髪を少し切り、紙に包む。血の皿と髪包みを抱え、女は簾の奥へ消えた。
「こちらはお食事です。必ずお召し上がりを」
盆には、どう頑張っても食べ物に見えないものが並ぶ。透明な薄い膜、青緑の苔のような塊、砂のような粒。
天音は声にならない声で泣いた。
しばらく側にいたライは、深いため息をひとつ残し、どこかへ去った。
――泣き疲れて顔を上げたとき、外はすでに暗く、人の音は消えていた。
襖の先の戸に鍵は無い。
裸足で廊下を進む戸をそっと開ける。廊下は月の色に薄く光っていた。板のきしみを避けながら進む。角を曲がるたび、すっと冷たい空気が流れてくる方へ。
どこまでも続く廊下にこの屋敷の広さを感じた。
隙間風を感じる。外が近い、戸を開くと…
外の空気は土と緑の匂いで溢れていた。
飛び石が白く浮かび、苔がやわらかい。虫の声が、遠くも近くも同じ音量で耳に入ってくる。
庭の奥に、浅い石の鉢――水を受ける手水のようなものがあった。縁に触れると、月がゆらりと割れて、静かな波紋がひとつ。
天音は気がついた…
「月が2つある……」
ここが地球じゃない事を再認識した。
しゃがみ込んだ天音は、まだ現実を受け入れられなかった。
「お母さん…お父さん…帰りたいよ…」
天音が泣いている様子を遠くから見ている人影がある。その人影は、天音に近づいていくごとに、黒から白く輪郭へ…
輪郭がしっかりする頃、声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
その人は廊下を通った白い髪の少年――アクィロだった。月明かりに、髪が雪みたいにほどけている。目は湖みたいに淡く、まぶたに落ちる影まで静かだ。
「えっ…」
天音は、気づいてゆっくりと顔を上げた。
思ったより幼い。けれど、声は驚くほど落ち着いている。
「今日は、疲れたよね。色々と言いたい事あるんだけど……あの、この国を救ってくれてありがとう」
天音は、驚いてアクィロを見つめていた。
「……」
「ぼくはアクィロと申します。あまねさん、貴方の名前は何と書くのか教えてもらえないかな?」
優しい声は、庭の空気ごとやわらいでいくみたいだった。
「私はあまね……天に音って書くよ……」
「天に音?こうかな?」
アクィロは、指を使って地面に文字を書いた。
それは漢字ではなく、別の言語で天音は地面に、自分の名前を書いた
『天音』
「天音の世界の文字は綺麗だね。ありがとう、ぼくの名前はこう書くんだ。」
そう言いながら、文字を書く。天音はアクィロを見つめる…綺麗な横顔にこの世の者とは思えない作りに息を忘れた。
「天音さん。貴方はこの世界の救世主です。これから少し大変だとは思うけど…ぼくは天音さんを元の世界に返すから安心して欲しい。」
天音は見惚れている自分に気づいた。慌てて自分が書いた名前をみる。
「わたし……帰れないって、さっき言われて……」
声が震える。
アクィロは、少しだけ眉を寄せた。
「必ず返すから」
言い切った。迷いがない。刹那な笑顔で天音に言った。
「それがぼくの願いだから」
儚い……壊れそうな笑顔
「指貸して」
アクィロは天音に近づき、指先の包帯を解いた
「痛かっただろうに」
というと、天音の指を咥えた。
「え!汚いよ…」
「ほら治ったよ」
天音は、胸の奥の不安が少し和らいだ変わりに、心臓が高鳴って煩い。
指を見ると傷が消えていた…魔法を見て天音は声が裏返る。涙がボロボロ出てきた。
「ほんとに?私帰れる?」
「約束する」
アクィロは庭の手水に視線を落とし、それから天音の手元へ視線を移す。
「その水筒は、君の世界の水だね。ここではかけがえのないものだからだいじに。できるだけ使わないで。……でも、どうしてものときは、君だけのために使って」
天音は、ぎゅっと水筒を抱えた。
「………わかった。だいじにする」
風が、ほんの短い間だけ、二人の間を涼しく通った。
アクィロはその風の終わりまで黙っていて、やがて小さくうなずいた。
「戻ろう。夜は冷えるからね」
庭の端の灯がちろりと揺れた。天音の涙も乾いていた。
部屋に戻るころには、さっきより心臓の音が静かになっていた。水筒を抱き抱えて布団に潜る。
瞼の裏に、青い龍の鱗が揺れた。
――――
朝日が差し込む、戸が小さく叩かれた。
「あまね様、失礼いたします」――ライの声。
女に手伝われ、天音は衣を重ねる。麻、薄絹、帯。袖の重みで、自分がこれから儀式に向かう事を思い知らされる。指先にあった包帯が消えて、傷が治っている様子をライは、一瞬確認して軽くため息をついていた。
「あまね様、こちらをお飲みください」
器には緑色の液体が入っていた。香りは抹茶に似ている。天音は恐怖から飲むのを躊躇った。
