第三十一話 怪盗とバーテンダー、たった一人の人間がなせること。
朝靄の切れ目から漏れ落ちた光のなかで聖ルブの剣が静かに台座に横たわる。
そして、その後ろには聖騎士ルブの物語。
二十三の異なる色の石を切ってはめ込んだ壁画のなかで、聖騎士ルブが名もなき盾持ちとともにこの海域を支配していた海竜を倒す。
ところが何度見ても、聖ルブの髪は黒く、名もなき盾持ちの髪は金色だ。
ルビアン中心の海竜騎士団とその国家をひっくり返す途方もない考古学的発見(来栖ミツルの言葉を借りるなら『クソの山に仕掛けられたダイナマイト』)。
言い伝えはルビアンの聖騎士ルブが海竜を倒し、名もなきルネドの盾持ちはその功でこの海域に住むことを許されたというものだ。
そもそもルビアンという言葉がルブから派生したものなのだ。
それが真逆だった。
実際はルブはルネドであり、ルネドこそ、この海域を統べる権利のあるものだったのだ。
だが、それを知っても、クリストフの心に怒りだとか驚きだとかは飛来しない。
ただ、騎士団の最高幹部たちはこの壁画の存在を知っているなと淡々とした思いだ。
納得がいった。だから、この島に人を置きたがらなかったのだ。
――とんでもない秘密が露見するのを恐れて。
イヴリーのほうは唖然としてる。
それを見ると、かわいそうになった。
この壁画を隠したせいで大勢のルネドがひどい暮らしをしてきたのは分かるが、一人の少女の価値観が崩壊するのを見るのは別の話だ。
イヴリーは一度もクリストフやジャックのことをルネドと嘲るようなことを言ったことがなかった。
イヴリーがこの絵を見たとき、嘘だともいわず、自分やジャックに口外を禁じるわけでもない、計り知れない絶望に思考停止に陥るわけでもない。
ただ一言、こう言った。
「聖ルブよ。わたしたちは償わなければならないのですね」
ああ、この子は騎士だ。本物の騎士なのだ。
「おれがあんたなら――」
と、ジャックが言う。
「この絵の存在は伏せる。これがルネドに知れれば、内戦か虐殺が起こる」
ジャックの言うのはもっともだ。
これまで自分たちを押さえてきた優勢思想の根幹に誤りがあったと知れば、数に勝るルネドはルビアンに襲いかかるだろう。
ルビアン側も反撃する。
それにガルムディア帝国の存在も忘れてはいけない。
騎士団のために魔物を用意するほどのつながりがあれば、ルビアンを迫害から守るという口実で干渉してくる。
そうなれば、途方もない死者が出る(来栖ミツルの言葉を借りるなら『ドすげえコロシがおっぱじまる』)。
だから、なかったことにするのがいいだろう。だが――、
「これを公表しないわけにはいきません」
「公表したら大勢死ぬぞ」
「公表しなければ大勢のルネドが虐げられたままです。なんとか和解に持ち込んで、今のルビアン中心主義を改めるのです」
こんなこと言いたくないが、とジャックは頭の後ろをかきながら言う。
「あんたはルビアンの騎士だ。ルネドの民衆はあんたの言葉を信じない。ルビアンはあんたを嘘つきだと呼ぶ。家族からも絶縁されて、今の恵まれた環境を失う。しかも、何も成し遂げられない。成し遂げられたとしても虐殺がせいぜいだ。これは正義とか自己満足で考えるべき話じゃない」
「じ、自己満足なんかじゃありません! わたしは、わたしは――」
「うん。公表すればいい」
「え?」
「それがキミが正しいと信じたのなら、進むべきだ」
「おい、クリス。こっちに来てくれ」
クリストフがイヴリーから離れると、ジャックは腕を組み、ふーっとため息をついた。
「自分が何を勧めてるか、分かってるよな?」
「どの道、カレイラトス島で独立がされる。これはそれの大義に使われるのが精いっぱいさ」
ジャックはじっと仮面に飾られたクリストフの目を見た。
「……ある小さな国で農民の蜂起が起こった。貴族と農民が激しくぶつかり合って、大勢が死んだ。おれは任務で農民側の首謀者で〈説教師〉と呼ばれていた男を殺した。すると、内戦は消えてなくなった。貴族側の報復も農民側の不服従もなくなり、死んだ人間を除けば、その国は蜂起が起こる前に戻った。何が言いたいか分かるか? 戦争や虐殺はたった一人の人間の意思で起こり、また維持されることがある。そして、イヴリーはそのたった一人になりつつある」
「でも、それはつまりこういうことだ。歴史的惨劇は一人の人間によって引き起こされる程度のものに過ぎない。つまり、惨劇の発端になるのが一人の人間なら、その惨劇を防ぎ、寛容な方向へと流すのも一人の人間のなせる業だ。もちろん、そんな甘いことが通るほど世の中は簡単にできてない。でも、そいつはただの甘ちゃんなんかじゃない。それどころかとんでもなくずる賢い。そんなやつが人々を内戦や虐殺から遠ざけようと心に決めたら、実際、叶うかもしれない」
「……まさか、オーナーのことか?」
クリストフはうなずいた。
「おれは信じたい。イヴリーの信念とミツルの抜け目のなさを」
ジャックはまた、ふーっとため息をついた。
だが、それは何か背負っていたものを下ろした安堵の息にも似ていた。
「まあ、そうだな。ルネドたちを一つのギルドにまとめたあの人だ。虐殺をしろともするなとも言える立場にあるのは違いない。そして、オーナーは――」
「大虐殺を望んでいない。絶対にな」
(来栖ミツルの言葉を借りるなら『すげえ無茶ぶり――まあ、がんばるけどさ』)




