幕間:厳冬の心は春をまだ知らない 前編
――ただ、抜け出したかった。あの渇いたような世界から。
物心ついた時から、私はただそれだけを願って生きてきた。
世界だけでなく、自分自身が渇いてしまうその前に。
それが私――シャムシエラ・ラトナラジュのたった一つの願いだった。
* * *
「――という訳で。アシュガル殿下との決着はついて、姫様たちとの婚約は流れたと思ってくれていいわ」
少しだけ呆けていた意識が、カテナさんの声で現実に引き戻される。
カテナさんがそっと息を吐きながら告げた言葉に、リルヒルテ様が安堵したように胸を撫で下ろした。
「カテナさんのことですから、心配はしていませんでしたが……改めて私からもお礼を言わせてください。ありがとうございました」
「私からもお礼を言わせてください、カテナ様」
リルヒルテ様に続くようにレノアさんもお礼をカテナさんへと伝えている。
二人からお礼を伝えられたカテナさんは気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「お礼なんて良いよ。あんな男にリルヒルテや姫様たちを嫁がせるなんてとんでもないからね。ただ、アシュガル殿下がこのまま大人しくしてるかって言われると、ちょっと不安だから気をつけてね?」
カテナさんの警戒を促す言葉を聞いて、私の心の中に冷たくドロッと濁った感情が沸き上がりそうになる。
その感情を誤魔化すように私は身を固くして、拳を握った手を胸に当てた。
「シエラも気をつけて……シエラ? 大丈夫?」
「……はい、大丈夫です。確かにアシュガル兄上……いえ、アシュガル殿下がそう簡単に諦めるとは思えません。十分に気をつけます」
「何もなければそれに越した事はないんだけどね。そうであって欲しいんだけどなぁ……」
はぁ、と深く溜息を吐きながら言うカテナさんを見て、冷たくドロドロしたものが心の底を這い回る。
その度に私は苦虫を噛み潰すようにしながら耐えるしか出来ない。……こんな感情を抱いているなんて知られたくないから。
この人たちはとても温かで、眩しいまでに輝かしい。
だから憧れている。一緒にいられたら幸せになれると予感させてくれるから。
共に歩めたら良いと思うの。だから、要らない。こんな感情なんて。
――あぁ、やはり殺しておくべきだった。
まるで囁くように自分の声が聞こえる。それは、私がずっとひた隠しにしてきた自分自身に他ならない。
(黙って……黙ってください……変わると、決めたんです。私は、変わるんです……この人たちと一緒に生きるために……)
決意を心の中で繰り返す度に、這い寄るように過去の記憶が私に追憶をさせる。
そうしてまた、過去が私を蝕んでいく……――。
* * *
――己の立場を弁えなさい。この国で生き残りたければ。
幾度も繰り返された叱責の声が聞こえる。
子供のために歌う子守歌。私にとって、その叱責が子守歌のようなものだった。
私はラトナラジュ王国の国王と十九番目の側室の間に生まれた第三十七王女。
王族としての序列から見れば最底辺にも等しい名ばかりの王女として私は生まれた。
子守歌代わりの叱責を繰り返すのは、血縁上の母だった。
母は私に愛情なんて与えてくれなかった。ただ、ただ、毎日繰り返すように魔法の腕を磨かせた。
母は優れた魔法使いで、その才能が見込まれて半ば強引に側室へと娶られたのだと知ったのはいつの事だったか。
来る日も、来る日も、与えられた課題をこなす日々。課題をこなせなかった時は厳しく叱責された。褒められたことなんて……一度もなかった。
――お前は名ばかりの王女です。決して王族としての恩恵に与れると思わないことです。
母の魔法を相殺しきれず、倒れて泣きじゃくる私に母は手を差し伸べてなんてくれなかった。
立ちなさい、と繰り返すだけ。立てないならば、死ぬだけです。だから立ちなさい、と。泣いても、喚いても、母は私が立つまで言葉で打ちのめすことを止めなかった。
そして立ち上がっても痛く、苦しく、辛い魔法の訓練が始まる。立っても、蹲ってても、私に安息の時間なんてなかった。
夜が好きだった。誰もが寝静まる時間だけが私にとって安堵の時間だった。
朝が嫌いだった。朝を告げる扉をノックする音と、母の声が何よりも恐ろしかった。
許してくださいと何度も泣き喚いた。いつしか、泣き喚いても意味がないと涙すらもこぼさなくなった。
痛くても身体を動かした。本当に無理な時は、いっそ気絶してしまった方が楽だと悟った。その時だけは、母も私に何もしてこなかったから。
――シャムシエラ、痛いですか? 苦しいですか?
