第十話 元剣士、死のにおい。
予選落ちするかもしれないと思ったが勝った。
相手は貴族かなにかの息子らしいが、さすがにそいつに負ける気はしなかった。
利き腕はないが、剣を捨ててからずっと鉱山暮らしをしているからそれなりの膂力、つまり、一日銀貨十枚の仕事にありつくほどの腕力はある。
相手は何度もまっすぐ突いてきた。
あんまりまっすぐばかし突いているので、ひょっとして横に移動するように教わっていないのではないかと思ったが、実際、そうだった。貴族のボンボンには横に動くという頭がなかった。
だから、ルージンギンは右へかわしながら、その香水付きの手袋をぶん殴って、木造のレイピアを叩き落した。
レイピアが悪いというわけではない。
ただ、前後にしか動けないのがダメなのだ。
レイピアは形状から突きが重視され、一部の剣客のあいだでは稲妻みたいに速く突けることを念頭に修行するものも多いが、レイピアで一番大切なのは突きの速さではなく、左右への移動と足さばきだ。
いくら突きが速いからといって、ただの前後運動では簡単に見切られる。
だから、本物のレイピア使いはまず左右に動き、敵の攻撃線から自分の体を外し、相手の体を自分の攻撃線上に固定すべく位置を取る。
現役の剣士だったころみた剣客のなかでもレイピアを使う連中はみな突きの速さよりも足さばきで勝ちをもぎ取っていた。
レイピアはお上品な武器などではない。殺す気合のみなぎる剣だ。
ルージンギンが見た決闘のなかで一番壮絶だったものはどちらもレイピア使いだった。
ふたりともまっすぐ立ち、切っ先が相手の鍔にぶつかる具合に剣を向けて、その短い間合いで向かい合った。
これは相討ち間違いなしの構えであり、まだ両腕があったルージンギンは馬鹿な真似はよせと止めたのだが、結局、ふたりはそのまま決闘を始め、開始三秒でお互いの心臓を貫き合って死んでしまった。
そのふたりは貴族の息子だった。
昔は貴族の息子も殺気にみなぎった剣客だった。
ところが、いまでは名のある剣客は鉱山の用心棒になるかスラムで殺し屋まがいの仕事をしている。
片腕がなくならなくとも、ルージンギンの剣に居場所はないのだ。
「ディウトもそれに気づいてくれりゃあなあ」
すごいです、先生!と喜び跳ねまわる少年を見ながら、ルージンギンはこぼした。
その後、ひとりで飲みたい気分になり、ディウトには他の試合も見ていけ、それが剣士の勉強になる、と適当なことを言って追い払い、青いキャンバス地のテントに入った。
水でも吸ったみたいに重い布を払ったさきには小さな樽が並べてあって、タフな火酒を売っている。崖でも育つタフな芋からつくった辛い酒で荒っぽい後味が好きだった。
早速、腰かけのひとつに尻を降ろし、指を二本立てて銅貨を四枚カウンターに置くと、グラス二杯分の火酒が大きすぎるジョッキに入って出てきた。
客がうっかり一気に飲んでしまうことを期待したさもしい商売だが、それをちびちび飲むのはもっとさもしい。
ルージンギンの隣に座った男はそんなさもしいテント酒場には似合わない風貌の持ち主だった。
最初に見たとき、癖のない銀の長髪が目に入り、この男は魔族だと思った。ただ――、
「エールだ」
と、言って銀貨を放るその声には魔族特有のあの口調がない。
人間とのハーフなのかもしれない。
その男を魔族と見間違えたのは銀と蒼白に彩られた美貌からだ。
だが、この男は魔族にはありえないもの、死のにおいがした。
そういうにおいを嗅げる場所は限られている。
だいたいは古戦場だ。
まず合戦があって、大勢が死にそこには流れたばかりの血のにおいが立ち込める。
次は血と肉が腐敗して、そこに死肉を貪る鳥獣が集まって、吐き気をもよおすにおいがする。
だが、これらは死のにおいではない。血のにおいであり、腐敗臭に過ぎない。
さて、死体たちはいよいよ骨だけとなりわずかに残った腐肉も土に溶ける。
こうして血と腐肉が尽きたにもかかわらず、そこにはにおいが残る。
鼻の曲がるようなにおいではない。むしろスッと抜けるようなにおいだ。
それが死のにおいだった。
そこに街が出来ようが、森ができようが、海に沈もうが、そこで行われた殺し合いの業は決して消えることはない。
いつまでもにおいの形で残る。
その正体は死霊だという。
