第二十九話 ラケッティア、南部高原のスケッチ。
その枝からは首を刎ねられたヘルハウンドが後ろ脚を縛られて吊るされていて、枝が魔物の重みで折れないよう白く灼けた丸太がかってあった。
地面には刎ねた首から垂れてくる血を受け止めるための皿が置いてある。
皿にも首なし死体にも黒くて小指の先くらいの大きさの蝿がたかっている。
あとできいて分かることだが、これは片思い成就のまじないなのだそうな。
恋愛成就でこのレベルなのだから、憎いあんちくしょうの足の小指がタンスにぶつかるおまじないともなれば、半端じゃない数の生贄を用意し、一度見たらトラウマでカウンセリング間違いなしの血みどろぐちゃぐちゃな儀式を敢行することだろう。
「ひでえ土地に来ちまったなあ」
蒸し暑く、風がそよとも吹かない。
もし風が吹いても、暑い空気をただかきまわすだけだ。
風に舞い上がった乾ききった赤土を口から吐き出そうと唾を吐くと、地面に落ちる前に蒸発した。
「ホントにひでえ土地に来ちまった」
この平原の支配者は中小規模の農園主たちだ。
ニンジン色の髭の端を噛みながらしゃべり、金の耳輪を無頼の印に輝かせ、火薬入りのメスカル酒を煽り、大きな山刀の腹を叩いてリズムを取るルビアンの男たち。
他人の土地をだまし取る人間が尊敬され、殺して奪ったらもっと尊敬される。
そんな土地でロムノスがうまくやっていけるとは思えないのだが。
なにせロムノスはあのもふもふたちとは親戚筋にあたる魔法生物なのだ。
それにおれを狙ったことの負い目から自分を追放処分に課すほど真っ直ぐな不器用者が、こんな土地全体がひん曲がったところで安らかに暮らせるとも思えなかった。
道端で巨大な竜舌蘭から水を吸い取っている男を見つけた。
「なあ。ロムノスってケモミミイケメンを知らないか?」
男は口を竜舌蘭の切り口にくっつけたまま、ほんの一、二秒、さっと道の先を指差した。
曲がりくねった道の先には小さな森があり、そこを指差したようだ。
礼を言い、馬車を進める。
太陽がぐるぐるまわりながら燃えてる。
クソ暑である。
幌に助けられている部分もあるが、風が吹かないので熱気がこずんでしょうがない。
「頭領、ジャックは残すべきだった」
「今更、何言ってんだ?」
「あいつ、指先から氷をつくれるじゃん」
「お前、クリストフにジャックをつけるとき賛成したじゃねえか。あんなひよっこ一人じゃ危ねえって」
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ」
「じゃあ、あれはなし。頭領、ジャック呼んでくれない?」
「だから、あいつは聖ルブの島にいるんだって」
「なんで?」
「クリストフのサポートにつけた」
「誰がそんなことしろって言ったの?」
「お前」
「じゃあ、あれはなし。あー、喉かわいた。頭領、ジャック呼んでくれない?」
「聖ルブの島」
「なんで?」
「お前が連れていけって言ったから」
「じゃあ、あれはなし。頭領、ジャック呼んでよ」
暑さでトキマルの脳みそが溶けたらしい。
しかし、こちらにもそれを是正する元気はない。
なにせおれたち二人ときたら、馭者はヴォンモにまかせて、荷台でこんにゃく人間みたいにぐだっとしているのだ。
唯一元気なのはイヴェスで、突然、馬車を飛び降りて、道端の草むらに突っ込んだかと思ったら、フィーリングで仕留めた雑草を山と抱えて、戻ってくる。
それをさっきから繰り返しているのだ。
――†――†――†――
その町はボワと呼ばれていた。
ボワというのはこのへんの性悪の森を表す言葉で、なるほど確かに遠くから見たときは小さな森にしか見えなかったが、大自然のお情けで小さな土地を開けてもらい、そこに粗末な小屋が立ててある。
銀貨みたいにきらめく木漏れ日以上に価値のあるものがあるとは思えない町で、町の入り口で無様に腹を出し、蚊をピシャピシャ叩いている男にロムノスのことをたずねると、わずらわしそうに酒場のほうを指差した。
この南部平原では植物から水をちゅうちゅう吸ったり、蚊トンボ相手に対空砲火を仕掛けたりするくらいしかやることがないくせに、本人たちはそれをライフワークとし、それ以外のことには見向きもせず、見るとしても、めんどくさそうな顔をする。まるでこう言っているようだ――おれはいま、大自然と人間の調和をつかさどる一大儀式をしているのだ、このおれがそれを一秒でもほったらかしにすれば、世界はたちまち炎に呑まれ、全ての人間と文明は滅びるのだ、わかったか? わかったら邪魔すんじゃねえ。
男を上げるには誰かを刺すしかないこの土地がどれだけ人類の発展と良心の展開に貢献しているかはとりあえずおいておいて、酒場に入る。
粗末な板を釘ででたらめにくっつけた小屋にいたのは、テーブルに開いた指のあいだをナイフでざくざくつつく男としみだらけのトランプでジン・ラミーをしている二人組、それに指を交差するおまじないを練習する店主しかいない。
だが、おれの目はカウンターの隅に置かれた焼き菓子に注がれた。
カノーリ!
