第二話 ラケッティア、権力の試金石。
「あー、気持ちいいー」
朝から入る温泉はたまらんですよ~。
いえね、〈ちびのニコラス〉の地下に温泉が湧いたんですよ。
ほら、全部の部屋に水が湧き出るようにしてほしいって工事。
あれが関係してたのかな。
トキマル、〈インターホン〉、フレイ、フストをファミリーに加盟させるための儀式をやってたら、床がじわあとあったかくなって、次の瞬間には温泉が床のあちこちを破って、湧き始めたもんだから、驚いたのなんのって。
で、これは利用しない手はないということで地下室一つ丸々浴場に変えてしまいました。
いつでも好きなときに温泉に入れる。贅沢だよねえ。
地下とはいっても、もともとは庭に面した半地下みたいな部屋だったから、明り取りの窓をつくって、そこから光を取り入れられる。
朝のさわやかな光を浴びながら、温泉。
寿命が延びるなあ。
ドアががちゃりと開き、誰か入ってくる。
振り返ると、青白い顔をした黒髪の若者、といってもおれと同い年くらいのだけど、そんなのが整った顔を陰気に整えなおした様子で風呂に入ってきた。
だ、誰だ、貴様!
――なんちゃって。
「やあ、ジャック。あんたも朝湯?」
「ああ……」
ジャックは済まなさそうにうなずいた。
何をするにも済まなさそうにうなずくやつなのだ。
ジャックは二週間前、三月初めの春の嵐のあった日に〈ちびのニコラス〉の前で行き倒れていた暗殺者だ。
なぜ暗殺者と知れたかといえば、気絶してるあいだにちょっと荷物をあらためてみたら、いかにも暗殺者が使いそうな投げナイフや反り気味の黒い短剣、それに確実に標的を仕留めたいときに使う刃に塗る用の猛毒が入った小瓶などが見つかったからだ。
マリスたちはほっとけばいいと言ったが、おれとしてはうちの宿の前に倒れてるのを放っておいてはこの嵐のなかくたばれば、治安裁判所に因縁つけられ、また金をむしりとられる大義名分を与えると思って、助けることにした。
「誰かが放った暗殺者かもしれない。ボクなら助けない」
「でも、こいつ、たぶん違うよ」
「なぜそう言えるんだ?」
「カンだ、カン。それにおれも長いことアサシンと一緒に暮らしたから、殺気みたいなもんが何となく分かるようになった。こいつにはおれをどうこうしようって気はないよ。義を見てせざるは勇無きなり。情けは人のためならずっていうでしょ?」
「マスターのあてが外れたと分かったら、速攻でこいつを殺すからね」
「おう。分かった。まあ、そんときゃ頼むわ」
そんなわけでいまうちに居候している。
名前はジャックとしか名乗らなかった。まあ偽名だろう。
どこかで仕事をしくじったか、あるいは仕留めたせいで追われたのか。
まあ、人の脛の傷はじろじろ見るもんじゃない。
それにいま、ファミリーの稼業は絶賛荒稼ぎ中だ。
五枚で銀貨一枚のエロ・カードは市場の外へと流れ出し、よその町から買いに来るやつすらいるほどだし、スロットマシンは現在〈ラケット・ベル〉が五十台、〈ストレート・フラッシュ〉が十五台ほど、カラヴァルヴァの料理屋や雑貨店に配置され、小銭を巻き上げている。
商業地区の銀行どもも最初のうちはおれに分け前を払うのを嫌がって、なんとかスロットマシンを自作しようとしたが、結局あきらめて、うちの機械を置くことに決まった。
スロットマシンの上りはきちんと分配され、ほかの〈商会〉や小規模店主たちを富ませている。
みんなハッピーだが、機械を盗む馬鹿もいたので、ツィーヌが笑い茸からつくった拷問薬の実験台にさせるハメにも陥った。
死んでなきゃ、どこかでまだゲラゲラ笑ってることだろう。
「おーい、頭領」
滑るように湯船につかった脱力忍者が茹でとろけた。
「はー、たまんねー」
「朝湯は贅沢だよなあ」
「もう風呂から出たくねーな」
「んなことしてると、土左衛門みたいになるぞ」
「温泉で死ねれば本望さ。ああ、それと客が来てるぜ」
「おれに?」
