第七十一話 忍者、邪宗の村。
コオリガワとハリマのあいだにあるサカサマイリの山はいまでこそ寂れたが、昔は巡礼が盛んに行き来し、全ての社をお参りすれば願いが叶うと言われていた。
この言い伝えをつくったものはどうせ全ての社をお参りできるものはいないと高をくくっていた。
社のいくつかは高く切り立った崖の上や孤立した岩棚のへこみにあり、ほとんど垂直になった崖を上ったり、人ひとり通れるだけの幅しかない道――足を踏み外せば落下して、岩石に打ちつけられ全身の骨が砕けるような道を通らねばたどり着けなかったのだ。
だが、あるとき、本当に全ての社をお参りした猛者が現れ、願いが叶わないと分かると、サカサマイリの山の巡礼はあっという間に寂れた。
アズマの人間はこの手の信仰に結構ドライなのだ。
サイドウ軍はこの山岳の西の道から本国につながっていた。
糧食の輸送も本国への命令も全てこの道を通った。
これはなかなか良い立地だった。
連合軍がこの道を断つには西からサカサマイリの山を上るか、東からサイドウ軍の前を横切るという極めて危険な機動をするかのどちらかしかないのだ。
凧やカラス、怪盗用グライダーのような小規模な装置で空を飛ぶ手もあるが、ガルムディアの空飛ぶ船が不気味に宙を支配しているので難しい。
いま、空飛ぶ船がサカサマイリの山のほうへとゆっくり横滑りに動いている。
それを追う影の群れ。
影は風を抜いて駆け、リスやカワセミのような素早いものに慣れた目を持つ動物でも影の群れの姿をとらえることはできなかった。
影の群れ――ジンパチたちは空飛ぶ船がサカサマイリの山のどこかに〈蜜〉を蓄えていると見ていた。
跳ぶように走る彼らの前には森がこずんだ谷や頂上から雪解け水を落とす岩壁があり、三十年前、質の悪い商人に騙されて買った人魚の偽物を神と崇める村があった。
人魚の神はいずれ富を授けるが、その前触れに黒い風の精霊が現れるという予言をおまけにつけていた。
だから、黒い忍び装束をつけたジンパチたちが現れると、村人たちは彼らを総出で取り囲み、歓迎した。
「なにこれ?」
日暮れ前の薄暗い村。道という道、家という家の前にひれ伏す村人たちを見て、ジンパチは首を傾げ、クラナにたずねた。
「なんか、あたしたちを歓迎してるみたいだね。いいじゃん」
村長と呼ばれるかなり背の高いしゃんとした老人が腰に山刀を差し、一番上等の毛皮を羽織って、ジンパチたちの前に現れた。
「キバウオさまのお使いさまよ。よう、お越しくださった」
「キバウオさま?」
「わしらのご神体ですじゃ」
一行は祠に連れていかれて、そのキバウオさまを見せられたが、それは犬の歯をつけた干からびた猿の上半身に鯉の尾びれをつけた不細工で醜い干物でもう一度見たいと思える代物ではなかった。
技を極めた腕のよい忍びがこんな醜い化け物のお使い呼ばわりされるのは耐え難かったが、もし、自分たちがお使いではないと知ったら、この村人たちはどんなことを仕出かすか、ちょっと分からない。
なにせ、あんな醜くおぞましい干物を何十年も神と崇めたてることができるような連中である。
本物のお使いを呼ぶんだと言って、ジンパチたちからぴくぴく動く心臓を抉り取るくらいのことはするかもしれない。
「わしらはもう何年も長いこと、犬神さまを祀っておりましたがな、ちっともご利益がないので、こんなものを祀って犬みたいに四つん這いになるのは馬鹿じゃなかろうかということになりまして、もっとご利益のある神さまはおらぬかと思ったところでキバウオさまに買い求めることができたのですじゃ」
「買った? あれを? いくらで?」
「確か、金三枚でしたかな。キバウオさまを祀ってからというもの、なんにもいいことは起こらなんだが、まあ、ご利益を待つのは慣れとりますから苦ではありませんですじゃ。それにこうして、富の先がけが実際に来てくださったわけですし」
犬神の次は干からびた化け物。
この集落はどうあっても邪宗を祀らずにはいられないらしい。
しかし、こういった信仰に凝り固まった連中から必要な情報を引き出すのも忍びの技だ。
二度とこの村に戻ってこない前提でジンパチは嘘をついた。
「確かにおいらたちは、その、キバウオさまのお使いだ」
村人が「おお!」と湧き、忍びたちは「はあ!?」と戸惑った。
村長は大きな体を左右に揺らしながらたずねた。
「それでは村に富が来るのですかな?」
「来ちゃうぜ。がんがん来ちゃうぜ。ただなあ――」
「なにか不都合があるんですか?」
村長以下、不安で不安でしょうがなくなる。
あるものは大汗をかき、あるものは顔が粘土のような色になり、あるものは体の節々が痛み始めた。
ただ待つだけならともかく、ご利益が目の前まで来て、素通りされるのは火であぶったヤットコで身をちぎり取られるくらいに辛いものだ。
「お使いさま。なんでも言ってくだされ。わしらにできることならば、なんでもいたしますじゃ」
「――最近、この山に空を飛ぶ船が来てないか?」
怒号と叫び声が湧いた。
村人は口々に、やっぱりだ、あの異人の変な船は凶兆だったのだ、わしらはあれが地面に下りているのを見たことがあるが、あのとき焼き払っておけばよかったのだ、あのときは異人を怖がって手を出さなんだが、いま思えば馬鹿なことをした、なぜならキバウオさまを熱心に祀るわしらが異人ごときに負けるはずはないのだから、あのとき皆殺しにしておけば、わしらはきっともっとはやくに金持ちになることができただろう、なぜなら、キバウオさまのご利益がひとたびわしらの村にやってくれば、畑は耕さずとも大根が勝手に生えるし、鶏は一日に十個も卵を産み、川でとれる鯉の生き血はどんな病も治す万能薬になるはずだ、白まんまに山芋を混ぜたものをたらふく食えるし――
「待った、待った!」
と、ジンパチ。
「空飛ぶ船が地面に下りてたって?」
「そうですじゃ、お使いさま。あの船は塩漬けの肉だの米だの水だのを積むためにハタシラズの森に下りるのですじゃ。ちなみにハタシラズの森とはあそこの森ですじゃ」
薔薇色の西日に燃える岩山のはるか上に鉛色の影が差していて、その谷らしい地形に沿って細く森が伸びていた。
その森を川が通り過ぎるのだが、樽にはめる鉄のたがや小さな鉛のビー玉が村まで流れてくることがあった。
一度、後ろ手に縛られた裸の男の死体が流れてきたことがあったが、ここに落ちてくるまでに何度も岩にぶつかったらしく、体の骨はみな粉々になり顔や皮膚は青黒く腫れていて、アズマの人間なのか異人なのかも分からない有様だった。
「ろくなことはしておらんと思っておったが、やっぱりか。お使いさま。どうかご利益泥棒を懲らしめてくだされ。やつらを縛って、滝から突き落としてくれれば、あとはわしらが引き受けますじゃ。なにとぞ、なにとぞ、お願いしますぞ。さもないと――」




