第一話 騎士判事補、旅立つ。
この数週間、ウェストエンドで起こったことは悪夢としかいいようがなかった。
ファウスト・ヴァレンティが殺され、ヴァレンティ商会がその報復として、他の二つの商会に宣戦布告。
毎日、路地裏やドブ川で他殺体が見つからない日はなく、フライデイ商会の弁護士にいたっては事もあろうに、王都中心街の上級裁判所前でめった刺しにされた。
そして、これまで使われたことのない武器――ピストルが抗争につかわれると、死傷者が飛躍的に跳ねあがった。
なにせ、それなりに魔法に習熟しなければ撃てない殺傷力のある火の玉を人差し指一本で発射できるのだ。
ウェストエンドじゅうの殺し屋たちがピストルを手に入れたがり、そこまで悪の道に足を突っ込んでいないはずの行商人までが銃の密輸に手を貸している。
王国騎士団がウェストエンドの治安維持のために巡回に乗り出したが、その巡回も一度に十人近い騎士たちが集まらなければ中止された。
いまやウェストエンドは騎士といえど、一人でうろつくのが危険な場所になってしまったのだ。
そんなウェストエンドの秘密捜査から戻ってきたロランドはこの二週間書類仕事にかかっていた。
王国騎士だけでなく聖院騎士たちまでがヴァレンティ・フライデイ・フェアファックスの抗争にかかりきりになっているなか、ロランドはクルスの痕跡を探して、王都のあちこちの役所をまわっていたのだ。
菓子職人ギルドを利用した巨額の脱税事件。
カノーリが王国に広く知られることになり、事実上、菓子税を廃止に追い込んだこの事件の黒幕は未だ分かっていない。
捜査しようとするものが出くわすのは大量の書類であり、書類はまた別の書類につながり、役所の筆写係のもとに持ち込まれ、ネズミのごとく増殖し、事件の全容を覆い隠してしまう。
確証はないが、ロランドはこの黒幕はクルスなのではないかと思っていた。
これだけ狡猾な違法ビジネスを思いつく悪魔的天才と言われれば、クルスしか思い浮かばないのだ。
「それで旅立つのか」
アストリット騎士判事補は腕を組み、青毛の若駒に鞍を乗せるロランドを見つめている。
「はい。着任早々、アルドを後にすることになりますが……」
そこは聖院騎士団の厩舎だ。
早朝。王都はまだ寝静まっているが、パン屋の煙は淡い曙光のなかを漂い始める時刻。
藁と革の匂いがする鞍の腹帯を締め、ロランドは愛馬の手綱を取って、廊下へと引き出した。
それについていきながら、アストリットは肩をすくめた。
「気にするな。もともと我らは国境をまたいでの活動に意義を置いている。判事が好きなだけ追えと言ったのなら、それまでだ」
端麗な女騎士は少し黙ってから言葉を継ぐ。
「それにお前は自分のカンを信じればいい」
「はい」
「だが、教えてくれ。そのクルスという男にどうしてそこまで固執する?」
「おれにもよく分からないんです。でも、クルスは抗争が起こると、早々にウェストエンドを後にした。おそらくやつがしたいと思うことがもうここではできないと思ったんでしょう」
「クルスのしたいこと?」
「犯罪。それを芸術の域にまで高める。やろうと思えば、四人のアサシンを投入して、抗争を引っ掻き回すこともできる。でも、クルスは違う。最高のアサシンすら、自分の成そうとする芸術を実現させる一手段に過ぎない」
「それが例の菓子ギルド絡みの脱税か」
「おれはクルスがやったのだと信じています。税法の盲点を突き、自分の足跡を隠すために森を出現させるようなやり方でつくった大量の書類。こんな鮮やかなやり口は他の商会では無理だ」
「ロランド」
興奮し掛けていた若き騎士をアストリットがたしなめる。
「お前の言葉をきいていると、まるでクルスに焦がれているようだな」
図星をつかれて、ロランドはうつむいた。
手袋をはめた両の手は鞍の後橋に置かれている。
「そうかもしれません。やつは善と悪で判断しきれない。あの脱税によって、菓子税が廃止され、カノーリが貧しいものの手にもわたるようになった。騎士裁判所の人間として、クルスは悪だと断ずることができる。でも、一人の人間として考えると、倫理の境界が分からなくなりそうになって――」
アストリットはため息をついた。
「判事はそれを知るためにお前を送り出すのだ。我々は捜査だけでなく、審問もまた担当する。我々の職務上の権限は異端審問官よりも強大だ。そして、悪用しようと思えば、どこまでも悪用できる。だからこそ、判事は旅を許可した」
「アストリットさん。あなたも同じようなことが?」
女騎士は、フ、と笑う。
「あった。そして、今でも考えている」
アストリットが差しだした手をロランドは強く握った。
「元気でな」
「はい!」
ロランドはひらりと鞍上の人となると、馬の横腹を蹴った。
アストリットは門柱にもたれかかって腕を組むと、若き騎士の後ろ姿を見送った。




