第八話 見習いアサシン、任務開始。
気がつくと、ヴォンモはふわふわした布団のなかにいた。
ベッドの天蓋を包むビロードが朝日を含んで、薔薇色の灰のなかの熾火のようにぼんやりと光り、空気とこすれ合う音がきこえた。
どうも気絶したフリだけをするつもりが、本当に気絶してしまったらしい。
ぼんやりとだが、昨日の夜のこと、雨に打たれて震える葡萄の苗や池からあふれた水のリボンみたいな流れ、同じ木の前を何度も通ったことなどが思い出される。
さて、自分のような幼いアサシン、人としての心がないアサシンが知らないところで目を覚ましたら、するであろうことを考え、実行した。
一マイルの砂浜を歩くみたいに苦労してふかふかした布団から脱け出て、自分の着ていた服――ワインレッドのアサシンウェアを探すが、思った通り見つからず、短剣もない。
いま着ているのは白く軽い寝具である。
ただ、ここまでは想定内。
だからこそ、一番気に入っているあの剣は持ってこなかった。
まず武器を調達することを考えるが、寝室には象眼細工の書き物机や水晶灯の置物などはあるが、武器になりそうな類のものはない。
書き物机にはすでに削られた羽根ペンが三十本くらい、銀の文具入れに差さっていたが、ペンナイフがなかった。
シーツやカーテンを全部引きはがしてロープのようにつなげて、その片方を寝台の柱に結びつけると、窓から脱出を図る。
部屋は三階にあり、カーテンとシーツのロープは昨日の雨の水たまりに浸っていた。
苦労する洗濯係に申し訳ないと思いつつ、水たまりに着地すると、うっすら靄のかかった葡萄畑を走って逃げる。
走り始めて、三分と経たないうちに銀髪の忍びに追いつかれ捕らえられた。
――†――†――†――
「脱出を図るということはそれだけ元気になったということだ」
ヴォルステッドが笑う。
人のよい顔立ちに光る眼は南洋の海のように澄み切っていて、こんな善人をだますのは少々気が引けたが、アサシンになったら、そのくらいのことは朝飯前にできるようにならないといけない。
ちなみに今日の朝飯はパンケーキである。
しかし、大きな食堂だった。
長さにして二十メートルはあるテーブルの端にヴォンモが、そして、そのそばにヴォルステッドが座っている。
左の壁にはお仕着せ姿のメイドが四人並んでいて、主人とその賓客に何か不足がないかと目を光らせていて、右はガラス扉のアーチが並んでいて、葡萄畑がずっと向こうのシデーリャス通りのあたりまで続いている。
熱い紅茶とパンケーキがそこにある。
ヴォンモは手をつけなかった。
お腹は空いていたが 毒が入っていると思い、手をつけないのが、たぶん今の自分が演ずべき姿である。
「食べないのかい? 熱いうちに食べたほうがおいしいと思うが」
ちょっと困った顔をするヴォルステッドにヴォンモの後ろで腕組をして壁によりかかる忍びのカゲマルが言った。
「毒が入ってると思っているんですよ、王子」
「毒? なぜ、わたしがそのようなものを入れなければいけない?」
「そういうふうに考えるんですよ。この手の連中は」
ヴォルステッドはそうきいて、毒見がわりにパンケーキを小さく切って口に運び、紅茶を少し飲んだ。
「この通り。毒は入っていない。疲労で倒れていたのだ。食べて元気になってくれれば、わたしも嬉しいが――」
ヴォンモはむさぼりたいのを我慢して、生まれた初めてパンケーキを見たようにおそるおそる食べた。
紅茶には蜂蜜が入っていて、おかわりが欲しかったが、自分の役割を考えて、遠慮しておいた。
「どうしたのだ? 遠慮はいらぬぞ」
と、王子は言ったのだが。
「しかし、カゲマル。お前のカンは外れたな。この子はわたしの命を狙ってきたわけではないようだ」
「どうするつもりなんですか、王子。なんかこたえが見えてるので、先に言っておきますが、馬鹿ですねえ、王子」
「なにが馬鹿なものか。来栖ミツルの毒牙から一人の少女を救う絶好の機会ではないか」
「だから、馬鹿だって言うんです。もし、クルスが王子が言っているみたいなやつらなら、新しいのを見つけて、おもちゃにするだけでしょ?」