「正確にはドン・ヴィンチェンゾに」
「しょうがない。上がるか」
――†――†――†――
〈モビィ・ディック〉では〈インターホン〉がカウンターをせっせと拭いていた。
本人はバーテンは向いてなく、もっと器用なやつが身内になったらという約束でカウンターにいてもらっている。
こん棒一発の用心棒稼業に比べると、バーテンというのはいろいろ気を使うらしい。
「朝からすまんな」
大きな体をカウンターにもたれさせて、〈杖の王〉が言った。
会うのはあのバカタレのマルセリに絡むごたごた以来だ。
「いや」
と、こっちもゴッドファーザー・モードでこたえる。
「温泉、入っていくかね? 地下に湧いたんだ」
「いや、結構。今日は話があってきた。女のことだ。殺された女たちのことだよ」
「ふむ。きこう」
「この二週間、カラベラス街で女が二人殺された。それもひどく惨たらしいやり方で殺された。二人は淫売だったが、人間誰だって食っていかなきゃならん。それにただ淫売だったという理由であんな目に遭わされるいわれもないはずだ」
「カラベラス街の淫売殺しじゃ、治安裁判所も騎士団も動かんな。たとえ百人殺されてもだ」
「ところが、ついにこの畜生はカラベラス街の外でやった。場所は馬市が開かれる野原だ」
「街の反対側に狩場を移したわけか」
〈杖の王〉は羊皮紙の切れ端を懐から取り出し、カウンターに置いた。
「カラベラス街でやられた女たちの名前だ。それを治安裁判所に届けてくれ。馬市の空き地が初めてじゃないことを教えてやってくれ」
「あんたが直接行けばいい」
「ふん、やつらはわしの言葉など耳を傾けんさ」
「わしならきくと?」
「あんたはカネを払ってる」
「そうだな。それは大きな違いだ」
「ともかくわしは非力な女をあんなふうにしてのうのうと生きているやつが許せん。犯人捜しはわしらもしているが、限界もある」
おれとしても、自分が根づいてる街にそんな真似するゲス野郎がいることは我慢ならない。
「女たちはまるで肉屋にやられたみたいにズタズタに切り裂かれて、内臓を一部抜き取られていた」
「一部?」
「子宮だよ」
切り裂かれた娼婦。手慣れた肉の解体。そして内臓を抜き取る手口。
切り裂きジャック。
――†――†――†――
おれは〈ラ・シウダデーリャ〉の二階で仮説その一をあれこれいじくった。
十九世紀ロンドンを震撼させた殺人鬼、切り裂きジャック。
そいつがこの世界に転生して、娼婦を切り裂いているというのが仮説その一だ。
そこにアルバート・フィッシュの名前が出る。
殺した子どもの肉を食べた狂気の殺人鬼。
殺人鬼は確かに異世界に転生している。
そして、仮説その二は――。
「うーん」
現れたのは二週間前。持っている刃物は切り裂くのに向いた形をしていた。
暗殺者なのだから、人の肉をバラバラに切り裂くのは簡単だろう。
マフィアの流儀ならここまで状況証拠がそろえば、それで判決は出る。
でも、なぜかおれにはそう思えない。
あの哀しげな眼を見ると、女を切り裂くようなことができるやつには見えないのだ。
あるいはもう切り裂いてしまったか。
そして、後悔しながら、また新しい犠牲者を求めてさまよったりして。
そもそも知り合って二週間のジャックのことをこんなにあれこれ仮定して、肩まで持とうとするのはなぜなのか。
いや、そのこたえは分かってる。
自分の権力の強さを試しているのだ。
転生した連続殺人鬼かもしれないジャックを自分の力でどれだけかばい、守ることができるのか。
ジャックが真犯人と分かり、それをおれが治安裁判所と〈杖の王〉に教え、二度とカラヴァルヴァには立ち寄らせないから殺すな、といって、相手がそれを飲んだら、それは一つのこたえだ。
ただ、おれ、なぜか、あのジャックがやったんじゃない気がする。
というか、あいつが切り裂きジャックの転生バージョンでないことを祈っている。
うーん。権力とは複雑だ。情念が血管みたいに巻きついてる。




