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神遺界-水の消失-  作者: 鐚銭
神遺界への迷い
2/7

夏の龍の導き


 朝から蝉がうるさい。教室の窓を開けても風は入らず、扇風機は同じ場所の空気ばかりをかき回している。

 黒板の前で先生が「ここ、大事だぞー」と言うたび、チョークの粉が白く舞った。


 天音は汗で少し重くなった前髪を指で払って、ノートに数字を書き写す。隣の席のさきが小さなメモをひらりと見せてきた。

(放課後:公園 水風船! ※ラムネ!)

 見た瞬間、頬がゆるむ。天音はうなずいて、親指を立てて返した。


 四時間目が終わると、一斉にいろんな音が立ち上がる。いすの足がきしむ音、ランドセルの金具が鳴る音、笑い声。夏の教室は、それだけでにぎやかだ。

「なあ、今日ってさ――」

「行く行く、絶対行く!」

 男子の翔太が身を乗り出してくる。天音の頬がすこし赤くなる。

「水風船、俺んとこでも用意しといた。けど足りないかも」

「じゃあ、コンビニで買い足そう。ラムネもね」

「私、昨日六本買った」

「オレ、青のやつ好き」

「青? 私が買ったのは透明なやつかな」

「青はソーダじゃん。行きがけに買ってくるよ、みんなで分けよ」


 笑いながら、天音は昨夜ノートに写したポスターを思い出す。

(また見たいなぁ……)

 胸の前で小さく拳を握った。



 チャイムが鳴るやいなや、廊下に生徒が流れる。

 天音はまっすぐ帰宅して「ただいま!」と靴を脱ぎ、ランドセルを部屋に置くと、財布をかばんに入れて玄関へ引き返した。

「どこ行くの?」と台所から母の声。

「公園!」

「ラムネ、持って行くんじゃないの?」

「忘れてたー!」

 冷蔵庫から冷えたラムネを取り出す。かばんに入れて玄関に走りだす。

「門限、守るんだよー」

「はーい!」


 外はやっぱり暑い。アスファルトがじりっと光っていて、通りの向こうに陽炎がゆれる。



 公園には、もう半分くらい集まっていた。

「遅いー!」

「ラムネ、冷えてる?」

「冷蔵庫に入れといたから、めっちゃ冷えてるよ」

 わちゃわちゃと手が伸びる。

「ラムネ開けるの苦手なんだよね」

 そう言いながら、みんな器用にビー玉を落としていく。


 天音は一本のラムネを両手で包む。瓶口にプラの栓をのせ、ぐっと押し込む。ビー玉がストン、と落ちた。

 炭酸の泡が立ち上がって、丸い玉の向こうで世界が少しゆがむ。

 玉の輪郭が、じり、と震えた。


 笑い声が、噴水の水しぶきと混ざって広がる。


(……あ)


 海の色をした龍が、玉を抱えて、水の中をすべるみたいに泳いでいく。

 どこか遠くで、小さな鐘の音が鳴る。

 耳の奥がきゅっとなる。胸の鼓動が、ラムネの泡と同じ速さで弾んだ。


「天音、これ!」


 ハッ。

「……あっ、ありがとう」

 翔太が水風船の袋を渡してくる。

「もう準備できてるから。ほい!」


「よーし! 当てたら一ポイントな! なげろー!!」

 掛け声とともに、色とりどりの水風船が空に飛んだ。透明な弾が夕方の光を抱いて、はじける寸前の宝石みたいに輝く。


 ――ぱしゃん。


 横から飛んできた水風船が頬に当たって、冷たさが一気に現実を連れ戻した。

「きゃっ!」

「やったー! 命中!」

 翔太が両手を上げ、周りが「ずるーい!」「今のはナシ!」と騒ぐ。

 天音は笑いながら、顔の水を手の甲でぬぐった。さっきの景色は、泡のように消えている。

「……もー、やり返すからね!」

 ふくらませたばかりの水風船を思い切り投げる。弧を描く水の玉が、夕焼けの色をひとつ抱きこんで、噴水の前で弾けた。


 遊びは、暗くなるまで続いた。



 公園の水道で手だけざっと洗って、天音はラムネの空き瓶をコンビニへ返しに向かった。店先の返却ボックスには、〈空瓶はここへ/ビー玉は持ち帰ってOK〉と小さなシールが貼られている。

 瓶を入れる前に、天音はそっとビー玉を取り出して、スカートのポケットに落とした。丸い重みが、ひんやりと肌に触れる。


 帰宅を促す町内放送の音楽が遠くで流れはじめる。

(そうだ、ポスター)

