第二十一話 零落貴族、無気力のブルース。
真夜中の輸送任務はいつだって気が塞ぐ。
輸送隊の隊長クルト・フォン・ヴィンディッシュドルフは運に見放された気がして、ならなかった。
もともと彼はアルト・シュヴァーネという栄えた地方都市の要塞司令官なのだったのだが、セックス・スキャンダルに巻き込まれて左遷された。
といっても、彼が悪さをしたわけではない。
地元貴族の指導的立場にあったグレーツ侯爵の息子が彼の妻を寝取ったのだが、それに対する報復を一切しなかったからだ。
気の荒い山岳国家のセックス・モラルが一番よくないとするのは寝取られ夫だった。
たいていの寝取られ夫はその汚名を雪ぐべく、不倫相手を決闘でぶち殺すのが定石だったが、隊長は面倒な報復をする気がなかった。
妻の淫乱は前からのことだし、グレーツ家の跡取りといっても十六の若造だ。
女の怖さも知らないガキを売女がそそのかし、たらしこんだのだろう。
それをムキになってぶち殺すのは個人的に気が進まなかった。
確かに女を寝取られたら殺しちまえというのが世の習いだし、実際、決闘の介添えや立会人をしようと言ってくれる友人は大勢いた。
さすがにフォン・ヴィンディッシュドルフもなにもしないと言い切るのはまずいと分かっていたので、友人の申し出を丁重に断り、これ以上ないほどの凄まじい報復を実は考えてあるとその場を切り抜けたのだが、これでますます立場が悪くなった。
事件の当事者や彼の親戚知人、それどころかアルト・シュヴァーネの全住民が要塞司令官の凄まじい報復がなんなのか、盛んに話し合った。
切れ味の素晴らしいブランナウ製の剣に売約済みの札がついたがそれを買ったのはフォン・ヴィンディッシュドルフその人であり間男の首を自ら刎ねるつもりだとか、車裂きの刑ができる死刑執行人をランドリアから呼び寄せたとかいろんな噂があり、まったく人の想像力とはすごいものだと思っていたら、グレーツ侯爵夫人があらわれて、取り乱した様子で、どうか息子を串刺し刑にしないでくださいと泣きながらフォン・ヴィンディッシュドルフにすがりついた。
どうやら、材木商のひとりが下らぬ噂をまいたのだが、丸太を一本、フォン・ヴィンディッシュドルフが買い取って先端を円錐状に尖らせたが、というのもフォン・ヴィンディッシュドルフは間男と淫乱妻を裸に剥いて尻の穴からその丸太に串刺しにするつもりだとまわりに吹聴したらしい。
もちろんフォン・ヴィンディッシュドルフは丸太を購入してはいないし、串刺しの刑については侯爵夫人からその説明を受けながらあまりの残酷さに卒倒しそうになったほどだ。
街じゅうの人間が自分の報復事業に夢中になっているのを見て、これはさすがにヤバいと思ったのだろう、彼は真実を告げて、報復のつもりがないことを宣言した。
そのブーイングたるや相当のものだった。
友人たちは彼を意気地なしとなじり、親戚は二度とうちに来るなと門前払いし、同僚や部下は嘲笑を隠さなかった。
彼の妻は既にグレーツ家に隠れていたので、直接面と向かって言葉を浴びせられることはなかったのだが、どうも彼のことをフニャチンと呼んだらしい。
そんなこんなになってくると、市民はフォン・ヴィンディッシュドルフにしていた同情を彼の妻に移した。
彼が男性としての魅力と能力に著しい欠陥があったために他の男に走らざるを得なかったという話が出来上がり、グレーツ家の御曹司と淫乱妻が悲劇の主人公になり、フォン・ヴィンディッシュドルフはそんな妻を束縛する酷薄な夫ということで、目ざとい作家が早速戯曲を書いて、大入りになった。
親しい人びとは離れる。それは予想していたが、市民たちの凄まじい嫌悪は予想外だった。
こう言ってはなんだが自分はよい要塞司令官だった。
前任者は兵を募ると称して若者をさらい、親から身代金を取った。
徴兵免除代替防衛金と呼んでいたが、身代金以外の何者でもなかった。
フォン・ヴィンディッシュドルフが要塞司令官になってから、その手の悪事に手を染めた士官や兵は追放し、ついつい兵士寄りの判決が出る市民との喧嘩沙汰でも公平な判断をしたと思っている。
