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神遺界-水の消失-  作者: 鐚銭
神遺界への迷い
1/7

プロローグ



 夏の夕暮れ、街はまだ熱を吐き出していた。

 アスファルトから立ちのぼる陽炎のゆらめき。ネオンの灯りが点き始め、遠くで電車の走る音が響く。


 塾を終えた天音は、友達のさきと並んで歩いていた。


「今日の算数、むずかしかったね」

「うん。でも国語よりはマシじゃない? あの漢字の書き取り、ほんとやだ」


 二人で笑い合う。塾の帰り道、ほかの子どもたちが前を走り抜けていく。焼き鳥の匂いが商店街に漂い、コンビニの前では中学生がアイスを食べていた。都会のざわめきに、自分たちの笑い声も混ざる。


「じゃあ、また明日ね! 公園で水風船するんだから、忘れないでよ!」

「わかってる! ラムネも持ってくから!」


 さきが人混みに消え、天音はひとりでコンビニへ入った。



「いらっしゃいませー」


 冷房の冷気が火照った体をひやりと包む。天音は飲み物コーナーへ向かい、ラムネを五本まとめてかごに入れた。明日、みんなで飲むためだ。ビー玉入りのガラス瓶が軽くぶつかり合い、コトンと音を立てる。夏が少し特別なものに思えて、胸が弾んだ。


「明日、楽しみだなぁ。翔太も来るって言ってたし」


 レジにかごを置くと、年配の店員が一本ずつ数え、顔を上げた。


「お嬢ちゃん、いま一本買うともう一本無料のキャンペーンなんだよ。一本、足しとくね」

 そう言ってレジ裏からラムネを取り出し、袋に入れてくれる。


「じゃあ、合計は四三九円ね」

「えっと、パスコで!」

「はい、ありがとうございます。レシートね。」

「ありがとうございます」


 会計を済ませ、天音は袋を提げて外へ出た。

夏の始まりなのに、空気はまだじわじわと熱い。自転車のかごにラムネと塾のカバンを入れ、この時間帯は歩行者優先の商店街を、自転車を押しながら進む。


 帰宅ラッシュのサラリーマンと肩がかすかにぶつかり、天音はよろめいた。倒れかけた自転車を慌てて支える。


 ――そのとき、視界の端に妙なものが映った。


 古びた電柱に、一枚のポスターが貼られている。


 周囲の新しい広告やチラシとは明らかに違う。端は色あせ、雨に濡れてしわが寄っているのに、中央の文字と数字だけが鮮やかに浮き上がって見えた。


「……なにこれ?」


 天音は足を止め、じっと見上げる。青い龍、甲羅の亀、絡み合う蛇――そんな図が、記号のような数字と並んで描かれている。


 意味は分からない。ただ、その美しさと不釣り合いな冷たさに、胸がざわついた。


 指先で紙に触れる。ざらりとした感触の奥で、ひやりとした冷えが走った。まるで、生きものの皮膚に触れたような。


 鳥肌が立ち、息が詰まる。


 そのとき――背後で自転車のベルが鳴り、はっと我に返った。

 振り返ると、見知らぬサラリーマンが「危ないよ」と苦笑して通り過ぎていく。


「あ、すみません!」


 慌てて頭を下げ、腕時計を見る。針はもう六時を回ろうとしていた。門限を過ぎれば、母に叱られる。


「やばっ……!」


 天音はペダルを踏み、街を抜ける。遠くで花火の音が鳴り、夕暮れの空は赤紫に染まっていた。けれど、さっきのポスターに刻まれた動物の図と謎の文字は、頭からどうしても離れてくれない。



 お風呂上がり。

 窓を開けても風は入らず、湿った夜気が部屋にまとわりつく。天音は机に突っ伏し、汗ばんだ額をノートに押しつけた。


 あのポスターを思い出すままに、見た図柄や数字を書き写す。意味は分からないのに、胸の奥がすこし躍る。


「……暑い」


 部屋の明かりを落としても、まぶたの裏にポスターの文字が残り、じっとこちらを見返してくる。


 ――まるで、呼ばれているみたいに。



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