第八話 騎士判事補、泥棒と警察。
太陽が夏の残照を雲に残すころ、一隻のエビ漁船がエスプレ川を遡っていた。
真っ白に縫ったオールが八本伸びて、紫雲の影が落ちる黒い水面を用心深く引っかいている。
サッサラ灯台の巨大な鉄籠が燃え始めたころにはエビ漁船は川の急カーブを曲がり、〈エビ漁師のたまり場〉と呼ばれる漁師村を目指して、水を掻いた。
漁船の船長はたくましい体躯の小男で〈たまり場〉をじっと睨んでいる。
灯が点った居酒屋、釣り舟が集まった船だまり、崩れかけのあばら家、二十四時間いつでもエビを買い取る問屋街。
〈たまり場〉とは川を挟んだ北には水夫たちが密輸品をさばく船員教会があり、南には王国騎士団の第二営舎がある。
そして、厄介なのは東の対岸に見える聖院騎士団の本拠地だ。
船長はにやりと顔を綻ばせる。
まさかやつらも自分の裏庭でグリードの積み下ろしをするとは夢にも思っていないだろう。
今度の荷卸しで船長には金貨五十枚が入ることになっていた。
顎ひげをしごきながら船長は考えずにはいられない。
ただ、運ぶだけのおれに金貨五十枚なら、骸騎士団の騎士団長はどれだけ儲けているのか?
ベテラン密輸業者としてのカンはそれについて深く考えるのは危険だというが、考えずにはいられない。
「まったくとんでもないビー玉だ。えらくカネになるが、間違って踏んづけたら最後、スっ転んでケツの骨を折る――よーし、お前ら、あそこの岸辺につけろ」
――†――†――†――
つくりもののガイコツが店先でカタカタ踊る〈黒死病亭〉の前を通り過ぎると、灌木の藪が左右から迫ってきた。
酔っぱらった漁師の怒鳴り声や娼婦の楽隊のめちゃくちゃな音楽が遠ざかる。
荷馬車は轍に車輪をはめ込んで、のろのろと進む。手綱を取っているのはロランドだ。
「おい、誰か手綱を持っててくれ」
荷台に向かって呼びかける。
そこにいるのは名前も知らない二人の剣士で、ひとりは傭兵風でもうひとりはどことなく騎士だったことのある風情だ。
それにもう一人、代言人外套の男――ランザロがいる。
「なに抜かしてやがる、新入り」
騎士崩れの男が文句を垂れ、噛み煙草の黒いツバを道端に吐いた。
ロランドは手綱を角灯を吊るしている棒に巻くと、馭者台から飛び降り、左手の灌木が生える斜面へ走った。
仲間からは文句の声が湧いたが、ロランドは構わず灌木のなかへと踏み込む。
そして、三十秒数えてから荷馬車に戻った。
「おい、新入り。てめえ、ふざけてんのかよ?」
元騎士が食ってかかったが、ロランドはそれに構わず、馭者台に上りながらランザロに告げた。
「なんかおかしい」
「おかしいってなにが?」
「さっき治安判事の助手がいたんだ」
「おれには見えなかったな」
「おれもだ。だいたい治安判事なんざみんな買収済みだろ? 問題ねえや」
「イヴェスも買えたのか?」
「コルネリオ・イヴェスのことか? お前はイヴェスの助手を見たのか?」
「ああ。やつだ。この取引、サツに漏れてるってことはないのか?」
「いや、それはありえない」
ランザロが首をふる。
使っている船頭は玄人だし、この二人は信用できる。
だが――、
「漏らすとしたら、新入り、てめえが一番怪しいじゃねえか」
騎士崩れの男がランザロの考えていたことを代弁する。
この男も昔はそれなりの教育を受け、騎士の徳のなんたるかを学んだはずなのに、そんなところが、少なくとも言葉にはさっぱり残っていない。
だが、この男は間違いなく元騎士だ。口調で生まれの良さを隠したがって悪ぶっても座ったときの足の組み方や剣の柄頭を撫でる動作で見れば分かる。