その市民たちがどうして淫売を殺さなかったくらいで、こうも手のひらを返すのかがさっぱり分からない。
なるほど市民たちは要塞司令官フォン・ヴィンディッシュドルフが凄まじい報復をすると信じて疑わなかった。
市民たちはまだ起こってもいない事件に『アルト・シュヴァーネの血浴』なんて名前をつけていた。
虐殺や粛清よりもずっとどぎつい血浴という表現をきくと、どうも市民はグレーツ家の人間がフォン・ヴィンディッシュドルフと彼の軍隊によって皆殺しに遭うと思っていたらしい。
市民はフォン・ヴィンディッシュドルフが金臭い血のバスタブに浸かることを期待していたのだ。
話はリヴォンブルクにも伝わり、軍のかなり上のほうからのお達しで輸送部隊への栄転が決まった。
正直な話、アルト・シュヴァーネを後にすることに未練はなかった。
あれだけ尽くした市民たちの手のひら返しを見たら、おれはこんなやつらを守るために頑張ってきたのかと馬鹿馬鹿しくなり、本当に戦争が起きて、こいつらのために討ち死にするよりはこうやって追放されるのがずっといいのだと思えてきた。
最後にアルト・シュヴァーネの城門から出ようとするときれいなベルリーヌ式の馬車が止まっていて、なかにはグレーツ侯爵夫人、あの息子を串刺しにしないでくれとひざまずき、フォン・ヴィンディッシュドルフの手に涙まじりのキスをした老母がピンク色のふさふさがついた扇をパタパタやっていた。
このあいだとは一転、馬車から出ようとせず、汚いものでも見るような目で彼を見ながら、彼女の息子が彼の元妻と再婚することを伝えた。
せいぜい頑張りたまえ、間男くん。あの淫売は三日ともたない。
すぐ別の男をくわえこむから、そのときまでに決闘の稽古をしっかりやっておきなさい。
最後に侯爵夫人は彼のことを息子と決闘すべきだったのにしなかった意気地なしと罵って、手綱がパチン、馬がヒヒンと去っていった。
こうしてフォン・ヴィンディッシュドルフはアルト・シュヴァーネを後にしたが、ただひとつ後悔したのは先を尖らせた丸太を一本買っておかなかったことだ。
――†――†――†――
クルト・フォン・ヴィンディッシュドルフ。
元アルト・シュヴァーネ要塞司令官にして、現在の輸送部隊の隊長。
ヴィンディッシュドルフ村の領主にして、男爵。
といって当代のみの男爵で、彼に息子がいても男爵にはなれない。
まあ、息子はいないのだが。
貴族である前に、軍人である前に、人間である前に寝取られ男である。
それは戯曲になって全国に知れ渡り、彼個人は再婚できる確率が零になった独身男である。
親戚全員から勝手払いにされた負け犬。左遷された臆病者。立派なのは名前だけの男。
そんな男の目の前に現れたのだ――来栖ミツルとセディーリャは。
先頭を馬で進んでいたフォン・ヴィンディッシュドルフはふたりを見た。
ひとりは端整な顔立ちをした若ハゲ、もうひとりは帽子をかぶっていて少年のようだったが、どうも自分の妻を寝取ったあの若造と同じくらいの年齢のようだ。
だからだろう――、
「おれにはもう寝取られる女房はいないんだがなあ」
と、声に出して言ってしまった。
少年のほうが、
「仲間の女房を寝取ることは禁止されてて、違反したら殺される」
「そんなの、この国でもそうだ。ただ、ペナルティは寝取られたほうが負わなければいけない。ところで、さっき、仲間と言ったが、おれとお前は仲間なのか?」
「いやあ、どうだろうな。それはこれからの話の行き先に依る。ところで、あんた、スロットマシンは見たことあるかい?」
「見たことないやつがいるのか? ここ最近、ウサギみたいに増えだした」
「そのスロットマシンの持ち主は誰だか知ってるか?」
「さあな。置いてる酒場の店主が持ってるんだろう?」
「いや、違う。連中はあくまで場所を貸して分け前をもらっているだけで所有してはいない」
「じゃあ、誰が持ってるんだ?」
「おれだよ。おれが所有している」
「よく分からないが、共同経営みたいなものか?」
