第八話 ラケッティア、『ぬ』攻め・オン・ザ・シー。
最果ての砂丘はサゾケア島から四日ほど行ったところにある。
以前、カラヴァルヴァの船員教会へ行ったとき、海図を写した綴れ織りの敷物が壁からかかっていたことがあった。
かなり広域の海をカバーしていたが、そのなかでも最果ての砂丘は一番端にあり半分敷物の外にはみ出て消えていた。
リディ――というのは例の女海賊の名前だが、リディがそんなところにイヴェスを捨てるということは二度とそのツラ見せんじゃねえ、という強い意思表示なのだろう。
頭を打ったイヴェスがどれだけはっちゃけているのか知らないが、まあ、こっちとしてはふんじばってでもしてカラヴァルヴァに連れて帰れば、なーんの問題もない。
「しかし、何もないな」
トキマルがこぼす。サゾケア島を去ってから四日。
そろそろ島が見えてもいいころだ。
だが、交易船や漁船に出くわすことはないし、海鳥もいない。
「少し南に流されたか?」
ジャックが海図とコンパスを交互に見ながらたずねた。
「かもしんね。どーでも、とはさすがに言えない」
「ひょっとすると、おれたちは最果てを通り過ぎたのかもな」
「それもありうるんじゃない? 頭領はどう思う?」
「ちょっと塩が足りないな」
「は? 潮なんて、そこらへんいくらでも――って、頭領、なにしてんの?」
「見りゃ分かるだろ? ムニエルつくってんだよ。レモンの輪切りをのせるから壊血病対策になる。すげえだろ?」
ド丸の司厨長はジャックだが、現在はトキマルを手伝って帆を張ったり、舵を取ったりしているので、船長たるおれが司厨長代理を務める。
間違った人事とは言えない。このなかで魚を三枚におろせるのはおれだけで、こいつらときたら魚を見たら串焼きの一手あるのみなのだ。
サゾケア島で買った小麦粉は箱のなか、バターは布で包み、ジャックの氷をまぜて湿らせた砂の壷のなかに埋めておいてあるので、いつでもフレッシュ。
この簡易冷蔵庫ともいうべき砂の壷にはフレッシュバジルやレモンも入れてある。
おまけにこのあたりの海は人間に惜しみなく動物性タンパク質を提供してくれる。
このへんの魚はおそらく釣り針というものがこの世に存在することを知らぬのか、針にパンくずをつけて放ると、すぐ何かしらかかる。
今バターで焼いているカンパチもほんの三十分前はこの海を泳いでいたものだ。
中世ヨーロッパや大航海時代、というより十九世紀半ばまで航海途中の船のメシは激マズで干すか塩漬けかのどちらかしか食えないというが、この来栖ミツルさまが司厨長代理の地位にある限り、ド丸にクソマズ料理が供されることはない。
期末試験でぴいぴい泣かされた脳みそを今こそこき使うとき。
人間、工夫とカネさえありゃ、どんな旅でもうまいものは食えるのだ。
「ほら、出来上がった。熱いうちに食おうや」
――†――†――†――
黄金色の落陽に舳先を向け、バラ色の雲が夜のなかへと冷めゆくのを見ながら、ブリキの皿を海にくぐらす。
三十秒もそうやっていれば、あら不思議。
油汚れも、まあまあさっぱりとれる。
このへんの潮は流しそうめんくらいの速度で西へ向かっていて、艫にぶつかってできた渦が軽々とド丸を追い越していく。
食器洗いが終わり、コンロの火を落とすと、めいめいが甲板に寝転んで、蒼い星空を背景に金箔でも貼ったみたいに輝く三角帆を見上げる。
星空と夕映えが共存するほんの一分足らずの光景だ。
「今日のメシはまあまあ。昨日食った米のメシはなんて名前だった?」
「パエリヤか?」
「あれがまた食いたい」
「いいイカと食いでのあるエビが釣れたらつくる」
「ここらへんのイカは槍みたいな形をしていないな。うちわみたいだ」
