第二十四話 ラケッティア、尊厳と穴。
調子乗りましたすいません。
いや、ヴィクトルからはさすが犯罪組織のボスは脅し方が違うなとか褒めてくれたし、セディーリャからもヨイショされて、いい気分になって、で、ただいまセディーリャとふたりで岩の影に隠れています。
帰り道に待ち伏せしてやがった。
弓持った殺し屋が何人かいるらしい。連中が潜んでいるのは垂直の崖に組んだ足場らしく、上からビュンビュン矢を射ちおろしてくる。
「わたしはあまり暴力沙汰には疎いのですが」
と、セディーリャ。
「明日の朝といわず、あの場でやってしまえばよかったのでは?」
「いや、伏兵食らってるから、たぶんなにしようが、ここで弓に狙われるハメにはなったよ。しかし、うーん、参ったぞ。デカい口叩いたのはいいけど、ここから〈マンドラゴラ〉に戻るまでの安全が確保できてない。調子に乗っちゃった、てへっ」
隠れている岩はおれとセディーリャが隠れるには若干大きさが足りず、ちょっとだけはみ出たケツだのつま先だののそばをビュンと唸りながら、クロスボウの矢が飛んでいく。
心臓に悪い。こんな状況は絶対によくない。青少年の健全な育成によくない。おなかの赤ちゃんによくない。
でも、セディーリャは青少年って歳じゃないし、おれはもう健全な少年じゃない。
そして、どちらも妊娠していない。
と、いうことはこの状況はよくなくないということだ。
なーんだ、よくなくないんだ、と安心した瞬間、おれの頭蓋がビシッ!と音を立てた。
「ぎゃあ、撃たれた! セ、セディーリャ、確認してみてくれない? おれのおでこ、矢が貫通してない?」
「矢が岩にあたって、その欠片が額に当たっただけのようですね」
「マジ? じゃあ、おれ、生きてるの?」
空になったと思ってた銀行口座にまだ一万残ってた気分だ。
それにしても……。
一応、こっちもなんにもしていないわけではなく、交渉のテーブルにつく準備があることを示すために木の棒に白いハンカチ巻いてふってみたのだが、その白旗はここから五メートル離れた木道に串刺しにされている。
どうやら捕虜は取らない主義らしい。
「ちきしょー、そんなら、こっちも捕虜取らないぞ。虐待しちゃうぞ。ジュネーヴ協定なんざくそくらえだ。あとで後悔すんなよ」
ひゅーんと長めの矢が飛んできて、セディーリャの一番外側のカツラをさらっていった。
「あ、わたしのカツラが」
「あとで刺客どもの頭の皮を剥いでやればいい」
「魅力的なアイディアですが、問題はどうやって彼らのいるところまで近づくかですね」
その通り。
そこはスラムによくあるへこみの一つで、物置小屋が並んでいる。
そのすぐ上の岩棚から古い木材とロープでつくられた足場が失敗したあやとりみたいにごちゃごちゃにかかっていて、そこに三人くらいの弓使いが隠れて、おれたちを狙っていた。
やつらをとっつかまえて、頭の皮を剥ぎ、セディーリャの頭に乗せるには、まずおれたちの隠れている岩と崖の足場のあいだの約十数メートルを隠れるものもなく、必死こいて走る必要がある。
そこで射ち下ろされた矢が眉間にぶっすり深々と刺さるのは目に見えているが、もし幸運にもその無人地帯を突破できたとしても、複雑な足場の迷路みたいなのを上に這い上がらなければならず、そして、そこで殺し屋どもと対面したとしても、おれもセディーリャも頭脳労働者だから勝ち目は薄い。
「まあ、カツラの予備は〈マンドラゴラ〉にあるんですけどね」
なるほど。
では、先ほど述べた突破戦略は放棄してもよいか?
