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死に損なった私の釣り日和

 あの日から私はずっと死に続けているのだと思う。

 横になって目を瞑ると浮かび上がるのは最後に振り返る花梨の表情。驚愕、憤怒、絶望、悲哀。ありとあらゆる負の感情が目まぐるしく変わるよう。

 私は廃ビルの屋上から落下する彼女を見下ろしている。

  地面に衝突する寸前。彼女の口唇が言葉を紡いだ気がした。

「嘘つき」

 数十メートル先で呟いた言葉など聞こえないし、唇の動きをみることなんて本当はできない。それでも、そう感じたのだ。

 言葉が脳を理解して全身に鳥肌を巡らせた瞬間と、花梨がコンクリートの地面に叩きつけられた一瞬は同時だった。

 後頭部から落下した彼女の首はあらぬ方向に曲がり、大量の血液を頭から吹き出していた。鮮血はどす黒く地面を染め上げ、飛び散った赤い模様は規則的に放射して花火を打ち上げる。

「ごめん……なさい……」

 口から零れる言葉をこらえることはできず、私はその場で膝を付いて慟哭していた。

 私は彼女との約束を守ることができなかった。

 花梨と一緒に飛び降りて死ぬことができなかった。


 目を覚ますと、大量の寝汗が不愉快だった。エアコンのない祖母の家で夜を過ごしたことだけが原因ではない。私が死に始めた日から、悪夢を見ない夜はないのだから。

 肌に貼り付く衣類が気持ち悪い感覚は残るが着替える気にもなれず。私は薄い布団の上で膝を抱えて疼くまることしかできないでいた。

 朝日を身体に浴びると全身が焼け爛れるように錯覚する。蒸し暑いのに、毛布を頭から被る。薄っすらと透けた光が私の腕を照らすと、幾本もの傷痕が重なって膨らむ。生白く、骨ばった皮膚は歪。昔の罪人は墨を入れられたというが、私にとってそれと同じだった。

 花梨と生死を分けたときから私は外に出ることができなくなっていた。

『あれが樹里って子? 飛び降りて死に損なったんだって?』

『私は友達を突き落としたって聞いたけど』

『どっちにしろロクな子じゃないね』

 いっそのこと耳を切り落とそうと考えたこともある。考えたせいで、耳たぶが若干長くなったがまだ頭には耳が健在だ。

 否定するために口を開こうにも、声帯が無様に震えるだけで言葉にもならず。いや、たとえ言い訳したとしても私の評価は奈落である。

 私は花梨を、親友を裏切ったのだから。

 花梨は私の幼馴染だった。とりたてて不幸な境遇で育っただとか、酷い学園生活を送っていたとか。そのような人生を過ごしていたわけではない。自殺に踏み切ろうと考えた理由をつけるのであれば、それは彼女が悲観主義者(ペシミスト)であったことだろう。