その死のにおいがした。隣の若者から。
土地ではなく、人間の体から死が香るにはいったい何人殺せばいいのやら、とうてい見当もつかなかった。
触らぬ神に祟りなしだな、とルージンギンは思うが、そう思わない連中が何人かいた。
「おい、にいちゃん。一杯おごってくれねえか?」
剣術大会のときは優れた剣士を集めるためにお上の締め付けもゆるくなる。
剣術指南所はいくつもあるが、なかには剣士ではなく山賊を育てているような指南所もあり、魔族もどきの男に絡んでいるのは、その手の指南所のなかでもかなり大きな指南所〈勝ち馬館〉の師範で名前はルロイといった。
その下品で笑える名前のセンスと自分より弱い相手と戦えば、常に勝ち続けられるという臆面もない指導方針には賛成するが(剣を学ぶのは殺して犯して焼き払うためと言い切った指南所もあるのだ)、だからといって、その弟子たちがやたらめったら弱そうなやつに殴りかかり、金銭を巻き上げるのはいかがかと思う。
ルージンギンも二度やられたことがある。
ルロイは脳みそに使う予定だった材料を体のほうにまわした男で腕っ節馬鹿であった。
別にうらやましがるわけではないが、どうしてあんなに愚かなルロイが三十人の弟子を持つ指南所の主になれるのに、自分はそうなれなかったのだろうと思うが、きっと消えた部分の脳みそが司っていたのは礼儀、名誉、理性であり、かろうじて残った部分の脳みそには詐欺、打算、欲望が凝縮されて詰まっているのだろう。
その脳みそが打算を働かせると、例の男はちょっと脅かせばカネを巻き上げられると思い始める。
男の腰には短めの剣が二本あるが、ルロイの剣は両手持ちのクレイモア。
ルロイは大柄だが、魔族もどきの体には黒衣が締め上げるようにきつく纏わりつき、ひどく華奢に見える。
これなら楽勝だ
そう思って、挑みかかり死んだやつが十や二十ではきかないのは間違いない。
この死のにおいに気づかないということは、どうもルロイは戦争に行ったことがないらしい。
いかないで済むならそっちのほうがずっといいが、せめて死のにおいがどんなにおいなのかくらいは覚えておいても損はないだろう。
ルロイは喧嘩を売り続け、裏に出ろということになり、魔族もどきは外に出た。
「ルロイのやつ、手下を二十人かそこら連れてきてるぜ」
店主の言葉にルージンギンは驚く。
「なんだってそんな大人数で」
「ルロイのやつには山賊のダチがいてな。そいつがフラナガンウェークであのにいちゃんを見かけたって伝書鳩を飛ばしたらしい。宝石がどうとか」
「そこまでやっててルロイのやつ、自分はまだ山賊のダチ止まりだと思ってるのか?」
「ああ。そうみてえだ。なあ、フランツ。あの若いの、勝てそうか?」
「瞬殺だな」
「そんなに強いか?」
「だって、おれ、片腕ないんだぞ」
「違う。お前と戦ってじゃない。そんなのはお前が負けるの分かってる」
「ひでえ。傷ついちゃうぞ」
「おれがいいたいのはあのにいちゃん、ルロイどもに殺されずに済むかってことだ。そりゃあ、おれの店はテントだ。でも、おれの店だ。そして、おれはおれの店の裏で死人が出てほしくないんだよ」
「あんたも打算で生きてるなあ」
「で、どうなんだ?」
ルージンギンはブリキのジョッキの底に残った火酒を口のなかに垂らすと、シャベルを持って裏にまわった。
片腕のシャベル男がどれだけの足しになるのか分からないが、というよりたぶん負けるだろうが、なにこっちには大声がある、いざとなったら「火事だあ!」と叫んで人を呼べばいい。
テントの裏にまわってみると、二十人の荒くれ剣士が折り重なるように倒れていた。
死のにおいは伊達じゃなかったのだなと思い、せっかくの機会なのでルロイの尻をシャベルで二回ほど、思いっきりどやしてやった。
ルロイがうめき声を上げながら、仰向けにひっくり返ったときは死ぬほど驚いたルージンギンだったが、まだ相手は気絶していたので、驚かせやがって、とわき腹に一発蹴りをお見舞いした。
すると、さっきまでルロイの下敷きになっていたので気づかなかったが、一枚の手紙が落ちていた。
宛名書きがしてあり、とてもきれいな筆跡なので、たぶんあの魔族もどきが落としたのではないだろうかと予想をつけた。
封筒には次のようにあった。
『宿屋〈マンドラゴラ〉 来栖ミツルさまへ』