さて、分析はいったん置いておき、何十回も鏡の前で練習した密告者呼ばわりされたときの顔をする。
「おれがサツの犬だってのかよ、あ?」
「判事の助手が見えたとかって話もおれたちを混乱させる罠かもしれねえぜ」
その通り。
ロランドは本気で怒る芝居をした。
クルスが帰ってきているのに、こんなチンピラ相手に無駄な時間を過ごしていることを考えると自然と怒りが腹の底からぐらぐらと沸き立った。
太腿の短剣をさっと抜く。騎士崩れもそれに反応して、取り回しの利く短めの剣を抜いた。
ロランドが狼のように低く唸る。
「てめえ、上等じゃねえか。そこまで言うならサシでカタつけようぜ。今すぐ馬車から降りろ。てめえなんか、ぶっ殺してやる」
「上等だ、クソガキ。てめえの頭の皮を剥いで、犬に食わせてやる」
あいだにランザロが入らなければ、本当に騎士崩れの男を殺してしまうかもしれないほど役にのめり込んでいた。
「やめろ、このバカども! 剣をしまえ!」
二人はしぶしぶ離れた。
「取引に集中しろ。もう、この話題はなしだ。確かにコルネリオ・イヴェスはカネで買えないが、やつ一人じゃ動かせる警吏はいない。お前らはどっちも口をきくな。いいな?」
騎士崩れは、いかにも不満げな野良犬みたいな顔をして、わかったよ、と言った。
ロランドは返事をするかわりに抜いた短剣を馭者台の羽目板に突き刺し、手すりに絡ませておいた手綱を取り直した。
荷馬車はしばらく人気のない木立の道を進んだ。
川辺には桟橋とエビ漁師たちの小舟があり、舟同士が舷側をぶつけ合っている音がきこえる。
口論と怒りに真夏の夜の蒸し暑さが加わって、汗が滝のように流れると、革袋に入ったワインを飲んだ。
隣の席に移っていたランザロに黙って、革袋を渡すと、ぐびぐびと喉を鳴らした。
その後、騎士崩れと無口な傭兵風の男が飲み、革袋が戻ってくるころには中身は三分の一も残っていなかった。
「ちぇっ、こんなことなら豚袋を持ってくりゃよかった」
と、ロランドが言った。
「豚袋? なんだそりゃ?」
騎士崩れがたずねたので、ロランドは手綱を取ったまま蔑むように、
「豚袋を知らねえって? お前、どこの生まれだよ?」
「るせーな」
ランザロがかわりにこたえた。
「豚を丸々一匹、頭だけ落として袋をつくるんだよ。酒でいっぱいになると脹らんで、生きてたころの形にだいぶ近づく。豚の足のうちの一本に簡単な蛇口を取りつければ、好きなときに好きなだけ飲める」
「こんな暑い夜じゃ牛袋が必要だぜ。ああ、喉が渇きやがる……」
荷馬車は川沿いで半円形に開けた空き地に入った。
漁師の網小屋が一軒、そこから伸びている桟橋が一本。
桟橋の先にはエビ漁船が係留されていた。
ランザロが角灯を手に持ち、漁船のほうへ歩いていった。
ブーツが桟橋の板を踏むと、やけに軋んできこえた。
騎士崩れと傭兵風の男がランザロに続いていき、ロランドは馭者台に座って待っている。
聖院騎士団付きの魔法使いが照明弾を空に撃つのを。
もうエビ漁船の乗組員は捕まって、そこいらの藪のなかでぐるぐるに縛られ、猿ぐつわを噛まされているはずだ。
そのとき、ランザロの声がした。
「おい、こいつぁ――」
次の瞬間、照明弾が太陽みたいに空でぎらつき、エビ漁船や空き地を囲む茂みから剣やクロスボウを持った警吏たちが飛び出した。
「両手を上げろ、この野郎!」
「ちょっとでも剣にさわってみろ。ぶっ殺すぞ!」
警吏たちはもちろんロランドの正体を知らない。
彼らはいつもチンピラを捕まえるときにする逮捕の手順を踏んだ。
砂鉄をつめた棍棒袋がふるわれて、眼から火花が飛び散り、ロランドは星屑のふとんへと倒れ込んだ。