「その分、食えるところがたくさんだし、普通のイカよりもうまい。ところで何してんだ、ジャック?」
「氷をつくって真水樽に入れてる」
「その製氷魔法、くそ便利だな。だって、海のど真ん中で真水の補給ができるんだから」
「猫とレモンと氷魔法は長期航海に欠かせないものだ」
「きいたか、トキマル。欠かせないんだって」
「どーでも」
「……」
「……」
「ひまだな」
「ああ」
「もーすることもないし」
「じゃあ、しりとりしようぜ」
「は? ガキじゃあるまいし」
「ふん、そんなこと言って、脱力忍者、お前、負けるのが怖いんだな?」
「そんな安い挑発、乗らないってーの」
「おれはやるぞ、オーナー。負けるのも怖くない」
「おい、言っておくけど、おれは負けるなんて一言も言ってない」
「うん、そーだね、トキマルくんは負けないんだよねー」
「なんだよ、そのいかにも目からハイライトが消えて魂込めてありませんって反応……いいぜ、やってやる。アズマの忍びの語彙力、なめんなよ」
「じゃあ、おれ、ジャック、トキマルの順でいいか?」
「ああ」
「はやくやろーぜ」
「じゃあ、行くぞ。第一発目。しりとり!」
「りんご」
「ゴリラみたいに凶暴なツィーヌ」
「おいこら、なんだよ、それ? そんなのありか?」
「実在してるんだからいいだろ?」
「ツィーヌに知られたら、ぜってー殺されるぞ。まあ、いい。『ぬ』だな。えーと――ヌートリア!」
「アリバイ」
「怒り狂ったツィーヌ」
「また、それかよ!」
「実在してる」
「お前、アズマのお国の言葉で攻めるんじゃねえのかよ? 『いかそうめん』とか」
「それじゃ、おれの負けじゃんか。ほら、『ぬ』だよ」
「うーんと――ぬか漬け」
「食いてーな。ぬか漬け」
「『け』か。……剣闘士」
「屍の山の頂に立つツィーヌ」
「……」
「……」
「分かりました。よーく分かりました。お前、『ぬ』攻めするってんだな。このおれ相手に? 公立松ヶ宮高校で最も『ぬ』で始まる言葉を知っている男と恐れられたこのおれ相手に? よろしい。その挑戦、受けて立とう。ヌドランゲタ!」
「オーナー。それ、何なんだ?」
「イタリアのカラブリア地方を根城にする犯罪組織の名前。ほら、『た』だぞ、ジャック」
「イタリア? そんな国あったか? まあ、いい。た。えーと、たぬき」
「キレてキレてただキレまくる日々をおくるツィーヌ」
「ヌオヴァ・ヴィッラ・タマーロ」
「オーナー、それは――」
「1931年4月15日にニューヨーク・マフィアの大ボス、ジョー・マッセリアが撃ち殺されたレストランの名前だ。はい、『ろ』!」
「ろうそく」
「くだらねえことでいちいち因縁つけてくるツィーヌ」
「ヌッチ・ファミリー。パニッシャーってアメコミに出てくるマフィアの名前。ボスはイザベラ・カルメラ・マグダレーナ・“マー”・ヌッチ。はい、『り』」
「陸地」
「まだ見えてこないな。ち、ち。血飛沫浴びてケタケタ笑うツィーヌ」
「ヌオヴァ・カモッラ・オルガニッザタ。1970年代、ナポリの犯罪組織『カモッラ』のボスの一人、ラッファエーレ・クートロが獄中から創設した新興犯罪組織。はい、『た』」
「なんか、このなかでまともにしりとりしているのは、おれだけじゃないか?」
そんなこたぁない! と、おれとトキマルの声が揃う。
「ほら、ジャック。『た』だぞ」
「じゃあ、焚火」
「ビンタを食らわす機会を虎視眈々と狙っているツィーヌ」
「ヌヴォレッタ・ファミリー。前述のヌオヴァ・カモッラ・オルガニッザタと抗争したカモッラ。当時のボスはロレンツォ・ヌヴォレッタ。はい、『り』! おらおら、どうした? おれはまだ手持ちの『ぬ』の百分の一も使ってないぞ!」




