第三十一話 騎士判事補、島の生業。
ティレンナ島が見えてきた。
平らで島の西には丘が重なっているが、砂浜の広がるあたりは地形が低く、森が濃い。
豊かな漁場があるわけでもなく、交易海路からの外れていて、誰もが欲しがる貴石が掘れるわけでもない小さな島。
グリードはその島でつくられている。
ロランドがアストリットたちにロウルがケレルマン商会にひとり乗り込んだことを報告し終わった後、クラウディアを保護するよう当直の従士たちに命じたが、クラウディアは姿を消していた。
その後、骸騎士団最後の幹部トレボールが射殺され、抗争は終結。
抗争勃発時のボスたちはみな死亡したが、ひとりだけ生き残ったやつがいる――クルスだ。
抗争終結によって各地から集められるはずの聖院騎士たちに帰還命令が出て、クルスはまたしても危機を逃れた。
そして、いま聖院騎士と治安裁判所はグリード抗争の最後の作業にかかっている。
グリードの製造拠点の壊滅だ。
――†――†――†――
島を前にして甲板の上では兵士たちが水夫たちと言い争いをしている。
「てめえら、水夫はふてえ野郎だ。天下の聖院騎士団さまの船でなまけをやらかすとはなあ」
「なんでえ。騎士団なんて屁でもねえや。おれたちがいなきゃあ、帆も張れねえごくつぶしの集まりじゃねえか」
「なんだと、てめぇ!」
「やんのか、こらぁ!」
鎖帷子がジャリジャリ鳴って、バケツが頭に当たりきれいな音を立てた。
兵士たちも怒りはもっともだ。
本来なら船は二日前に出ているはずだった。
ところが出港直前で、船が出せなくなった。
ロランドが船長にたずねると、船長は、
「しょうがねえや、騎士さま。水夫たちが働かねえって言ってる」
「どういうことだ?」
「罷業さ」
「他の水夫を雇えないのか?」
「水夫ギルドが仕事すんなって言ってる。まあ、待つんだな」
給料や休暇を求めたわけでのない罷業は二日で終わったが、その背後にクルスの影響力を感じずにはいられない。
舷側の手すりを意味もなくバン!と叩き、島影に背を向けると、船倉の扉が開き、アストリットとイヴェス判事が現れた。
この暑さだというのに、イヴェス判事は外套をきちんと身につけ、クラヴァットを首に巻いている。
剣一本を吊るし、ブラウス一枚にズボン姿のアストリットとは対照的だ。
「なんだか、アストリットさんが着崩しているのを見るのは新鮮です」
「わたしだって暑ければ暑いし、少しでも涼しくなりたいと思う。ましてや船の上だと、戦場らしい大雑把な身なりに自分を許すものだ。船上だけにな」
「え? いま、なんて――」
「それよりイヴェス判事、暑くないのか?」
「このくらい普通だ」
「そうなんですか。ところで、アストリットさん。さっきの――」
「ロランド。ギデオンが船酔いで潰れているぞ。前からあの少年は以前から悪魔的なところがあって、弱点らしい弱点があるようには見えなかった。ちょっと見に行ってみるといい」
「あ、はい」
――†――†――†――
島で一軒の居酒屋には段差がなかった。
村のなかには段差と呼べるものがなく、また二階建ての建物はひとつもない。
「廃兵院ですねえ」
ギデオンが言った。
「手足がもげたりして使えなくなった兵隊を飼い殺しにする施設ですよ。そこはこんなふうに段差がなくて、車椅子でどこにでも行けるってわけです」
「なんでそんなことを知っているんだ?」
「手足のない人を見ることがぼくの趣味なんです」
船酔いでぐでんぐでんだった小悪魔少年はすっかり調子を取戻し、いつも以上の毒を吐くつもりでいるらしい。
ただ、まったく無意味なことを言ったわけではない。
虐げられた傭兵たちの組織がグリードをつくるなら、手足を失った元傭兵たちを使ってもおかしくはない。
普通の町では人間扱いされないが、ここなら兄弟のような絆で結束することが可能だし、グリードのもたらすカネも入る。
なにより、手足が残っていた時代に彼らが抱いていたもの――世の中をめちゃくちゃにしてやるという気概が甦る。
グリードとは大貴族の強欲がもたらした廃兵たちの復讐なのだ。
「それにしても――」
島にはひとりの人間もいなかった。
どこの家ももぬけのからで動かした棚の後ろやベッドの下の隠し金庫も開いたままだった。
つまり、グリードをつくっていたものたちは非常用の逃走資金を使って逃げ出したということだ。
水夫たちの罷業はやはりクルスのやったことだったのだ。
島で一番大きな建物に入ると、がらんとした倉庫のような家だった。棚には様々な薬品や毒草をつけた酒があり、グリードをコーティングする色つきの砂糖がこぼれ出て、虹の渦を巻いていた。
漏斗やレトルト、加熱用のランプ、蒸留用の螺旋ガラスなどがいくつもあったが、グリードそのものが見つからなかった。
貯蔵されていたものはみな石灰をかけた後に水をかけて熱で台無しにされていた。
そして、グリードの製造方法を記したものがどこにも見当たらない。
騎士団は悪の手に渡るとまた罪深い争いが起きるので、グリードの製造方法を記したものを確保するよう命じていたが、簡単なメモ書きひとつ、存在しなかった。
グリードの作り手が持っていったのか、あるいは――。
「どこに行っちゃったんでしょうねえ。製造法」
いつの間にかギデオンがそばにいた。
ギデオンは小さな本棚に帳簿のようなものを戻しながら言った。
「グリードがなくなったら、また〈蜜〉を吸わせる場所が増えるんでしょうねえ。麻薬としては〈蜜〉のほうがグリードよりもずっと重症です」
「なにが言いたい?」
「正邪の判定は難しいってことです」
「……そうかもしれないな。でも、お前はどうなんだ?」
「正邪はぼくには関係ありません。ぼくはどんなときも先生の側につきますからね」
「そうか」
「この生き方、楽ですよ」
「やめろ。誘惑するな」
「いやだなあ、ぼくはあなたのためを思って言ったんです。だって、骸騎士団の団長を死なせたこと後悔してますよーって顔に書いてあるんですからねえ。ついでに、もし製造法がクルスの手に渡っていてくれればと思ってるでしょう?」
「それは……」
「そっちのほうが聖院騎士団の図書室にしまうよりもずっと安全です。彼らは麻薬はいっさい扱わないんですから、二度とグリードが復活しないよう取り計らってくれるでしょう。さて、ぼくは先生の側につく。あなたは誰の側につくのが楽だと思います?」
「……知るか」
小悪魔ギデオンは、ふふ、と笑ってから、てくてくとイヴェスのほうへと歩いていった。




