第六話 騎士判事補、二つの正義。
バウロンの取り調べはあまり進んでいない。
イザベラ・ルーシェという名前が分かっただけで、あとは金持ちの馬車が連れて行ったの一点張りだった。
壁に寄りかかると、ミシミシ音がする。
治安裁判所は外観は立派だが、なかはボロボロで警吏は仕事に熱を入れず、金儲けしか頭にない。
それは判事クラスも変わらない。
裁判所の向こうの〈官舎〉がいい証明だ。
取調官は気ままにバウロンを殴りつけ、傷のあるわき腹をどやしているが、本当にしゃべらせるつもりがあるのか怪しい。
たぶん彼らは、その金持ちが誰なのか追及するといろいろまずいことになると思っているのだろう。
このままでは事件は迷宮入りだ。
「くそっ!」
ドン!
拳が壁を打つ。パラパラと漆喰が降ってきた。
「壁にご用心。裁判所が崩れるかも」
振り向くと、イヴェス判事の助手のギデオンが部屋に入ってくるところだった。
「あんたか」
まるで少女のように邪気のない笑みを口の端にそえて、ギデオンがたずねた。
「捜査の進展に何か問題でもあります?」
「いえ、別に」
「ききました。あのバウロン、しょっ引かれる前に来栖ミツルと話をしていたそうですね」
「ああ」
「きっと、来栖ミツルはその金持ちが誰なのか、探りあてるでしょう。ひょっとすると、探りあてているかも」
「この街はどうなってるんだ!?」
思わず、ロランドは声を荒げる。
「司法官よりも犯罪者のほうが情報に長けるなんて。どうかしてる」
「見かけ通りの激情型ですか。ふむ、これは面白い」
「面白い? 一体何が――」
しーっ。ギデオンは人差し指を自分の唇に添えた。
「大声出すと、崩れますよ。冗談抜きで」
「くっ、おれは……もう、いい」
くるっと立ち去ろうとするロランドに、
「もういいわけがないでしょう」
と、ギデオン。
「なに?」
「あなた同様にイラついている人はいますし、あなた同様、何とか連中を出し抜けないか必死になって考えている人がいるってことですよ」
「イヴェス判事か?」
ギデオンは、にっこり笑ってうなずいた。
――†――†――†――
「すごい。うまいですね。このスープ」
「きみは粗食に慣れているようだな」
塩漬け豚肉の浮いたスープをすくいながら、ロランドはふすまパンに噛みついた。
ダンジョンにいたころは魔物を調理して食べたこともあるし、腐りかけのチーズ一つだけでディルランドの戦線をクルスの影を追って歩いたこともある。
それに比べると、イヴェスの食事は晩餐会のメニューに等しい。
「クルス・ファミリーについて、わたしときみの意見には異なるところがいくつかある」
ロランドはスープを飲む手を止めた。
「わたしはある種の犯罪者が治安の維持に貢献できると考えていて、きみはあくまで法を順守すべきだと主張する。だが、今日のことで分かったと思うが、本気でやつらが犯人探しをすれば、やつらは常に我々の一歩先を行く。苦々しいのは百も承知だ。それを追い抜けないかと考えない日はない。だが、わたしは治安裁判所の体面のために捜査を行っているのではない。犯罪のなかでも特に容認できない犯罪を摘発し、一定水準以上の治安を維持することを目的に捜査を行っている。そして、それに利用できるものがあるならば、クルス・ファミリーだろうが、聖院騎士団だろうが利用する。そして、そのどちらかが容認の範囲を超えて、この街に害を与えるつもりならば、わたしは全てを賭けて潰す。たとえ何年かかってもだ」
「あなたの覚悟は分かりました。判事。しかし、おれたちは壁にぶつかっている。イザベラ・ルーシュをさらった金持ちの馬車。これがいま治安裁判所のなかで慎重論を巻き起こしている」
「さっきも言った通り、ある一定の水準を越えた犯罪をわたしは決して許さない。そして、女を縛って喉を切り裂き、内臓を掻き出して、子宮を切り取るのはわたしが許せる水準を大きく超えている。もし、街の有力者が関わって、捜査を取りやめろと言われば、わたしはそれを無視するし、いくつかの商会、それにクルス・ファミリーと情報を共有してでも犯人を追い詰める」
「……あなたのような人がこの街にはもっとひつようなのかもしれません。少なくとも結果は上げられる。それは認めます。でも、あなたは犯罪の摘発をあなたの容認する水準で考えている。それは独善的ではありませんか?」
「その通り。独善的だ。今のところ、普通の善悪の感覚でわたしは動くことができている。だが、そのうちそのバランスは崩れ、わたしの行動は他の誰から見てもおかしく、正義に反していると見えるときがくるかもしれない。そのとき、わたしより優れた官吏がわたしを破滅させ、正義を守る。それをするのは、このギデオンかもしれないし、きみかもしれない。そして、ひょっとすると――」