 天音はふいに思い出して、昨日の電柱へ足を向けた。


 ポスターは昨日と変わらず、不思議な空気をまとってそこにあった。青い龍や蛇、動物たちと、見慣れない記号。絵のようでいて、ただの絵ではない。


 ふと、さっきの幻想を思い出した。あのポスターの龍が泳いでいた……そんな気がした。


 天音はポケットからビー玉を取り出す。夕方の残光を抱いた小さな球を、そっと片目に当てて、ポスターをのぞいた。


 ――ズズズズズ。


 紙の上の図と記号が、全然べつの並びに組み替わっていく。線はほどけ、丸は結び直され、細い印が形を変える。

 天音は息を呑んだ。

「え!? なんで!? あっ、メモ……」

 急いでポケットからメモを出す。うっすら濡れていたが、書ける。

 天音は理由は分からないまま――ただ、これは写さなきゃ――と手を動かした。


 もう片方の手でメモ帳を開き、見えるかぎりを書き写す。絵とも文字とも言えない、不思議な並び。ビー玉を少し傾けるたび、配列がわずかに変わる。

(動く……けど、ここは一緒)

 何度も確かめ、変わらない部分を優先して写し取る。点、線、短い印。数字のようで数字でないもの。龍や亀や虎……。


 興奮が指先に残ったまま、書き終えたとき、ビー玉はほんのり体温を吸ってぬるくなっていた。



 帰宅すると、玄関にせっけんの匂いが残っている。お風呂あがりの家族の匂いだ。台所では母がタオルをたたんでいた。

「ただいま!」

「おかえり。汗でびしょびしょじゃない。お風呂入ってね」

「あー! うん! あのね! すごいことがあって!」

 天音は母にかけよる。


「ねぇ! お母さん。青い龍と白い虎が描かれてるポスターがあったの! それをビー玉でのぞいたら絵が変わって、龍がぐわんってなって!」

「あら、なにそれ? トリックアート? 近くでお祭りでもあるのかしら」

「え? 分かんないけど……メモしてきたから見て」


 天音は小さいメモ帳を開いて見せる。母はタオルを畳む手を止め、少し首をかしげた。

「この文字……お墓の後ろに立ってる木の板の文字に似てるわ。えっと、梵字ぼんじ? サンスクリット語って、お寺で聞いたことある」

「梵字……?」

 天音はメモに目を落とす。

 鳥、龍、亀と蛇、虎――記号の間に、くるんと巻いた見たことのない字がならんでいる。

四神しじんって聞いたことある? 東が青い龍で、西が白い虎。南は朱雀すざく、北は玄武げんぶ……だったかな。方角の守りの神様って、おじいちゃんが言ってた」

「方角の、神様? パソコンで調べたら出てくる?」

「出てくるかしら。多分? 分からないけど」


 胸の中がまた、灯る。

「お母さん、ありがとう。明日、学校の図書室で調べてみる」

「うん。夜更かしはだめよ。明日、眠くなるからね」

「分かってるってば。お風呂入ってくる」



 図書室は少しひんやりして、紙とインクの匂いがした。

 パソコンで「しじん」を検索すると、“東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武”と出てくる。

「かっこいい名前」

 さきがのぞき込む。

「これを調べて何になるの?」

「暗号、解読してる。気になることあって」


 棚の検索で「サンスクリット」を入れると、ヒットが一冊。

「B‐25……あった!」

 分厚い本を開くと、ポスターにあったのと似た丸い字が、びっしり並んでいた。文字の横に小さなローマふりがながふってある。

「これなら、私でも何とか調べられるかな」

「げぇ……なんか英語でもない辞書持ってどうしたのよ天音……」

「ローマ字なら読めるでしょ? 意味、日本語で書いてあるし」

「大丈夫? 知恵熱でない?」

「出たら冷やしてね!」

「………」


 放課後、天音はその分厚いサンスクリットの本を借りて帰った。

 ランドセルにずしんと重い。胸はもっと重い――いや、わくわくで軽い。


「ただいま!」

「おかえり。……あれ? もう夏休みだっけ?」

「ちがうよ。本、借りた! サンスクリット調べるの!」

「あれま。……パパ、今日は雨降りそうかしら?」

「いや雪かな」



 夕飯とお風呂をすませ、机に本をどんと開く。ページ一面の、くるんと丸い見慣れない字。

 まずは形を一つだけ確かにすることに決めた。


 ポスターで何度も見た“右に棒、上に水平線、輪っかが小さく跳ねる字”をノートに大きく写す。

(これ、य(ya)……かな。でもव(va)にも似てる)

 ループの角度、棒の長さ、上の横線の幅を、見比べては消しゴム。十回以上書き直して、やっとय=yaに丸をつけた。

 ノートの端に小さく「ya」。

 そこまでやったら、もう瞼が重くて、ビー玉を灯りに透かしたところでストン、と眠りに落ちた。


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