「そうときくと、ますます許せぬ。ますますこの子を返すことができないではないか」
「王子、なんでそこまでオツムがイカれてるんですか? ここは託児所じゃないんですよ」
それだけ言うと、カゲマルはぷいっと出ていってしまった。
託児所、という表現は気に入らなかったから、顔に出さずにいるのに少々苦労した。
「あれも根は悪いやつではないのだ」
と、ヴォルステッドは申し訳なさそうに甘いマスクをやんわり崩した。
――†――†――†――
その後、二日のあいだに三度脱走を図り、三度ともカゲマルによって捕まった。
ちなみに二日のあいだ、ヴォンモは一言もしゃべっていない。
心を閉ざしたアサシン少女の芝居はなかなかうまくいっているが、あんまりだんまりが利きすぎて、ディアナの書いた身の上話を始めるタイミングがつかめない。
ヴォンモの任務はヴォルステッドに酒に対する忌避を植えつけ、そのままロンドネ宮廷に禁酒法案をぶち上げさせることなのだ。
さて、三日目に一つの変化が現れた。
ここに来て以来、アサシンウェアは没収されたままだったが、そのかわりに着心地のよいブラウスとスカート、絹の黒いストッキングと踵の低い婦人靴が与えられていた。
ところが、三日目になると、小さな青い花のブローチが添えらえていた。
まるで拒絶されることが分かっていて、おっかなびっくりにたたまれたブラウスの上に鎮座していた。
青い陶器の花に銀があしらわれているもので、花を取り巻く模様が細かく描き込まれている。
これをつけて、朝食に出ると、ヴォルステッドは、やあ、似合っている、と言ってくれた。
その笑顔を見ると、ヴォンモは初めて来栖ミツルと出会ったときのことを思い出さずにはいられなかった。
来栖ミツルはヴォンモを狩りに来た農園側の追手からヴォンモを守ってくれた。
ヴォンモを助け出そうとしてくれた。
ヴォルステッドも騙されて勘違いしているとはいえ、同じことをしようとしている。
「どうして……わたしに優しくするんですか?」
「きみがかわいくて、本当は心の優しい女の子だからだよ」
「……誰か殺してもらいたい人がいるんですか?」
「違う。そんなことじゃない。断じて違う。誰もきみにそんなことを強制することはできない」
「でも、わたしは……誰かを殺すことしかできないから」
おお、なかなかいい感じに会話が進んでいる。
もう少ししたら、身の上話をぽつぽつ語り始め、禁酒法へと誘導できそうだ。
ただ、禁酒法へ誘導すればするほど、ヴォルステッドが抱く来栖ミツルへの印象が悪くなるのは悲しかった。
来栖ミツルはそんな人間じゃない。
来栖ミツルは偽悪者――偽善者の反対だ。
やりたい悪があり、そのためならヴォルステッドのような正義の味方に憎まれることなど、これっぽっちも痛くもかゆくもないというのだろうが、ヴォンモは来栖ミツルの心の一番奥にあるものが善であることを知っている。
来栖ミツルはそれを『越えてはいけない一線』と呼んでいた。
もし、可能なら、ヴォルステッドに知ってもらいたい。
マスターはそんな極悪人ではなく、自分を地獄から助けてくれて、その下でこれまで考えたことがないくらい健やかに暮らしていることを。
「はぁ? 女の子らしさ? それをあたしに求めるんですか、王子?」
考え事をしていて、まわりに起きていることに注意が向かなかった。
見れば、長身でがっしりとした女騎士が困った顔をして立っている。
「アナスタシア。きみにも少女だった時期があるだろう? こう人形とか花とかが好きだった時期が――」
「ない。ないない。あたしは腕立て伏せしながら生まれたんだ」
「この子だって、こうずっと館に閉じ込められたのでは窮屈だと思うのだがなあ」
「隙を見て、逃げ出すよ、きっと」
「いや、そんなことはしない。わたしには分かるぞ」
と、言いながら、ヴォンモのほうににこりと微笑みかけた。
ヴォンモはなんとなく気おくれして目を伏せた。
「そうだ、今日一日の正義執行にこの子を連れていこう」
「えーっ! 今日? だって、こないだやったばっかしじゃん」
「もう悪ははびこり直している。カゲマルを呼べ。今日は一日、ビシバシ正義を執行するぞ!」