「ヴィンチェンゾ・クルスかもしれない」
「わたしはむしろ甥の来栖ミツルのほうではないかと思っている。あれもまた独自の基準で犯罪の容認を決めている。酒類の密輸はかなり大規模にやり、この街の酒の密輸ビジネスの勢力図を大きく塗り替えている。密輸については海外にも意志の通ったものたちがいるらしい。だが、これだけの密輸網を持ちながら、イドの密輸も販売も絶対に行わない。もちろん〈蜜〉もだ。それに性風俗の分野では猥褻な図柄のカードを製造から流通まで一手に握り、他の業者のカードを駆逐し、ここでも大きな成功を収めているが、人身売買や子どもをこの手の商売に巻き込むことを厳禁している。来栖ミツルには基準が、独自の正義があるとみて間違いない。それがわたしのものと重なる限りにおいては協力関係を維持しようと思っている。そして、それが崩れたときはお互いが始末をつけるのだ」
ロランドはパンを手に取り、ちぎって、スープに沈めた。
「おれにはときどき分からなくなることがあります。クルスという人物について――」
「……」
「アルドではカノーリという安価な菓子の販売を始め、それはあっという間に王国じゅう、いや世界じゅうに広がった。クルスは菓子の材料にかかる税金を納めずに着服し、そのカネの行方が追えないよう、細工した書類を大量に残していった。ダンジョンを繁栄させ、一つの地域を活性化させ、町をつくることにすら成功している。だが、クルスには別の顔がある。リュデンゲルツ地方でダンジョンを乗っ取ろうとした貴族や司教が相次いで殺害された事件を知っていますか?」
「ああ」
「証拠はありませんが、あの一連の暗殺事件の黒幕はクルスだと確信しています。クルスは状況次第で賢くもなれるし、凶暴にもなれる。いや、自らの凶暴さを飼いならすことに成功している」
「……」
「少し前に治安裁判所のマルセリ長官がエスプレ川から遺体になって見つかっている。頭を撃たれて」
「それがクルスの仕業だと思っているなら、きみの認識には大きな間違いがある。あれをやったのはわたしだ」
「なんですって?」
イヴェスは何があったのかをロランドに話した。
いっせいに襲われた商会。魔族居留地の包囲。そして、裏切りの発覚。
「前長官はわたしに撃たれる直前、これが正義なのかとわたしに問うた。だから、わたしはこたえた。正義はここにある、と。聖院騎士団ではどうだった?」
イヴェスは知っている。聖院騎士団の前団長がクルスのアサシンによって始末されたこと。
そして、その原因はここで起きたのと同様の騎士団の腐敗が原因であること。
治安裁判所の腐敗の始末を自分でつけたイヴェスと、アサシンに先を越された聖院騎士団。
ロランドは言うことができない。
――正義は騎士団にある、と。
「正義というのは我々が考えている以上にずっと複雑だ。それというのも、正義に対するのは悪ではなく、もう一つの正義であるからだ。人ができることは自分の抱える正義が正しいと信じ、それで救われる人がいると信じることだけ。それ以上のことは望めない。絶対的な正義は存在しないし、それを奉じたものは自分以外の人間全てが死に値すると思ってしまう。だから、ロランド騎士判事補。きみは運がいい。自分の正義について、常に振り返る機会が与えられている。自分の信じる正義とクルスの信じる正義。それを比べて、自分の正義がどんなものであるか、相手の正義を通じて投影したものを見ることができる。その正義はきっと多くの人間を救い、きみが悪とみなしたものたちを打ち滅ぼし、何よりもきみ自身を救うだろう……スープが冷めてしまったな。温め直させよう。ギデオン。ちょっと来てくれないか?」
――†――†――†――
その夜、宿舎に帰ったロランドは百年の議論をし尽くしたような疲れを感じて、椅子にもたれかかった。
自分とクルス。二つの正義。相手の正義を通して分かる自分の正義。
ふと、ロランドは自分とクルスの立場が入れ替わったらどうなるのか、と思う。
自分は犯罪者になるのだ。
それなのに、ロランドのなかには嫌悪感が湧いてこない。
その理由が分かる気がするし、素直に認めるのも怖い。
剣を手にクルスを追い詰め、「正義はここにある」と言える自信がない。
もう一つの正義――これほどクルス・ファミリーを表す言葉は他になかった。
「くそっ」
開きっぱなしの窓から流れ込む心地よい風にロランドは悔しげに毒ついた。