思い出したように、母は私にそう問いかけてきた。
最初の頃は、ただそのまま素直に答えていたような記憶がある。その度に母は言った。
――よく覚えておきなさい。貴方が目立てば、それ以上の苦しみを味わうことになります。
――目立とうなどと、助けを求めようなどと思わないでください。誰も貴方を助ける者など、この国にはいないのです。
――強くなりなさい。誰よりも、何よりも。そして、誰にも悟られてはいけません。
母はただひたすらに私を鍛えた。同時にその鍛えた力を誰にも晒してはいけないと強く戒めた。
誰にも咎められないように、見つからないように、利用されないように息を潜めなさい。潜められなければ、貴方はもっと苦しい目に合うでしょう。
繰り返される言葉は、私を縛り付ける鎖のようでもあった。泣きじゃくった時期を過ぎてしまえば、母の言葉にただ頷くだけの私が出来上がっていた。
母は魔法だけでなく、言葉や文字、王女としての立ち振る舞いも教えてくれた。知れば知る程、母が執拗なまでに目立つなと繰り返したのか朧気ながら理解する。
力だ。ラトナラジュ王国は力が全てだった。だから……力を持っていることを悟られれば、骨の髄までしゃぶり尽くされる。
でも、母は矛盾していた。力を磨けば、王女として認められるんじゃないのか? 私が序列の低い王女だから認めてくれないのか? どうして私がこんなに痛めつけられないといけないのか? あまりの理不尽に、いっそ狂ってしまえれば良かった。
――シャムシエラ。殺したいと思っていいのです。私の教えを守れないと思う程、貴方が辛いと思ったなら……殺しなさい。例え、相手が母であろうとも。
――情など持ってはいけません。情は力を鈍らせます。兄弟姉妹であろうと、誰も信用してはいけません。
――生きなさい。どんなに息を潜めてでも。だから、その殺意だけは手放さないように。
――でも。それでも、もし、いつか貴方がここじゃないどこかへ辿り着くことが出来たなら。
――貴方に植え付けた殺意が、薄れる場所に辿り着いたら、何があってもしがみつきなさい。
――強くなるのです、シャムシエラ。誰も貴方を害せない程に。
……何故、母がそう言ったのか。本当はわかってる。でも理解はしない。したくない。しようともしてはいけない。情を持ってはいけないから。だから、考えない。
息を潜めて生きる。母の教えの通りに、強く、殺意を捨てず、いつかこの冷たい心を消し去ってくれるものを見つけるために。
そうしなければならないと思った。そうしなければ、息が出来なかった。
――そして私はグランアゲート王国へとやってきた。そこで出会いがあり、暖かな陽だまりを手に入れたんだ。
カテナさんと出会った。私よりもずっと強くて、なのに真っ直ぐ生きている人と。
多くの出会いがあって、皆が私に笑いかけてくれた。その一つ一つが宝物のように胸を温めてくれる。
……それでも、心に染みこませた氷のような殺意を溶かすことが今の私には出来ない。
アシュガル兄上に詰め寄られた時、怯えていたのは恐怖からじゃない。
――……もう、殺すしかないかと考え始めていた自分が、何よりも怖かったんだ。
アシュガル兄上がどれだけ強かろうと、不意を打てば殺せる。寝込みを襲えば殺せる。油断をさせて心臓を潰してしまえば、それだけで終わる。
冷静に、冷徹に、冷酷に。私はあの瞬間、ただそれだけを考えそうになっていた。それがどれだけ異常なことなのかと理解出来るようになっても、この身に刻みつけられた反応は簡単に止まってくれない。
(……私は、〝普通〟に生きたい)
誰も信用せず、誰にも殺意を抱き、それを悟らせずに息を潜めるように生きることにはもう耐えられない。
この温かな日々を、私が私らしく生きることを教えてくれた人たちを、私はもう手放したくない。
(だから……お願いです。アシュガル兄上)
――これ以上、私に覚悟を決めさせないでください。




