第十七話 ラケッティア、沼屋敷の怪人。
アレクサンダル・スヴァリスの屋敷は沼のそばにある。
水は屋敷の裏手に走っていて、屋敷の正面には顎髭のようなコケを枝から垂らしたオークが並木道をつくる。
屋敷も庭園もあまり手入れされてるとは言い難いが、むしろそれがありがたい。
もし、潔癖症か何かだったら、行軍生活を送るのは無理だ。
氏族歩兵たちの食いっぷりと飲みっぷり、そして飲んだくれたときの騒がしさにとてもついていけない。
「その点、この屋敷はいいな。これだけ汚くしてりゃ、行軍中の野宿だってできるだろ?」
屋敷のノッカーを軽くたたくと、まもなく大男が現れた。
汚れたお仕着せに軍用の長靴、そこらの木の実から取れる油で固めたらしい黒い髪。
だが、じいさんというほどの歳ではない。
召使か、介護士か。まさか執事ってことはないだろう。
「アレクサンダル・スヴァリス将軍に会いに来た」
「元帥だ。言い直せ」
へーい。
「アレクサンダル・スヴァリス元帥に会いに来た。取り次いでくれるか?」
「ついてこい」
大男は客人に背を向けて(しかもそのうち二人は手練れの暗殺者)、のっしのっしと歩いていく。
「マスター、元帥ってこんな簡単に会えるものなの?」
「知らんよ。おれだって今日初めて会うんだから」
「おい」
と、大男。
「元帥閣下に会うんだろ? はやくこい」
「はいはい」
部屋のなかもめちゃくちゃ。
ビリヤード台の上に食いかけのチョウザメ。梁に並んだ空っぽの広口ガラス瓶。何枚も飾られたレモンの静物画。床に散らばった銀貨。飽きられた手風琴。同じく飽きられたらしい科学実験セット。
スヴァリス元帥は屋敷の裏にある桟橋にいた。
寝巻にスリッパで刺繍がほつれた元帥杖を指揮棒がわりにして、よどんだ水面に向かって、指揮をしていたが、本人はカエルの合唱団の指揮者のつもりらしい。
「そうではない、マルクス。もっと高らかに歌うのだ。ああ、ピトス。タイミングが早い。諸君、もっと大きな声を出してくれ。この沼の対岸で焼き栗販売ギルドの入団試験の勉強をしている赤毛のめくら男が驚いてしゃっくりをするくらいに」
うん。これは変人だ。
いや、思ってた以上にヤバいな。これ、もう痴呆が入ってないか?
「閣下、お客人を連れてまいりました」
「では、諸君。休憩にしよう」
元帥はカエルたちにそう告げて振り返った。
ゴボウみたいにひょろ長い老人だが、顔は少年みたいに夢いっぱいで肌もつやつやと赤らんでいた。
ひょうきんな目をした元帥は肩をすくめ、
「合唱団の入団希望者かね? 残念だが、入団はカエルに限られている。きみたちは見たところカエルではない。だから、合唱団に入ることはできない」
「ユリウス王子の命令で来たんだ」
「なんとユリウス王子。懐かしい御名だ。でも、ユリウス王子も合唱団には入れない。カエルではないからな」
「いや、王子は合唱団に入りたいんじゃなくて、あなたに軍師として力を貸してほしいんだ」
「それは形而上学的な話かね? それともアニミズム?」
「さ、さあ? たぶんアニミズムじゃないかな」
「それは素晴らしい! つまり、それはわたしが王子に軍師として力を貸さねばならない理由となろう!」
「へ、へー、そうなんスか。ちなみにもし王子がアニミズム的でなかったら?」
「残念だが、合唱団には入れない。カエルではないからな」
おれはマリスに耳打ちした。
「おい、マリス。いますぐ、ユリウスのところに帰って、解放軍全体をアニミズムにしてこい」
「構わないが、なんなのだい、そのアニミズムというのは?」
「おれが知るか。そら!」
マリスが行ってしまうと、おれはこのヘンテコな老人を連れて帰るべく、アニミズムを外れないよう、注意しながら、支度を整えてくれとせっついた。
「素晴らしい。アニミズムもきっと元帥が一刻もはやく解放軍に合流することを望んでますよ」
「そうだろうなあ。ウォーレス。わたしが留守のあいだ、合唱団のことを頼む。団員がナマズに食べられないよう注意するように」
大男にその他、カエルの合唱団のことを言いつけると、元帥はオツムがイカレかけてるやつ独特の熱情でアニミズムを説いた。
「この世の全てのものに魂が宿るということだ。もちろんカエルたちにも魂が宿る。魂があるから歌が歌える。違うかな?」
「いえ、その、違わないです」
「それにだ、他のものにも魂が宿る。チョウザメ、広口ガラス瓶、絵のなかのレモン、銀貨、手風琴、実験器具。すべてに魂がある!」
「そーですね……ん?」
チョウザメ、広口ガラス瓶、絵のなかのレモン、銀貨、手風琴、実験器具。
これはおれがこの屋敷に入ってから、注意して眺めたものだ。
しかも、見た順番通り。
このじいさん、いつの間におれの視線を盗んでたんだろう?
おれは古い軍用外套にせっせと袖を通そうとするこの変人を見た。
袖を通そうとすればするほど、外套は変なふうに折れ曲がり、ついには床にのたうち回ることになり、大男の召使ウォーレスが戻らなければ、そのままモダンアートになっていたことだろう。
見た目ほどイカれていないのかもしれない。このじいさん。
だとすると、とんでもなく油断のできない切れ者ということになる。
元帥が快活に声を上げ、はしゃいだ。
「外套が、着れた! もぐらが空を飛ぶように着れた!」
あるいは別の意味でキレちゃってるのかもしれないが。




