第十一話 ラケッティア/騎士判事補、危機一髪。
スミスフィールドから一ブロック離れた壁に鉄格子の扉がある。
地下水道に通じるもので、大きな錠がかかっているが、だいぶ錆びついている。
ロランドは厚め造りの短剣を雑嚢から取り出すと、それを掛け金に差し込み、力いっぱいひねった。
錠はあっさり割れて、落ちた。
短剣を脛に結んだ空っぽの鞘に入れると、石段を下りる。
ウェストエンドの地下には千年以上前につくられた古王国時代の水道が網の目のようにめぐっている。
水道といっても水源はとっくの昔に枯れて、その役目を終えていた。
バンダナを巻いて口を隠し、小さいが長持ちするカンテラをかかげて、水気のない埃っぽいトンネルを進む。
地下のトンネルはかっぱらいで食いつなぐ孤児たちの家であり、砦であり、そして墓場にもなり得た。
教会の孤児院に保護されるまでは決して聖人君子とは言えないやり方で生きてきたロランドも何度か地下トンネルの世話になっている。
ただ、地下トンネルだって絶対の安全地帯ではない。
悪党が死体を埋める現場や異端者たちの秘密の礼拝に出くわしたら、そこで殺される。
ロランドの孤児仲間のほとんどはこの地下で死んだのだ。
今のロランドは剣も持っているし、その剣をかなりうまく扱えるが、それでも地下に入れば、神経が尖ってくる。
追い剥ぎや狂犬の待ち伏せがないかと、どんな些細な物音も聞き逃すまいと耳を澄ます。
地下への入口とフライデイ商会の事務所までの位置関係を頭に入れ、その距離感だけを頼りにトンネルを進む。
排水口から差し込む光や石の天井を通じてきこえる足音から判断するに、自分はいま、スミスフィールドの真下にいる。
方向は間違いない。
二百数えるうちに行き止まりについた。
だが、天井を見上げると、岩が崩れて、板床がむき出しになっている。
上で話す連中の声がかすかだが、きこえてきた。
話しているのはひどく声がかすれた老人で、何を言っているのか聴き取るには、もっと天井に近づかないといけない。
幸い、壁が崩れて、足場になっていたので、その上に立ち、天井に張られた板床材に数センチというところまで耳と近づけた。
――†――†――†――
「麻薬についてはわしはやらない」
おれは言った。それは、この世界に来て以来、最初の、イタリア系マフィアらしいケジメだ。
「だが、ヤクはカネになる」
「あれは人を破滅させる」
「この街で人を破滅させない娯楽なんて存在しねえさ」
「では、一つきくが、あんたたちはその手のクスリを傭兵たちの戦場でさばかせたことはあるか?」
「分かった。あんたの言いたいことは分かった」
「麻薬の汚染はわしらのような人間が守る秩序すらも食い潰す。縄張りも何もなくなり、次の一服のためにケダモノどもが好き勝手に動くことになる。試しにそこの鍛冶市場に流してみるといい。一週間だ。鉄を打つ槌の音が絶え、誰もが正業を忘れるのにほんの一週間しかかからない。次は部下たちが麻薬漬けになる。誰の言うこともきかなくなり、麻薬のために軽率な犯罪に手を染め、ファミリー全体を危険に晒す。カネにはなるのかもしれないが、そのかわりに失うものは計り知れない。だから、わしは売らんのだ」
いいぞ、いいぞ。
麻薬を厳しくはねつけるのはすっげえゴッドファーザーらしい。
ドン・コルレオーネも麻薬だけはいかんと言ってたもんだ。
だが、何よりも嬉しいのは、麻薬関連の話のおかげでフライデイの連中がグラスのなかのガソリンを忘れてくれたことだ。
どうやら、フライデイ商会が一番気にしていたのはおれが麻薬に手を出し、商売敵になるかどうかだったらしい。
小指一本だって出しゃしないって、という意味合いの言葉を知恵のあるゴッドファーザー風のレトリックに変換して、きっちり伝えると、フライデイの連中、めちゃくちゃ喜んだ。
ヤンキーってのは単純で助かる。
「じゃあ、ドン・クルス。ヤクに手を出すつもりはねえってことは協定を結ぶと考えてもいいんですね」
「ああ」
「じゃあ、そいつを祝して乾杯といきましょうや」
フライデイの五人がグラスを手に取る。
おれもにっこり笑って、グラスを取った。
……。
あーっ! やべえ! ハメられたあ!
これじゃ絶対飲まなきゃいけないじゃん!
