第十八話 皮肉屋、第二の共闘関係。
「お前らには本当にがっかりだ。ちっとは見た目もいいから、いい前座になれると思っていたが、あんな形で恩を仇で返すなんてな」
管理人はまぶたをひくつかせながら、針槐の棍棒で自分の手のひらをパシパシ打った。
彼は後ろ手に縛られたトキマルとギデオンを前に皮肉をたっぷり言ってやることにした。彼は狂人相手に皮肉を言うのが大好きだった。来栖ミツルが密輸している酒よりも大好きだったのだ。
こんなふうに彼が皮肉を言うのは後でふたりを棍棒で言語中枢がイカレるくらいぶん殴るつもりだからだ。
そんなわけでまだ言葉の分かるうちに皮肉を言っておきたい。
「お前らを保護した癲狂院に対する敬意はどうなんだ? お前ら狂人はな、尊敬するってもんを知らねえんだ。教授に対する尊敬やピッツーコさんのような大物に対する尊敬、そしてなによりもおれに対する尊敬がない」
ふと、トキマルはこのまぶたぴくぴくの本名を知らないことに気づいた。
アズマでは人に尊敬されたいなら、まず名前を知らせなければいけない。
戦でも侍たちは強敵と戦うとき「やあやあ、我こそは」と名乗りを上げてから戦う。
名前と尊敬のあいだには簡単に切れない絆のようなものがある。
尊敬があっても名前がなければ、それは人知れず埋もれるだけだし、名前が知られても尊敬がなければ、それは悪名である。
そんなわけで、このまぶたぴくぴくはアズマの流儀に従えば、どうあったって尊敬はされない。
もちろん名前を知られず尊敬されるものたちもいるが、それは忍びであり、名もなき影としての生き様が尊敬されるのだが、まぶたぴくぴくはどう贔屓目に見ても、忍びではない。
締まりのない体と相手を縛っておかなければ精神的優位を保てない程度の低さから考えれば、どうあったって忍びではない。
たとえ名もなき影であっても、忍びはただ忍びであるだけで誇らしいのだ、とトキマルは満足しつつ、縄抜けの術ですでに無効化された束縛をさっと解いて、まぶたぴくぴくをぶちのめす絶好のタイミングを待つことにした。
つまり、まぶたぴくぴくが最高に偉そうにして気分も最高潮になった瞬間にぶちのめすのだ。
「カシドロ・ヌニェス」
ギデオンがポツリとつぶやき、トキマルを横目にちょっと小馬鹿にしたように笑う。
「なに、それ?」
「彼の名前ですよ」
と、ギデオンはまぶたぴくぴくを顎で指す。そして――、
「もちろん、あなたは知っていたんでしょうねえ。あ、違いますね。だって、あなたは『なに、それ』ってたずねましたもんね。つまり、我らが管理人殿の名前を知らなかったわけだ。でも、おかしいですねえ。忍者っていうのはなによりも優れた情報収集能力が売りでしょう? そんな忍者のあなたが、彼の名前を知らなかったなんて、実におかしいですねえ」
トキマルは、チッと舌打ちしそうになるのをこらえて、
「知らなくてもいいものまで知るのは忍びじゃない」
「知らなくてもいい? さすが一流の忍者さんは違いますね。だって、ぼくらの生殺与奪を握っているこのヌニェス氏の名前を知る必要がないとおっしゃるんですから」
「……もしかして、喧嘩売ってる?」
「だれが? ぼくが?」
「売ってるでしょ?」
「とんでもない」
「おい……」
「決めた。その喧嘩、買ってあげるよ。代金はお前の命な」
「まいりましたねえ。ぼくはこんなに善意にあふれた返答をしているのに」
「おい! おれさまを無視するんじゃねえ!」
「やかましい!」
サマーソルト・キックがカシドロ・ヌニェスの顎に見事に決まり、ヌニェスは天井まで吹っ飛んで顔面をぶつけた。
宙返りが終わるころにはトキマルの腕を縛っていた縄はバラバラとほどけて落ちた。
――†――†――†――
サン・ドメニコ癲狂院は広大な地下牢獄を有していた。
癲狂院は古来より政治的な邪魔者を手っ取り早く片づけるために利用され、施設の枢要な機能が地上にあらわれるのを時の権力者たちが望まなかったからだ。
この医院の名を借りた地下迷宮には、王の妾の陰謀により廃嫡された正統な王位継承者が死ぬまで頭にかぶせられていた鉄の籠や都合の悪い死人を捨てるいわくつきの井戸、人を食う魔物が巣食っていると評判で普段は鉄板で蓋がされている開かずの間などが、丸い鉄の輪にたいまつを引っかけた廊下でつながっている。
隙間から冥府の凍えがにじみ出るような石の道をトキマルがひた走っていた。
忍びの修行は三十尺の朱色の帯が地面に触れず、水平に流れるように三時間は走り続けなければいけない。
さらに師匠によって個人差があるが、そうやって走っている弟子目がけて、もっと修行を辛くしてやろうと手裏剣や煙幕を投げるものもいるが、トキマルの師匠が投げたのは爆薬を詰めた竹筒だった。
ともあれ、そういう修行を生き延びたので走りには自信がある。
「さすがにここまで走ればまけたか」
「まくって誰をですか?」
縄でぐるぐる巻きにされたギデオンがにこにこ笑ってたずねた。
「……」
もちろんまく対象はギデオンである。
忍者のプライドを傷つけられたトキマルは仕返しにギデオンをこの地下牢獄に置き去りにしようとしたのだが、ギデオンとおさらばしようと思って走り出すと決まって、迷宮の不思議な構造により、トキマルはもとの位置に戻り、ギデオンと再会する。
「まあ、ぼくらが運命共同体であるとはいいませんよ。あなたの運命はあの犯罪者に仕えることであり、ぼくの運命は先生のお手伝いをすることなんですから」
「勘弁してよ……」
「でも、ここから出ないといけないということでは、ぼくらの利害は一致します。まあ、ぼくはあまり熱心に教会に通うタイプではないですが、それでも人間には知覚できないなにかがあなたとぼくが一緒に行動することを望んでいると思わないではいられないですよ。なにせ、あなたは三回もぼくを置き去りにして、三回ともみじめに戻って――おっと、見事に戻ってきたわけですし」
「治安判事の助手が犯罪組織の忍者に助けてもらってもいいわけ?」
「ここはカラヴァルヴァですよ。多少のことには目をつむります。だいたい、ぼくがいないと先生は仕事ばかりでろくに食事もとらないですから、結構心配してるんですよ」
「食事って、どうせいつものくず肉スープでしょ」
「失礼ですねえ。ポトフくらいちゃんとつくれますよ。そういうあなたはどうなんです? あなたがいないと、来栖ミツルはご飯も食べずに悪事に精を出すんじゃないですか?」
「いや、頭領は料理好きだから、おれがいなくても、しっかり食べてる」
「あ、なんですか? 寂しいんですか? ぼくはなぐさめませんよ」
「どーでも……」
ギデオンはくるっと後ろを向くと、縄で縛られている右手の指を開いた。
「なに、それ?」
「握手ですよ。あなたが縄を解く気がないのは知ってます」
ま、いざとなったら弾避けにでもすればいいか。
トキマルはギデオンの差し出した手を握り、押し込めば悲鳴を上げて痛がること間違いなしの場所をぐっと親指で押し込んだ。