しかし、ライは無理矢理天音に飲ませる。口に含んだら甘い味がしたせいか…天音は一口だけ飲んでしまった。
廊下へ。朝の匂い――木、紙、淡い香の煙。ふわふわした足取り…地面は揺れている。角を曲がるたび、人だけど人じゃない影が行き交う。長い耳、頬の薄い鱗、額の小さな角。目が合えば誰もが浅く礼をして通り過ぎる。(こわい……けど、止まれない…)
心臓は早く、足は不思議と前へ出た。
祈りの間は石の床。円い天窓から朝の光が一本、静かに落ちている。中央に低い卓、白い皿が三つ。
皿の上はやはり食べ物に見えない。透明な虹色の艶やかな塊と芝生の生えた四角い何か…黒い豆の様な何かが並ぶ
天音は、その膳の前まで導かれ、座る様促された
「お受けください」
ライの声は静かだが、逃げ道を作らない。
天音は手を伸ばして――口の近くで止めた。
鼻先の匂いは土に近い。――お腹は空いているが、知らない物は食べてはいけない。
「……い、いらないです。今は」
自分でも驚くほど声が細い。
ライは深いため息をつく。(辛くなるだけなのに)と呟いていた。
重々しい空気が張る。衣の裾がすりと鳴り、和服を着た人ならず者が、天音に深々とお辞儀して通っていく。
猫、蛙、狐そんな見た目を確認する余裕も無く、恐怖を感じる事もできないくらい、天音の意識はふわふわとしている……
そのとき、奥の戸が音もなく開いて、白い髪の少年アクィロが入ってきた。両手に大きな杯。
杯には少量の水が入っていた。アクィロは卓の前で立ち止まり、目を伏せ、短く息を整えた。
「神水よ、帰命清浄水天――、いま此処に満たしたまへ」
言葉が水に触れたみたいに、空気がやわらぐ。
杯の水が盛り上がり、縁から水が止まず溢れ出る。水は流れ湖に行き着いて行く。水は少し色付いていて緑がかって艶のある色をしていた。
水が止まり、杯の中の水が緑色に変わった
それをアクィロは、天音のそばまで運ぶ
アクィロは天音の前に膝をつき、杯を差し出した。その顔は何処か申し訳なさそうで、下を向いたままである。
背後でライの掌が、そっと天音の後頭部を押す。
「神主様、ありがとうございます」
天音は、ふわふわする意識の中で杯を受け取る。
「さぁ飲み込まなさい」
天音は言われるがまま縁に口を寄せ、ほんの少し含む。
ずるずるずる。
舌の裏から虫が走るみたいなぞわぞわが、一気に全身へ広がった。喉の奥がきゅうっと縮み、胃のあたりで何かが裏返る。
「ゲホ!!――っ」
咳がせり上がり、涙が出る。身をそらした天音の肩に、ライの手が重く乗る。
「すべてお受けなさい」
「む、無理……です…!」
「これは全て貴方の為なのです!」
ライは天音の髪を掴み、鼻をつまんだ。女が杯を天音の口を開き無理矢理流し込む。
杯の水が喉に触れるたび、熱が走る。熱いのに冷たい。焼くみたいで、溶かすみたいで、骨の近くをこすり上げてくる。
世界の輪郭が砂絵みたいにくずれ、耳の奥で細い鈴が鳴り続ける。足のつま先が遠い。
「もう良い。」
アクィロの声が落ちた。短いのに、よく響く。
色白い指先が、天音の胸の真ん中――熱の芯にふれる。そこだけ、ふっとやわらぐ。
「ゆっくり…」
少年の一言で、ライが慌てて杯を差し出す。アクィロは、自分の手のひらに水をすくい、天音の口に運ぶ。
天音の中にある激痛が消えて意識がはっきりしてきた。
「ゲホゲホ……アクィロ…」
「この子の器は、まだこちらに合っていない、急いだら死んでしまう」
アクィロは天音を抱き支える
「大丈夫か?すぐ楽になるから…」
声は大きくない。
天音は、空気を探すみたいにゆっくり息を吸う。胸の焼けは弱まり息が吸える様になった。
杯の縁に揺れる水の線から、どうしても目が離せない。あれが怖い…
アクィロが天音に触れてると、まぶたが重くなる。
洞窟の天井が遠く、ここは天音が落ちて来た湖の側である事に気づく。
自分の手元を見ると、3つの皿には握り飯と、餅と、大豆が乗っていた。
「どういう事……?さっきまで芝生だったのに…」
天音はあたりを見回すと、先程まで人外だった者が人間の姿になっている事に気がつく。
「あなた、さっきトカゲだったのに…なんで、、どういうこと…?えっ…夢なの?」
アクィロがほっとした様子。アクィロはライに濡れた膳を下げさせた。新しい皿にはおにぎりが乗っていた。
『天音の世界の、おにぎりを作らせたのだ。食べてみて欲しい』
天音はおにぎりを掴み、一口食べる
「美味しい…」
一口食べると、ふつふつと気力が湧いてくる。不思議なおにぎりで、天音は涙をポロポロ出しながら食べた。
周りの人達が拍手をする…そんな、異様な儀式は無事終わった。




