第十二話 猟人、黒と碧。
おにぎり。
便利な食べ物かもしれない。
アスバーリは椅子に座り、紫に変じた夕暮れ時の空を見ながら考える。
ダンジョン内での食料補給がうまくいけば、もっと深くまで潜れる。
それにはあの南極シリーズというものを選択するのが、適切な方法だろう。
腕をまわして胴衣の背中の紐を解く。
体を走る痛みに顔をわずかにしかめたが、不自然なほど素早く、痛みはひいていった。
鎧の上から布を巻いてごまかしていた部位の深い切り傷があらわれる。
騎兵隊が使うサーベルでやられたような大きな傷は肋膜のすぐ下から斜めに右脇腹を裂き、骨盤に当たる前に刃は抜けた。
赤い血が板床に滴り、上から見たカラヴァルヴァ市街そっくりの歪な三角形の染みをつくった。
「ハア……ハア……」
体のなかにいるそれは痺れを伴う形でアスバーリの体のなかを移動し、傷へと凝固し始める。
結晶が赤くえぐれた傷を覆う。
その色が嫌いだ。
なぜなら――
アスバーリは短剣を抜き、その刃に己が双眸を写す。
――碧い。
――†――†――†――
どんどんどん!と乱暴なノック。
鍵がかかっていなかったドアから古い絨毯をふたりがかりで持ってきた来栖ミツルとジャックが、えっほ、えっほと入ってくる。
アスバーリはすぐに仮面をつけた。
瞳に宿るエメラルドの輝きを隠すために。
そのあいだ、来栖ミツルとジャックが重く広い絨毯を床に広げ、「こんなものか」「こんなもんじゃろ」と足で蹴って位置を微調整した。
「三か月分の宿代を前払いしてくれる優良客に意見したくはないが、秘密の手当をするなら、この絨毯の上でやってくれ。床が隙間だらけで下まで血が垂れる。幸い、イスラントが気づく前に拭き取れたが、こんな調子ならいずれは、な。ほら」
「ああ。そうだな」
「まあ、プライドは高いが、悪いやつじゃないんだ。じゃ!」
そう言って、ふたりは去っていった。
傷を覆いつくすエメラルドのような結晶について、まるで目に入っていないかのごとく。
いや、見えていた。
見えていたのに何もしなかったのだ。
なぜ、彼らはわたしを処分しないのだろう?
「お助け!」
そう言いながら、今度はジンパチが部屋に駆け込むと、ドアを背中で押して閉じ、閂をかけた。
すぐにドアを乱暴に叩く音が続き、トキマルが叫ぶ。
「ちょっと! おれのおにぎり!」
そのおにぎりとやらをジンパチは素早くほおばって、この世から消滅させる。
すると、突然ジンパチが壮絶にずっこけて、床に縫いつけられた。
ジンパチの全身を覆う包帯の切れ端を外のトキマルがつかみ、糸をたぐるマグロ漁師みたいに引っ張っているらしい。
「あだだだだだ!」
ジンパチはドアにぶつかって、何度も叩きつけられている。
「でも、トキ兄ぃ! 食っちゃったもんはもうねえよ!」
「は、ふざけてんの? 最後の豚しぐれだったのに!」
トキマルはどうやら左のふくらはぎからほどけた包帯をつかんで引っ張っているらしい。
そのうち、ドアを挟んでのやり取りに限界を感じたのだろう、火打石を切る音がきこえ始めた。
「そこの旦那! 哀れと思うなら、その手の短刀を貸してくんな!」
アスバーリが短刀を貸すと、ジンパチは引っぱられている包帯を切った。
そして、梅干しおにぎりの利子をつけて短刀を返すと、窓を開けて飛び降りていった。
ドアの向こうからは「この放火魔!」「つかまえろ!」という物騒な声がきこえてきて、ぶったり蹴ったりする音はだんだん遠ざかって、静かになった。
「……」
また、誰かやってくるのだろうか?
アスバーリはなぜか三年前、ある異端審問所に起訴されたときのことを思い出した。
結晶は伝染性があるといい、鳥のようなマスクをつけた異端審問官たちはそんな病気になるのは神罰の結果だと決めつけた。
病気ではないと言った。
もっとタチの悪いものだと言ったが、誰もきかなかった。
代言人役の司祭はつけられず、火刑が決まると、翌日にはよく乾かした松の薪の上に縛られて立っていた……。
ふと思い出したものが、吹き消えた。
なぜなら彼の部屋に艶消し革のコートを身につけた紳士らしい男がいたのだ。
その男が大きな機械を抱えていた。
下の階から薄い床を通して、叫び声がきこえてきた。
「おい、さっきのやつは誰だ!?」
「何か盗まれたものはあるか!?」
「あーっ! ラケット・ベルがない!」
紳士は両手にスロットマシンを抱えた状況で許される範囲の礼儀で挨拶をすると、開きっぱなしの窓から飛び降りた――ラケット・ベルを抱えたまま。
すぐにフリントロック式の水平二連式ショットガンを抱えた来栖ミツルがあらわれて、まるで娘を間男に奪われた保守的な父親みたいに怒り狂いながら、遠ざかる人影に二発ぶっ放した。
部屋が濃い白い硝煙がいっぱいになると、「命中したはずなのに倒れねえ!」「アンデッドだ! アンデッドにちげえねえ!」とまた騒ぎながら、遊戯機械泥棒をリンチにかけるべく、外に飛び出していった。
「……」
目の前で起きた出来事の全てを消化しきれず、口でも頭のなかでも言葉が出てこない。
さぁっ。
砂が流れる音がした。
脇腹には疵ひとつ残らず、かつての結晶は白い灰となって落ち、絨毯に奇妙な模様をつくっていた。
その模様には見覚えがあるような気がしたが、思い出せず、そのうち精神が消耗したのだろう、急に眠くなり、意識を失うように絨毯に倒れた。




