第十六話 騎士判事補、春の庭にて。
カラヴァルヴァから北に七十キロ。
地平の限りまで青い小麦畑が広がる巨大な荘園はアブリーニ公爵夫人の持ち物の一つだった。
公爵夫人の他の持ち物といえば、他には湖に臨む城やきらびやかな宝石があったが、公爵夫人はとくにこの荘園――ラ・カッティエンナを気に入っていて、一年のほとんどをそこで過ごしていた。
ラ・カッティエンナに馬車が一台走ってきている。
長旅用にスプリングを取り換えた駅馬車で、馭者台と車体の後ろの車掌台ではぴたりとした黒服の少女が二人ずつ、風に髪をなぶらせていた。
乗客席のなかは沈黙の箱と化していた。
乗っているのはロランド、イヴェス――そして、ヴィンチェンゾ・クルス。
――連続娼婦殺しの真相が知りたければ、一緒に来い。
挑戦的ですらある言動が癪に触ったが、ともあれロランドはクルスの馬車の客となった。
だが、話をするような空気はいつまで経っても醸成される気配がない。
窓の外にはどこまでも広がる青い小麦。
小麦の海を分かつように走る道は砕石で丁寧に舗装されていたので、馬車はほとんど揺れを感じさせなかった。
いろいろ知りたいことはある。
なぜ、連続娼婦殺しの真相を知るのに、名門貴族の荘園に、それも八十を越えた女性のもとに行かねばならないのか。
だが、あと三十分もすれば分かることをわざわざたずねたマヌケに思われるのも嫌な話だ。
イヴェスはずっと目をつむっていて、寝ているのか起きているのか分からない。
クルスのほうはいつもの黒い半外套、口髭をきれいに整えて、犯罪者の元締めというよりは学者のように見えた。
青い目を細めて、小麦畑の上を飛ぶ二羽の小鳥を眺めている。
馬車が糸杉の並木道へ入ると、馬にまたがった農園管理人が左右から現れて、馬車を脇道へ逸れた先にある小さな屋敷へと誘導した。
馬車が止まると、
「さて、着いたか」
クルスが言った。
それが三時間を越える長旅で初めて放たれた言葉だった。
――†――†――†――
アブリーニ公爵夫人は夫に先立たれた十五年前から喪服で過ごしていた。
ロランドは貴族というものにあまりいい印象を受けないが、それでも、このアブリーニ公爵夫人が生まれながらの貴族であり、その所作や表情、言葉遣いに現れる品の良さを認めないわけにはいかなかった。
小さなテラスは池と青い花の花壇が広がる庭園に面していて、小麦畑の上を飛んでいたのと同じ小鳥が水盤で羽根を洗っていた。
「あなたがお手紙をくださったクルスさんですね?」
籐の椅子に座り、残りの余生を静かに過ごそうとしている女性がそうたずねた。
「そのとおりです。シニョーラ」
「失礼ですけど、あなたのことを調べさせましたの。そうしたら、盗賊団の頭領だというから、きっと恐ろしい大男が来るのだろうと思ってましたわ。でも、実際にお会いすると、あなたは紳士のようです」
「わたしは紳士の称号は持っていません」
「紳士であるか否かは称号を持っているだけではいけません。生まれついての紳士としての資質も関係するのですよ。セニョール。さあ、皆さん、お座りになって。きっと長い話になるでしょうから」
籐の椅子に座ると、公爵夫人が会話の口火を切った。
「単刀直入に申します。アーロイスは本当に死んだのですね」
「ええ」
「そして、体を売る女たちを恐ろしい方法で殺した……」
「その通りです」
ロランドは公爵夫人が狼狽し、ショックのあまり死んでしまわないかと思っていたが、老婦人はロランドが考えているよりもずっと強かった。
「セニョール・クルス。全てお話します」
始まりは五十年以上前のことだった。
公爵夫人は恋に落ちた。
フォン・クーネフ男爵だった。
そのころの宮廷は現在ほど乱れておらず、むしろ堅実なものが好まれた。
どちらにも妻がいて夫がいたので、二人はお互いの家名に傷がつくのをおそれ、秘密裡に会っていたが、公爵夫人が妊娠したことで、その関係も露呈した。
妻の不貞にアブリーニ公爵は妻を殴打したが、離婚はできなかった。
寝取られ男呼ばわりされるなら死んだほうがマシだと思っていたのだ。
そこで全てをもとあったように戻し、起きたことはなかったことにした。
公爵夫人の必死の嘆願も功を奏さず、夫人は生まれた子どもから引き離され、塔に幽閉され、アーロイスと名づけたその子はフォン・クーネフ男爵に押しつけられた。
公爵夫人は男爵との恋は終わっても、愛情は死んでいない、アーロイスに愛情を注いでくれるはずだと思っていたが、男爵のほうでは考え方が違ったらしい。
男爵は一向に上がらぬ家名を公爵夫人との関係で何とか陞爵させられないかと考えていたのだ。
だが、全てが終わって、自分が手に入れたのは庶子が一人。
すでに正妻は妊娠している。庶子の存在は今後の男爵家の相続に大きな問題を投げ落とす可能性があった。
アーロイスは召使に預けられ、物心ついたころにはやはり召使いとして使われた。
自分がロンドネでも随一の名門貴族の血を引いているなどとは思わせないために、そして、それを外で口走らせないために、事あるごとにアーロイスの母親は娼婦なのだとアーロイス本人に教え続けた。
屋敷での生活は過酷を極め、アーロイスは十歳で屋敷を逃げ出し、カラヴァルヴァの浮浪者たちに仲間入りした。
