第六十二話 帝国、メダルの騎士団長。
デルレデーレ宮殿の執務室にいても三百組の男女が踊るロンドの足音が響いてくる。
その音に合わせて、暖炉の薪の上を炎が滑らかに動く。
ベタンコルト伯は手元の書灯のネジをまわし、明かりを強くした――ひとりでに開いた窓まで光が届くように。
窓は開いたときと同様、ひとりでに閉まった。
風に舞い上がったカーテンがもとの位置に垂れ下がるころ、月明りのなかに一人の影がひざまずき、頭を垂れていた。
「クマワカか――」
ベタンコルト伯は鵞鳥の翼の体よりのところの羽でつくったペンを羊皮紙に断片に置いた。
「〈蜜〉に関する物証は持ち帰れたのか?」
「すでに閣下の御手元に」
ベタンコルト伯は引き出しに銀と象嵌細工の鍵を差し、自分が机についたころには入っていなかったはずの帳簿を見つけた。
「〈蜜〉の流通経路、各協力者への配当、皇帝陛下の寵臣オリバロ子爵の名もそのなかにあります」
「ふむ」
ベタンコルト伯は帳簿を閉じると、皇帝直属官房を示す鷲の焼き印がされた書類カバンにしまい込んだ。
「デルレイド侯爵は解放軍に〈蜜〉のことを話したか?」
「その前に処断しました」
ふむ、とベタンコルト伯はスペードの形をした顎髭を撫でた。
「デルレイド侯爵とその親子はディルランド軍と戦って死んだのだ。陛下は三人の銅像を建てるために新しい広場をつくるつもりでおられる」
「間者には関係のないことでございます」
「陛下はもう〈蜜〉のことはききたくないとおっしゃられた。このうえ、オリバロ子爵が〈蜜〉にまつわるあらゆる不正の黒幕であったと知れば、陛下の心労が増すばかりだ」
とはいえ、とベタンコルト伯は立ち上がる。
「時には耳に痛いことでもお耳に入れなければいけないのが、〈メダルの騎士団〉を率いる秘書長官の責務でもある。だが、もし子爵が少し酒を過ごして、舞踏会の途中にバルコニーから転落死したら。この話はあらゆる側面から見て、終わることができる。まあ、皇妃殿下は自分主催の舞踏会で人が死ねば、また神秘主義の虫に取りつかれて、水晶玉だの賢者の石だのに大金を投じられるが、皇帝陛下の寵臣が麻薬の売人だったと世間に知れ渡るよりはいい――クマワカ、あとは任せる」
「御意」
「それともう一つ」
「は」
「クルスなる人物について知らせてくれ。簡潔にな」
「この世でもっとも狡猾なる魔物です」
「わたしよりもか?」
「恐れながら閣下よりもです」
「その老人、よほどのことをしたと見えるな」
「老人だけではございませぬ。その若い甥も、いや甥のほうこそ気をつけねばならぬ手合いでござります」
「そうか……ご苦労であった。行ってよい」
クマワカの気配はすっと消えた。
ベタンコルト伯は〈蜜〉の帳簿をカバンごと暖炉に放り込んだ。
ディルランド王国 ラケッティア戦記編〈了〉




