第十六話 ラケッティア、ピクニックする。
その丘は王都アルドから北西に四十キロほど行った場所にある。
丘から周囲の田園地帯を眺める。
小さな教会と果樹園。糸杉の木立。
青い生垣で区切った耕作地のそばで放し飼いにされたラバが草を食んでいる。
左手奥の谷の入口に一軒の宿屋がある。
二時間ほど前、おれはそこの宿屋のカウンターに金貨を一枚、この大きなピクニックバスケットと一緒において、詰められるだけの料理と飲み物を詰め込んでくれと頼んだのだ。
「マスター、はやく、はやく!」
マリスが手を振っている。
他の三人はそこにギンガムチェックの毛布を広げ、風でめくれないように四隅に石を置いていた。
「まあ、そう慌てるな。今、行く」
毛布の真ん中にバスケットを置く。
四人の目は陽光にきらめくぐるりの草花を映して、きらきら輝いている。
「なにが入っているのですか、マスター?」
「知らん。金貨一枚渡して、入れられるだけ入れてくれって頼んだ。開けてみな」
がさごそ、がさごそ。
「ローストチキンのサンドイッチ!」
「スモークサーモンのサラダもある!」
「春リンゴのジュースもあるのです!」
「……っ! レモンパイ……」
「じゃあ、手と手を合わせて」
いただきまーす!
四人にはおいしいものを腹いっぱい食べる権利があるのだから、まあ、その権利を目いっぱい行使したらいい。
昨夜の逃亡劇はそれだけのものがあったのだ。
ヴァレンティの殺し屋たちは馬車と馬を用意していたので、ウェストエンドじゅうを走り回りながらの、カーチェイスになったのだ。
矢と投げナイフ、ときどき銃弾が飛び交い、アレンカの小さな竜巻がクズ野郎どもを満載した馬車をバラバラに吹き飛ばし、馬車のなかへ飛び込んだ敵をマリスが屋根ごと串刺しにし、ツィーヌの煙幕が同士討ちを誘い、ジルヴァは相手の馬車に飛びかかって掻き切れるだけの首を掻き切ってはこっちの馬車に飛び戻り、また飛びかかった。
四人がどうしてウェストエンドであれほどにも恐れられたかがよく分かった。
「マスター。食べないの?」
ツィーヌの問いにおれはうなずいた。
「眠いんだよ。だって、この二晩寝てない」
「おとといはなんで起きてたのよ?」
「あなたの頭がおれの腿の上にあって、ドキドキして寝れんかったんですよ」
「エッチなこと考えてなかったでしょうね?」
「そんなこと――ちょっとだけ考えたかも、あ、謝ります、謝るから、その毒の瓶投げないで」
結局、おれは馬車に戻り、座席で寝ることにした。
目を閉じる。
黄色い声が遠ざかる。
そのかわりに一つのイメージがまぶたの裏に現れる。
おれが撃ち殺した殺し屋だ。
仮にリカルドと呼ぼう。
素っ裸の娼婦の横で目覚め、リカルドの一日が始まったところだ。
大銀貨を二枚。ナイト・テーブルに置いて、女の尻を軽く叩く。
女は猫みたいに喉を鳴らし、今夜は何時くらいに来れるかたずねる。
リカルドは六時までには来れるとこたえる。がざがざしたシャツをひっかけ、ボタンを一つ違いにかけたが、直すのが面倒なのか、その上に詰めた綿がところどころ飛び出した革の胴衣をつけた。
膝丈のズボンに脛当てをつけて、先の尖ったブーツを履くと普通の丈のズボンのように見える。
殺し屋たちのあいだでは、これが流行っているらしい。
ズボンは流行に沿っているのにシャツのボタンは掛け違いのままにできる神経はおれには分からない。
一階に降りると、宿屋の親父が朝飯はどうするかきいてくる。
「いや、いらねえ。ほら、朝飯前の仕事があるんだよ。だが、ワインの白をくれ」
錫のコップのワインを飲む。銅貨を五枚置いて、外に出ると、相棒の――ガラルドとでも名づけておこう、そのガラルドが待っている。
お互い何も言わず、うなずき合う。
仕事の段取りは前日に散々言い合わせた。
二人で大きな屋敷の前へ行き、そのまま通りすぎ、曲がった角から様子を窺う。
リカルドとガラルドは他愛のない世間話をする。
共通の知人のうち、シャバで自由を謳歌しているやつの数を数え、数日以内に縛り首になるやつの数を数え、そのうち脱走の見込みがついているやつを数える。
そのうち、屋敷の門が開き、他ならぬおれが出てくる。
二人は自分たちのほうへ歩いてくるおれを見て、見張りの河岸を変える。
果物売りの屋台でオレンジの山の前に立ち、このなかで一番大きなオレンジをくれ、と言う。
そのあいだにもおれはリカルドとガラルドの後ろを通り過ぎる。
「構わねえ。あのガキをやっちまおう」
「銃を撃てるようにして、マントに隠せ」
二人はマントを肩から外し、それで銃を包む。
おれはトマトの苗を選んでいる。
音、そう、音がきこえる。ドレミファソラシド、ドシラソファミレド。
おれがリカルドとガラルドに気づく。
リカルドが一歩踏み出し、マントのなかから銃を引き出す。
おれを狙って、リカルドが引き金を引く。
包みが弾け飛び、焼けた土の臭いが硝煙と混ざり合う。
ガラルドが悪態をつきながら、おれを追いかける。
リカルドもそれに続く。
おれは果物籠につまずいて、オレンジをばら撒きながら、道に転がる。
ガラルドがおれを踏みつけ、おれを撃ち殺そうとする。
ガラルドの頭が吹き飛び、どす黒い血が柱のように噴き出した。
リカルドは左にいるエルネストを見る。
まるで台詞を忘れた役者みたいに呆然と立つエルネストをリカルドが銃で狙う。
「このクソ野郎! ガラルドを殺しちまいやがって!」
突然、リカルドの体がコマのようにくるくるまわる。
銃が手から落ちる。果物屋台に倒れて、プラムがごろごろとリカルドの体の上を転がっていく。
血と一緒に命が流れていく。
リカルドの口から最期の言葉がもれる。
「おれはどこに行くんだ?」
「北に行こうと言ったのはマスターだろう?」
まぶたを開ける。マリスがいる。馬車の扉から四人が覗き込んでいる。
差し込むのは夕日だ。
「おれ、結構寝てた?」
ツィーヌがふふんと笑う。
「すっごくぐっすりね。あんまりよく寝てたから、アレンカが『あうあう、マスターを起こしてはかわいそうなのです、あうあうあう』って言ってきかなかったのよ」
「むーっ! アレンカはそんなにあうあう言わないのです!」
「……大丈夫?」
「もう少し寝るのなら、ボクらはそれでも構わないけど」
「いやいや。よーく寝たから、もう大丈夫。はやく宿屋に急ぎましょー」
立ち上がり、よろけながら、外を見る。
全てが山吹色に輝いている。
耕した土から黄金の靄が湧き、糸杉の影が山の向こうまで伸びる。
全てが一からやり直し、ドラクエで言えば、呪いの音とともにぼうけんのしょが消えたところなのに、世界が輝き、途方もない広がりを見せて、おれを魅了する。
それはおれが日本円にして二億四千万円相当の財産を持ち、四人の美少女と一緒に旅をしているからかもしれない。
いや、どう考えてもそうだな。
でも、新しい土地に新しいラケッティアリングが手つかずで転がってることを思うと……。
ああ、おれは骨の髄まで悪い奴なのだなあと思うのです。
ウェストエンド 脱税のカノーリ編〈了〉




