第十四話 ラケッティア、心配する。
いま、〈果樹園〉は静かだ。おれ以外、誰もいない。
みな、夜の歓楽街へと出かけていった。
アンドレオじいさんも年寄りの夜は早い、と言って、〈果樹園〉のどこかにつくったらしい棲み処へ消えてしまった。
今は午後十時か十一時くらいだろうか?
大聖堂の鐘守が眠ってしまった以上、時間を知りようがない。
だが、ジルヴァが帰るはずの時間はとうに過ぎている。
何かあったんだろうか?
これが遊びの待ち合わせか何かなら、こんなにヤキモキしない。
だが、おれは暗殺者の帰還を待っているのだ。
おれが送り出した暗殺者の帰還を。
静寂のなかで想像力が嫌に働く。
灯のない路地裏。ジルヴァは動くたびに鈍い痛みが波のように全身に響く左脇腹の傷をかばいながら、よろよろと体を引きずっている。
傷を押さえた指のあいだから流れ出し、黒衣を伝い落ちる血が舗石に当たる小さな音を集中してきくことでなんとか意識を保っている。
壁にもたれて休む衝動に駆られるが、そうすると、次はその場にへたりこみたくなるだろう。
そして、目を閉じて、体の力を抜きたくなり、そして――いや、その次はないのだ。
太鼓の乱打のように激しい追手の足音が狭い路地を反響する。
苦し気な自分の呼吸の音すら掻き消える騒がしさ。
追手は近くまで来ている。
突然、曲がり角から追手の一隊が現れる。先頭は顎に編み髭をし大型戦斧を下段に構えた男だ。
「いたぞ! ここだ、来てく――え?」
短剣が意志をもった生き物のように閃き、編み髭の男は壁にキスでもするような格好で倒れた。
月光がかすかに差し込む壁がみるみるうちに鮮血に染まっていく。
ジルヴァは追跡部隊のほうへと跳ぶように駆けた。
二人目と三人目は剣を抜く間もなく斬り伏せられた。
四人目は抜いた短剣をジルヴァに投げつけたが、弾かれ、短剣が急所に滑り込み、うめきながら崩れる。
最後に残った五人目と六人目は双子のように似ていて、大ぶりのレイピアと短剣を抜いて、けん制と攻撃を交互に担って、ジルヴァを行き止まりに追いつめようとしていた。
この二人は使い手だった。レイピアで突き、短剣でふせぎ、帽子を投げ、錘を仕込んだマントをひるがえすなど、あらゆる手段でジルヴァを確実に追い込んでいく。
ジルヴァの息は切れ、流れていく血がめまいを誘い、行動範囲は確実に狭まっていた。
六人目がすさまじい斬撃を放ち、ジルヴァはかわしきれず、短剣で受けた。
短剣の鍔が折れて、手の甲に傷を負った。
だが、伸ばし切った剣筋がほんのわずかだが、敵の予想していた位置とずれる。
ジルヴァはその隙を狙う。
そのまま左腕を伸ばして、相手の襟元をつかむと、ぐいと引っぱり、体を敵の後ろへ素早く移し、喉に刃をあてて、盾代わりにして、もう一人――五人目の剣士と向かい合った。
五人目が凄まじい罵倒語を飛ばしながら、突きかかってきた。
その刃が六人目の胸を串刺しにする。体を貫いた切っ先は倒れるように身を落としたジルヴァのすぐ上を走った。
最後の剣士は仲間の体に刺さったままの剣を離して、短剣を右手に持ち換え、斬りかかる。
その先には膝をつき、なんとか立ち上がろうとしているジルヴァがいた……。
「マスター……」
見上げるとジルヴァがいた。消耗し、立っているのもやっとのようだった。
伝説のように語られる暗殺者。
どんなときも顔を隠し、黒装束に身を包み、静かにおれのそばにつくおれのルカ・ブラージ。
でも、覆面のない顔はあどけなさと切なさに満ちた少女のものだ。
「ジルヴァ!」
おれが立ち上がると、ジルヴァはそのままおれのほうへ倒れかかった。
「任務、完了……マスター、次の、任務を……」
「そんな体でできるわけないだろ! 屋敷に戻るぞ!」
ジルヴァの腕をなんとか自分の肩にまわし、引きずるように歩く。
ジルヴァの温い血でシャツがべったりと体にはりつき、三歩進んだころにはどっちが怪我人だか分からなくなった。
「次の、任務……」
「じゃあ、次の任務だ。死ぬな。休め。体を回復させろ」
「暗殺を命じて……できないなら、せめて……う、ぐ……マスターの手で、処分を……」
「ふっざけんな! んなことできるわけないだろ!」
歩道の出っ張りに何度も足を引っかけた。
野犬がうなりながら、おれたちのまわりをぐるぐるまわった。
地下酒場の扉が開き、黄色い靄が足元をぐるぐる回ることもあった。
視界が霞んできた。
どこを歩いているのかも分からない。
色紙を貼ったランタン。揚げ物の匂い。重なり合ってどろどろになった声や歌。
その向こうに見覚えのある屋敷が見えてきた。
肩で押して、門をあけ、前庭で体をひきずる。
扉が開いて、光の洪水とともに小さな三つの人影がこちらに走ってくるのを見て、おれはそこで倒れた。