おそらくカラヴァルヴァの地下道に住んでいたのはこの時期だろう。
その後、アーロイスは成人し体もたくましくなってくると、傭兵となり、五年を過酷な戦場で過ごした。
その戦場である騎士の命を助け、騎士はその礼として、エスプレ川の葡萄園の番人の仕事をアーロイスに紹介した。
その騎士はアーロイスの心が不安定なことを知っていた。
子ども時代の仕打ちと戦争の凄惨さでアーロイスの心は壊れかけていた。
七年前、公爵夫人に会いに来た騎士は全てを伝えようとしたのだが、どうもアーロイスは戦争に巻き込まれ、兵士たちに犯されて殺された女性の死体に興味を持っていた。
そして、娼婦への怒り。
自分を産むだけ産んで、あの屋敷に置き去りにした母への怒りが、娼婦の憎悪に転化されていた。
本来なら、と公爵夫人が静かに告げる――上流婦人を憎むべきだったのです。
野営地に娼婦を見つけると、アーロイスの顔は赤を通り越して黒くなり、震えが止まらなくなる。
騎士はそんなアーロイスの心に安らぎを与え、壊れかけた心を救いたいと思い、静かに過ごせる生活を用意した。
それはうまくいっていた。カラヴァルヴァに住ませることには抵抗があったが、アーロイスは全く知らない街よりはカラヴァルヴァのほうがいいといって、そこに住んだ。
葡萄園の毎日は静かで単調だが、誰にもいじめられず、一人でいることにもなれていたアーロイスは安らかに年月を過ごした。
騎士はときどき葡萄園を見舞ったが、何も問題はないように思われた。
三年前、古城で堕落した上流階級が宴を催すようになるまでは。
アーロイスの心に闇が差し込み始めた。
騎士には行っていないと言い張ったが、アーロイスはその宴を窓から何度か覗き見をしていたらしい。
そして、そこにいるのは娼婦たち。
アーロイスのなかで何かの留め金が外れたのは、おそらく、そのあたりだろう。
アーロイスは二人の娼婦をカラベラス街で殺した。
バラバラに切り裂き、内臓のなかでも特に憎い子宮を切り取って、地下道に逃げ、肉屋の裏をうろつく野犬に切り取った子宮を食わせた。
フォン・クーネフ男爵家の現当主で腹違いの弟にあたるアルブレヒトが古城での宴に興味を持っているという話をきくと、アルブレヒトが宴に参加できるように取り計らい、アルブレヒトとともに娼婦を物色した。
そして、イザベラ・ルーシェを拾ったのだ。
アルブレヒトはイザベラを気に入り、古城へと何度か連れていった。
アルブレヒトはアーロイスが自分の腹違いの兄だとは知らず、ただの葡萄園の番人としか考えていなかったらしい。
その話しかける口調は召使に対するそれであり、そのとき、フォン・クーネフ家で使われたあの日々が甦ってきた。
それでアルブレヒトを厄介な状況に落とすことに決めた。
アーロイスは弟をそそのかし、いつものようにイザベラを馬車で迎えると、馬市のある空き地へ連れていかせた。
アルブレヒトには女をいたぶる趣味があるので、その遊戯をするのにいい場所が見つかったと、礼拝堂の跡地へ向かわせた。
そして、アルブレヒトがイザベラを縛るや否や、アーロイスはイザベラの喉を切り裂いた。
バラバラに切り刻み、子宮を切り取ったのを見せてから、おそらくアルブレヒトはここで自分が腹違いの兄のアーロイスであることを教えたのだ。
「本当ならわたしが切り刻まれるべきなのです」
公爵夫人は皺の刻まれた顔に涙を流した。
「わたしはあのとき、何が何でもアーロイスを手放すべきではなかった。そうすれば、こんなことにはならずに――」
――†――†――†――
「知ったことは好きなようにするといい。すまんが、わしには行くところがあるので、帰りの馬車にきみたちを乗せることができない。公爵夫人の馬車を借りてくれ」
クルスは最悪の余韻を残して去っていった。
近くに樹があれば殴っていたが、並木道はとほうもなく広く、怒りをぶつける場所もない。
「さて、どうする?」
イヴェスがたずねた。春の陽は少し熱く、手で顔を扇いでいる。
「え?」
「事件の真相は分かった。わたしとしてはクルスが置いていったというアーロイスの死体を地下道から運び出して、事件解決とする。だが、きみはどこまでやりたい?」
「……馬を借りてきます。どうしてもしなければいけないことがある」
ロランドは荘園一の駿馬と言われた葦毛の二歳馬を駆り立てて、クルスの馬車を追いかけた。
馬車に追いついたのは、クルスが荘園の門から外の街道に出ようとしたときだった。
馬で突っ走ってきたロランドに害意を見てとったのか、黒服の少女たちが次々と短剣を抜いた。
クルスは窓ガラスを下げて、少女たちに武器を鞘に戻すよう命じた。
「何か用かね、騎士判事補?」
急いで馬を駆ったのと興奮したのとで言葉が喉につっかえる。
「正義……正義はどこにある!」
それでも叫んだ。
ドン・ヴィンチェンゾ・クルスは両手のひらを空に向け、こたえた。
「人の頭の数だけある。もし、きみが自分の正義をどこまでも貫くなら、他の人間全員の頭を落とさないといけない。絶対的正義というのは生首の山の頂に立って初めて見いだせるものだ。こたえになったかな? それでは失礼」