 現代人であれば将来に不安を持つことは決して不自然ではないし、私もそうだ。それが少し、花梨は大きかったというだけの話である。

『一緒に死んで』

『いいよ』

 花梨は進んで、私は進めなかった。

「樹里ちゃん!」

 障子が開くと同時に日光が肌を焼く。耳に届く声は従姉妹の千夏の少し低い声だった。肌は日に焼けており、朝日を背にした千夏は黒く影をまとっていてよく顔は見えない。

「久しぶり! うち中学生になったよ。樹里ちゃんに見せたくて夏休みだけど制服で来てしもうた」

 明るさに目が慣れてきたころ、千夏は得意気に回っていた。彼女の回転に合わせて膝下のスカートが踊っている。

「千夏。久しぶり。せっかく来てくれたけど私は……」

「聞いとるよお。元気のうなってしもうてるんよね」

「だからごめん。あなたと遊ぶ元気は……」

「そんなたいぎいこと言わんで。じゃあ行くよ」

「行くって、どこに」

 千夏は私の手を引いて、幼く笑った顔で言った。

「釣り」


 千夏は私の三つ下であるが、手を引く彼女の力に私は逆らえなかった。ずっと部屋に引きこもっていた私の非力さは二人の年の差を容易に上回っていたからだ。

 部屋着だけは着替え、薄手の長袖とパンツだけ身にまとい、私は山を登った先の渓流に連れてこられていた。

 熱中症になるからと渡された帽子は真っ赤だった。贔屓の野球チームのグッズだとか何とか言っていたが、よくわからなかった。

 千夏は二人分の竿に加えて、大きな箱を肩掛け鞄のように運んできていた。川辺りで箱を開くと、手慣れた様子で仕掛を作り始めていた。

「はい」

 千夏に渡された竿は私の背丈よりも大きかった。そのくせ細くてよくしなり、折れないものかと不安になる。

「エサ、付いてないみたいだけど」

千夏の荷物にもルアーや疑似餌らしきものは見えない。

「じゃけん、現地調達じゃ」

 千夏が大きな石をひっくり返すと、小さな虫が日射しに驚くように広がる。千夏はそのうち一匹を捕まえると、私に差し出してきた。

 昔は虫なんて見るのも嫌だったはずだが、不思議と嫌悪感はなかった。千夏は自分の分も確保すると、私に手本を見せてきた。

「こりゃあカワムシ。こうやってな、背中にチョンと針を刺しゃあええけん」

 手本に見習い、針を虫に、命に刺す。針を刺されたカワムシは暴れている。私は命を使って釣りをするのかと思うと吐気が止まらない。

 気分が悪くなり、私はその場に膝を抱えて座り込むしかなかった。

「樹里ちゃんは仕方ないなあ。竿は投げとくけえ、ちいと休んどって。向こうは流れが速いけえ近付いたらつまらんよ」

 それだけ言うと、千夏は私から離れていった。緩やかな流れにそっとエサを落とし、川面をじっと見ている。

 ようやく静かになったと思ったのに、私の頭には花梨の声が響き始めた。

『いい気なものだね。虫の命を使って、魚の命を弄んで。私も同じだったのかな』

 違う。本当は私だって一緒に飛んであげたかった。勇気が出なかったから。

『人の命を奪っておきながらのうのうと生きてるんだ』

 生きられていない。死のうと何度も試みた。

『ところで後ろの川、流れが速いね』

 振り向いた先の川は急流。千夏が釣りをしている方とは対照的で、岩に打つかる波も白く泡立っていた。きっとここに飲まれれば。

『こっちにおいで』

 吐気は治まっていない。私は夢遊病患者のようだった。ふらふらと亡者のように歩きだし、靴のまま浅瀬に入る。

 こんなに暑いのに、こんなに冷たい。靴下が、パンツが、冷水を吸い上げて重い。

 足元から広がる不快感と、真夏に凍える冷たさは全身に広がる。脛、腿、腰、胸、指先、そして脳まで凍りつくよう。

 たぶん流れに全ての身を任せてしまえば、死に続けてきた私の命は終わりを告げる。そう、このまま前に一歩倒れ込めば、花梨のところへーー

「行かんの?」

 振り向くと千夏。気がつけば彼女は急流側の岸まで来ていた。

「この先はもっと流れが速いけん。水もひやいし、簡単に死ねるよ。ほんじゃが一歩進みゃあ、もう戻れん思う」

 花梨を裏切った私は死ななければならないはず。だけどいつも、最後の踏ん切りだけはつけることができないでいた。

 袖を、腕を抱えて私はしゃがみ込んだ。

「うちゃ止めんよ。樹里ちゃんが決めりゃあええ。ほんじゃが生きたいなら生きてええんじゃない?」

「千夏に私のことなんてわからないでしょう! 安全圏から優しい言葉をかけるのはやめて!」

 感情と私の足は同時に立ち上がる。しかしここは浅瀬とはいえ川の急流。私の体勢が崩れて流されるのは自明であった。

「樹里ちゃん!」

 差し出される千夏の手。生への執着。そう、この手を取らなければ私は楽になれる。もう花梨の声を聞かなくてもいいし、また花梨に会えるかもしれない。

 そのはずなのに私は。


 ああ、なんて醜い。あれほど死を渇望していたはずなのに私はまた生きている。明日こそは死ぬ、明後日こそは死ぬと何度自分を刻んできたのか。

 結局今日も、私は千夏の手を掴んでしまったのだ。

「どうして助けるの。私は死にたいのよ」

 私が腕を捲り上げると、数え切れないほどに勇気を出し損ねた醜い傷痕が白日に晒された。死に続けている私に相応しいが、なんて愚かしい姿だろう。

「樹里ちゃんは生きたがりなんじゃの」

 千夏はにこにこと笑顔を絶やさずに言った。私が? 生きたがり?

「だってそうじゃろう? さっきもうちの手を掴んだのは樹里ちゃんだし、その傷も最後まで引ききれとらんのじゃもの。死にそうになっても、懸命に生きようとする樹里ちゃんは生きたがりじゃ」

 頭を氷で殴られたような気分だった。衝撃とともに受けた冷静さは、熱で暴れていた私の脳を落ち着かせるには充分。

 千夏の言う通りだった。私は生きたかった。花梨を心配したのも事実であるが、それ以上に私は生きたがりだった。だから一緒に飛んであげられなかった。

「いいのかな? 私、生きようとしてもいいのかな?」

「なして樹里ちゃんが元気ないなかしてしもうたのかまでは、うちゃ知らん。ほんじゃが、生きたいんじゃったら生きりゃあええよ」

 いつまでも笑顔を絶やさず、前向きな千夏を見ていると、私もつられて笑ってしまった。

「そういえばさ、どうして釣りに誘ったの?」

「別に大した理由じゃなか。楽しゅう釣りをして、釣った魚を美味く食べりゃあ元気が出る思うただけじゃ」

「なあにそれ」とやはり私は笑ってしまった。

 私は釣りなんてやったこともないし、楽しさもよくわからないのに。千夏なりにきっと私のことを考えてくれたのかと思うと、やはり笑みが止まらない。

 こんなに笑ったのは久しぶりーーと気まぐれに竿を立てると、瞬間、凄まじい引きにまたも川に吸い込まれそうになった。

「当たりじゃ! 竿をもっと立てて!」

 千夏は私の腰を支える。彼女の指示に従っていると、竿から伝わる力が少しずつ弱まっていく。魚が疲れ、命をすり減らしているのだ。

 この引きは、命の力なのか。

「ヤマメじゃな」

 名前ぐらいはわかるが、実物を見たのは初めてだった。針を外し、陸に横たわるヤマメはパクパクと苦しそうに口を開いている。私が釣らなければこんな目に遭わなかっただろうに。

「どうする?」

「食べる準備はしてきたけど、どうする? 樹里ちゃんが決めてええよ」

「うん、食べるよ。食べるけど」

 私は千夏に手を出して道具を要求した。

「私がやる」

 今日、この時。私は命を食べることを決めた。花梨の死からずっと死に続けていた私は、その命を使って生き続けることになってしまった。

 ごめんね、花梨。きっとあなたの恨みが消えることはないのだろうけど、私は嘘つきで、生きたがりだったから。

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