「違う。全部。全部がおれのもの。で、おれは世界のあちこちにスロットマシンを持っていて、おれのスロットからカネを抜こうとしたり、機械を叩くバカタレのための組織を持っている。その大きな組織の持ち主があんたたちの積荷に興味あるときいたら、あんた、信じる?」
「信じないね」
「まあ、そうだよな」
「いや、あんたが大物だってことは信じる。だが、おれたちの積荷に興味があるっていうのは信じられない。ありふれた剣と鎖帷子だ」
「そう、それがまさに今、ほしいんだ」
少年のほうはカンテラを下げながら、フォン・ヴィンディッシュドルフのすぐ後ろにいた荷かつぎ役の兵士に近づいた。
兵士のベルトにつけた革製の小さなカバンからは旅行用の身分証明証がひょっこり飛び出していた。
フォン・ヴィンディッシュドルフが後で知ったことだが、配下の兵士たちは来栖ミツルがスロットマシンの持ち主だと言ったときから、もう積荷は渡すつもりでいた。
士官たちはもっぱらカードをたしなむが、兵士たちはよくスロットマシンに小銭を放り込んでいた。
この遊戯機械がひとつの組織の持ち物であることも知っているし、その組織には凄腕の暗殺者が四人いて、マシンを壊したりなかのカネを抜いたりしたら、遅かれ早かれ制裁を受けることも知っていた。
それに輸送隊の仕事にはフォン・ヴィンディッシュドルフ以上に兵士たちもうんざりしていたから、目の前にいる少年が本物の来栖ミツルかどうか分からないまま逆らったりするほどのリスクを負う筋合いもなかった。
この少年、これから強盗するにしては伏兵の存在をにおわすかわりにスロットマシンの話を持ち出したりとかなり異質だし、その落ち着きぶりもただ者には見えなかった。
が、この少年の言う通りにしようとする一番の理由はこの重い荷物をロバみたいに背負わされることから解放されたいという強い意志だった。
そんなわけで来栖ミツルが身分証を抜き取ると、その兵士は荷物を下ろしてしまった。
「ニクラウス・ゼンケ伍長。もし、後で取り調べを受けたら、なんてこたえる?」
「ゴブリン盗賊団にやられたとこたえるよ」
と、こたえた途端、近くの草むらから「ゴブリンだと!」と大声が湧き、飛び出してきたツルツル頭の巨漢がニクラウス・ゼンケ伍長を殴り倒してしまった。
「あんた、なにやってんだよ!」
と、声を上げたのは来栖ミツルである。彼はこの事態に誰よりも驚いていた――たぶん、殴られたゼンケ伍長本人よりも。
「この野郎、おれたちをゴブリン呼ばわりした!」
「いいんだよ、それで! それとも犯人一味にはつるっぱげの大男がいたって言われるほうがいいのかよ?」
「あー、そうか。そう言われりゃそうだな」
「頼むよ、ホント」
すると、大男はいまあったことはなかったことにしてくれと、その場にいるみんなに言って、また元の草むらに隠れてしまった。
なかったことにはできなかった。
兵士たちはみなそばの草むらをじっと見つめ始め、次々と荷物が放り出された。
すると、葉巻を吹かし、時間外労働だの夜勤手当だのとぶつくさ文句を言う子どもたちが荷物に群がって、あっという間に五百本の剣、六百着の鎖帷子、鋲を埋め込んだフレイル三百本が持ち去られた。
倒れたゼンケ伍長を含め、身分証を取り上げられた兵士の懐に白銀貨が二枚、口止め料として入り込んだ。
さすがにフォン・ヴィンディッシュドルフはそれは受け取らなかったが、かといって武器防具が持ち去られるのをなんとしても止めようとは思わなかった。
なんだか、アルト・シュヴァーネを追い出されたときと同じ諦観に見舞われた。
「たぶん、これでおれは軍を除隊させられるな」
「それについてはマジで申し訳ない」
「いいんだ。将軍たちとはしっくりいかなかったし、部下は秘かにおれをあざ笑っていた。遅かれ早かれやめる運命だったんだ」
「これからいくあては?」
「領地のヴィンディッシュドルフ村に帰るのも悪くないが――人間にはもうこりごりだよ」
そう言い残して、フォン・ヴィンディッシュドルフは馬首を転じて来た道を戻っていたのだが、その寂しげな背中とは対象的に陽気な口笛がきこえてきた。