いや。それはだめだ。
むしろ、突破戦略をよい子のみんなに説明しているあいだに状況が変化した。
「……トイレ、行きたくなっちゃった」
セディーリャはあちゃあといった顔をした。
「我慢できないんですか?」
「待って、いま、ファースト・ウェーブが来てる」
そう第一波が来る。
きっついやつが来るのだ。
知っての通り、腹痛は波状攻撃を仕掛けてくる。
内股になって、必死こいて括約筋をぎゅっと閉めていると、とてつもない腹痛の波が襲いかかる。
それに耐えれば、少しの休息がもたらされるが、すぐに第二の波が来る。
そして、第二の波は第一の波など比べ物にならないくらいヤバい。
野グソするという選択肢はない。
いまおれたちが隠れている遮蔽物たる岩は野グソを許してくれるほど大きくなく、ケツを丸出しにした日にはケツの穴を矢で縫いつけられるのは間違いないから、ここでクソたれるわけにはいかない。
いまいましいことに物置小屋のひとつにトイレを表す表記がある。
ここから十メートルもないところにこの苦難からおれを救い出してくれる下水インフラの末裔が存在するのだ。
そこにたどり着けるなら悪魔に魂売る。
明日から語尾に「だや~」とか「なんよ~」ってつけてもいい。
だが、そうこう言っているあいだに第三波が来る。
その兆しはしきりにぎゅっと痛めつけられる下腹部で感じる。
だが、これは第三波の本体ではない。本体が来たら、おしまいだ。少なくとも第三波を耐えきれたやつがこの世にいるとはきいたことがない。
マフィアのボスがクソもらしたなんて、シャレにならない。
そんな噂が広がったら、威信失墜、普通にシノギに影響が出てくる。
ああ、でも、括約筋からはしきりに報告が上がっている。これ以上、抑えきれないと。
腹痛監視センターからはデカい波が来ていると悲鳴が上がり、頭のなかでは小中高と歌われ続けたみっちゃんみちみちウンコしてが流れている。
そんななか、おれの喉はバケーションを楽しんでいる。
こらえているのはゲロではなくクソだから喉や食道は気楽なものだ。
「ガンビーノ・ファミリー、ジェノヴェーゼ・ファミリー、ルケーゼ・ファミリー、コロンボ・ファミリー、ボナンノ・ファミリー、ガンビーノ・ファミリー、ジェノヴェーゼ・ファミリー、ルケーゼ・ファミリー……」
一心不乱にニューヨーク五大ファミリーの名前を唱えて、なけなしの精神力を全部ケツの穴に送り込む。
体じゅうのあらゆる部位からケツの穴へ『きみはひとりじゃない』『ぼくたちも頑張るよ!』とエールを送らせる。
……。
あああああ! もうだめだああ! 限界!
「来栖くん、あれを見てくれ!」
魂から絞り出したような汗をだらだら流しながら、この世の見納めと崖のほうを見た。
まず目に入ったのは、殺し屋の背中である。
それが宙を飛んでいる。頭を下に向け、バタバタしている足は上を向き、手には折れた弓を持っている。
ぐしゃり、と殺し屋の頭が地面に激突し、卵みたいに割れる。
足場に翻る旗のようになびいたのは鳶色の美しい髪。
ああ、ディアナだ。
ディアナが無事八百長でルージンギンに負けて、戻ってきてくれたのだ。
胸を斜めに切り割られた殺し屋がもうひとり足場から転落する。
そのころ、おれはもっとも重要な本能に従って、トイレめがけて走っていた。
彼女こそおれの救いだ。救世主だ。
おれのキリストだ、おれのマリアさまだ、おれの弥勒菩薩さまだ、ラッキー・ルチアーノだ、フランク・コステロだ、リトル・ニッキー・レンジリーだ。
ズボンの前のボタンを外しながら、トイレのドアに突進する。
なかには穴がひとつ掘ってあって、その上に二枚の板切れが渡されていた。
板切れの上に乗ってかがんで、板切れのあいだからブツを落とせということだろう。
かくして第三波は無事、収まるべきところに収まった。
――†――†――†――
そして、紙はなかった。