だって、この乾杯、麻薬に関する協定を結ぶための盃でしょ?
うわー、下手こいたぁ。
これ、ますます飲まないわけにはいかなくなったよ、ちっきしょー。
飲まなかったら、なんだかんだで麻薬に興味があると見なされて戦争。
飲んだら、ぶっ倒れて笑われて戦争。
うげ、バッドエンド確定。
下手すると今すぐ戦争。
ナンシー・シナトラの曲が流れ出して、ぶっ殺し合いが始まる。
いやいやいや、ゴッドファーザーっぽくない。
タランティーノの世界だよ、それは。
なんとかして、軌道修正しなきゃいかん。
でも、もうグラスは手にしちゃってる。
どうするどうするどうするどうする……。
「……」
フライデイの幹部のなかで一番でかくて、一番疑り深そうなのが、おれの顔とグラスを訝し気に見て、たずねた。
「ドン・クルス?」
ぷちん。
捨てちゃえ。
だって、飲みたくないんだもーん。お酒、嫌いなんだもーん。
グラスを真横に傾けると、散々、おれを悩ませてきた十CCにもならない液体どもは板床に開いた節穴へダイレクトに落ちた。
いい気味だ。このまま、禁酒法でもできればいいんだ。
そうすりゃ密造酒で儲けられるし、本物のギャングみたいだ。
さて、何が起こるかな? 宣戦布告? 奇襲攻撃? 絨毯爆撃?
なんでも来いよ、なんでも!
あ、でかいのが暖炉の横に立てかけてあった斧を持ち出した。
おれの頭でスイカ割り目隠し無しバージョンをする気らしい。
そうはさせじとマリスとジルヴァが構える。
でも、でかいのはそんなことではひるまない。
そいつは斧を大きくふりかぶって――。
――†――†――†――
ロランドは足場から転がり落ちた。
目が痛くて、涙が止まらない。
床の節穴から流れ込んだ強い酒を目にまともに浴びた。
だが、うずくまっている時間はない。
すでに斧が階上の床板を叩き割っていて、侵入者をぶち殺せと叫んでいる。
ロランドは短剣を抜きながら、なんとか立ち上がり、大きく開いた排水管へと肩から飛び込むと、体をかがめて、走った。
フライデイ商会の団員たちが次々と地下へ飛び降りているらしく、涙で歪んだ視界には硫黄とナフサをたっぷりつけたらしいたいまつの光が不気味にゆらめいていた、
「どうしてバレたんだ?」
逃げながら、ロランドはその問いに苛まれた。
いつから気づかれていたのか、わざわざ麻薬の流通に関する協定をきかせてから、こんな形で追いつめてくるとは思いもよらなかったのだ。
出口へ走り、鉄格子の扉を閉じ、錠が下がっていた切れ目に短剣を突っ込んでかんぬきにし、なかから開かないようにする。
これで追手はもう動物園の猿同然だ。
鍵自体はもろかったが、扉は本物の監獄用の扉並みに頑丈だ。体当たりをすれば、肩の骨にひびが入るはず。
ロランドは後ろに気を取られ、前から走ってくる馬車に危うく轢かれそうになった。
ちらっと見えた。馬車のなかの老人。あのクルスだ。
ロランドのなかに湧いた感情は複雑なものだった。
歳が祖父と孫ほどにも違うのに、ロランドはクルスを好敵手と見た。
まだ相手のほうが実力が上だが、いつか追いついてみせるという熱い意志はただの犯罪者と司法官の立場では説明できない。
「クルス。間違いない。騎士裁判所が追いかけるだけの価値のある犯罪者だ。今回はやつの勝ちだ。だが、次は――次は必ず尻尾をつかんでやる!」
――†――†――†――
「あー、助かった」
帰りの馬車のなか。
おれは軟体動物みたいにぐにゃぐにゃと座席に沈み込む。
フライデイ商会は文字通り足元に侵入者がいたことで大騒ぎになり、どさくさに紛れて、そのまま帰ることにした。
おれはというと、誰も気づいていなかった――うちのアサシンたちでさえ気づいてなかった――地下の謎の侵入者を見つけたことで、フライデイの面々からは油断のならない狡猾な男と見られたようだ。
その評価なら軽々しく戦争を仕掛けられることもないだろう。
誰だか知らないが、ちょうどいいときにちょうどいい場所にいてくれて助かった。
おかげで誰も死なずに済んだ。まあ、死ぬのはあっちのほうだとしてもだ。
それにしても、名もなき救世主殿はあんな地下で何をしてたんだろうなあ。
まあ、助かったからいいか。