こんな文明の果てにおれがこの世界に導入したカノーリがある!
それだけでもこのちんけな町が人間文明に属している証だ。
しかし、コナンの舞台の米華町並みに殺人事件が発生しそうなこの町において、カノーリをつくることのできる男がいたとは。
「なあ、おっちゃん。あのカノーリ、誰がつくったの?」
店主の親爺は交差した指から目を離さずにこたえた。
「ギヨームって男だ。だが、もうつくれねえぞ。一週間前、背中から刺されて死んだから」
よく見ると、カノーリから異臭がし蝿がたかっていた。
前言撤回。ここは人間文明の範囲外だ。
さて、ロムノスのことをたずねるが、全員が漠然と海の方向を指差すだけ。
ナイフで指のあいだをざくざくやっている男は一言、
「赤シャツ隊」
と、言った。
赤シャツ隊? ロムノスはそれに加わっているのか? それともそいつらともめているのか?
おれが知っている赤シャツ隊は十九世紀半ば、イタリア統一に尽力したジュセッペ・ガリバルディ率いる義勇兵としての「赤シャツ隊」だ。
ガリバルディと千人の命知らずの赤シャツ隊はシチリアに上陸して、そこでナポリ王の軍隊を破ったのだが、伝説ではシチリアのマフィアがそれに手を貸したとか。
その後、赤シャツ隊は南イタリアに上陸し、ナポリを攻略し、南イタリア全土を掌握した。
無私の人ガリバルディはその占領地をイタリア統一のため、北イタリアのサルディーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ二世に何の見返りも要求せずに献上した。
こうしてイタリアは長靴の形のまま独立を達成したという美談だが、でも、正直な話、ガリバルディが自分で南イタリアに共和国をつくっても長持ちはしなかっただろう。
なにせ、シチリアにマフィア、ナポリにカモッラ、カラブリアにヌドランゲタがいて、おまけに山賊がめちゃくちゃたくさんいる。
そんな地域を、ローマの権威も、ミラノの経済も、フィレンツェの文化もない状態でどうやって支配しろというのか?
殺人事件の発生率が米華町並みになるのは目に見えている。
おまけにそのほとんどは未解決になるのだ。たまったものではない。
だが、この土地の赤シャツ隊がどんなものがたずねることはできなかった。
ナイフ男は、おれに話しかけるな、とばかりに超高速でフィンガー・フィレに勤しんだからだ。
「きっと返り血で真っ赤だから赤シャツ隊なんだぜ」
馬車にゆられながら、トキマルが悲観的推測を楽観的な口調で言う。
「いや。自由と民主主義を重んじ、人類の未来を信じる正義の政治結社の可能性も捨てきれない。それにロムノスが参加してる、ってのはありそうな話だろ?」
「むう。おい、メスチビ。お前、赤シャツについて何かきいてないの?」
「何もきいてません。あの農園は外の情報から切り離されてましたから。それとおれにはメスチビじゃなくて、ヴォンモって名前があるんです。次からはちゃんと名前で呼んでください」
「そうだぞ、ぐうたら忍者。ちゃんと名前で呼べよ」
「おれにもトキマルって名前があるんだけど」
道が少しずつ細くなり、海の見える丘で行き止まりになった。
椰子の丸太でつくった小屋と小さな野菜畑。
野心も違法性も感じられない農家のドアが開く。
おれを見たとき、キツネの耳がぴくりと一度だけ動いたが、それだけだ。
ロムノスは持っていた弓を置くと、もうこの世に思い残すこともあるまい、みたいな達観した微笑みをたたえていた。




