第五十七話 戦記、一壜のブランデー。
そのブランデーはロンドネ王国のエルチレにある王室醸造所で作られた。
その年、一番の白ワインを蒸留し、色と香りに優れる黒紅樹の樽のなかで十五年熟成させたもので、香木の赤みをたっぷり含ませた薫り高いリキュールはほとんどが王室のものとなったが、数本が御用達商人を通じて市場に流れた。
一本金貨百枚と言われる世界で最も高級な酒をなぜかスヴァリスが包囲戦の最中に購入した。
陣中で何か贅沢をしたくなったのではないことだけは分かる。
スヴァリスは下戸なのだ。
スヴァリス自身、その高級酒を実にぞんざいに扱っていて、下着と一緒に籠に放り込まれたり、トンカチがわりに使って鏡を下げるための釘を柱に打ったりしているのを数名の解放軍士官が目撃している。
来栖ミツルがやってきて、贅沢は敵だみたいな苦言を呈しにやってくると、
「ちょうどよかった。来栖くん、ちょっと散歩に付き合ってほしい」
二人並んで、塹壕沿いの緑地を歩く。
スヴァリスは古い軍用外套に安物の杖、ツバを折り曲げたフェルト帽、それに例のブランデーを抱えている。
「来栖くんのおかげでディンメルを捨てた市民や脱走兵が毎日ちらほらやってくる。しかし、あの音楽は氷漬けのドラゴンの上でカンドリアン踊りをする尾無しネズミに似ているね。尾無しネズミはね、尻尾のかわりにアスパラガスが生えてくるまでカンドリアン踊りをするのだが、知ってるかね?」
「初めてきいた」
「おかしいなあ? 氷漬けのドラゴンの上でカンドリアン踊りをする尾無しネズミはリッパンビスキスのうがい薬と同じくらいよく見かけるはずなのだがなあ。まあ、氷漬けのドラゴンの上でカンドリアン踊りをする尾無しネズミはカエルの合唱団には入れないから、どうでもよろしい。それよりあれを」
「あれ?」
来栖ミツルが見たのは、ディンメル市内に食料を運ぶ荷馬車だった。
二人の兵士が馬車の下や木箱を念入りに調べ、酒の類が持ち込まれていないか確かめている。
酒なんて隠してあるわけないだろ、と荷馬車の馭者が言う。
赤ら顔を顎鬚に縁取らせたいかにも粗野で抜け目のなさそうな男だ。
二人の兵士が酒の類はないと判断し、市内へ入ることを許そうとしたとき、スヴァリスが声をかけた。
「あいや、待たれよ。そこの馭者。見たところ、きみはディルランド人だね?」
話している相手が元帥とも知らず、馭者は悪びれた様子もなく返した。
「それが何かいけねえってのかい? ディルランド人の食料馭者なんて大勢いるぜ。そりゃ、一番いいのはガルムディアの連中が食っちまうが、それでもディンメルのディルランド人たちにも行きわたる。おれがいなけりゃ、やつらは飢えるんだから、別に国を裏切ったことにはならんだろ」
「いや、なに、きみを裏切りもの呼ばわりするものはおらん。ただ、家族はいるかね?」
「なんだ、そりゃ? おれを脅してんのか?」
「いるんだろう?」
「かかあ、それにガキが二匹。それがどうかしたか」
「じゃあ、奥方にドレス。子どもにおもちゃを買ってあげることだ」
「そんなカネどこにあるんだよ。言っとくけどな、この商売見た目ほど儲からねえんだぞ。飼い葉の値段が上がっててよ」
「これを売ればいい」
スヴァリスはあまりにも無造作にブランデーを放ったので、危うく壜が馭者の顔面にぶつかるところだった。
スヴァリスはすぐミツルのほうへ向くと、
「この一本だけを見逃して、城に入れてほしい。そうすれば、この包囲戦も予想より早く終わる。それに念を入れるために、きみのとこの身内にも協力してもらわないといけないのだがね――」
スヴァリスはミツルの耳に何事かささやいたが、その後、ミツルは、
「うわ、えげつねー。じいさん、ろくな死に方しないよ」
と、言ったとか言わなかったとか。
さて、ブランデーのほうは驚きでポカンとなっていた馭者がどうやら儲けられそうだと気づくと、やっぱ返せと言われる前にずらかろうと、馬に鞭を打って、大急ぎで唯一開いている城門へ走り込んだ。
包囲始まって以来の酒ということで、酒日照りの酔っ払いたちが集まって、町は騒然となり、警備の兵士が荷馬車を守らなければならなかった。
総司令官デルレイド侯爵の使いが現金で金貨十枚を持ってくると、馭者は額の大きさにめまいをおぼえた。
惜しむらくは馭者が一本銀貨二枚の安いワインしか飲んだことがなかったことだろう。
自分の商品の値段を彼は知らなかった。
こうしてブランデーはガルムディア軍の手に渡り、主計部の特に信用のおける兵と士官の手を得て、中身の入れ換えや吸い取りもなく、ロンドネ王国で瓶詰されて以来の濃度と美味のまま、ブランデーはデルレイド侯爵の晩餐に供された。
デルレイド侯爵は二人の息子、それにお気に入りの貴族士官たちを晩餐に招き、久々の飲酒をこれ以上望めない美酒で迎えられたことを無邪気に喜んでいた。
壜は空っぽになり、空っぽの壜のことは忘れられていった。
ただ一人、部屋付き女中が花瓶のかわりにしようと思って空き瓶を取りに来たが、どういうわけか空き瓶は消えてなくなっていた。
――†――†――†――
夜。ディンメル市内。
兵士たちでごった返す旧市街の路地。
食料は十分あるのに、酒がないことでガルムディア兵たちはこの上なく健康だった。
だが、戦争のウサを晴らす一杯のワイン、エール、果実酒、燃えるような蒸留酒がない。
漠然たる不満が水路から湧き出す凍えた靄のように兵士たちの頭にかかっていたころ。
鷲鼻に大きなイボのある老兵ががなり出した。
「おーい、兵士たちよ! 同胞よ、きいてくれ!」
老人はブランデーの空き壜を高々と掲げた。
「城内に酒がないなんてのは真っ赤な嘘だ。こいつを見ろ。これは宮殿の偉い連中が晩飯と一緒に出した酒の空き壜だ。召使が持ち出したんだ」
酒、ときいて、穏やかならぬ雰囲気になり老人のまわりに兵士たちが集まる。
「なんだ、じいさん。なんなんだ、この酒は?」
「酒がないなんてのはお偉方の嘘っぱち。本当はお偉方が自分たちの分だけこっそり蓄えてやがったのだ」
空っぽの壜が兵士たちのあいだをまわされる。なかには一滴くらい残ってないかと、逆さにして口をあけるものもいた。
「お偉方が隠してる酒をおれたちにも飲ませるよう要求してやろう」
鼻にイボのある老兵がそう叫ぶと、兵士たちもわあわあとそれに応じた。
騒ぎはあっという間に広がり、ラングル通り、白鑞職人街、旧市街南部、マルティン十二世通りで兵士たちが徒党を組み、宮殿に押しかけた。
押し寄せた兵士と宮殿守備隊がぶつかるころ、来栖ミツルはディンメル北東部の塹壕に出張っていた。
じっと闇に眼を凝らすと、何かが動いた。
すぐマスケット銃がぶっ放されると、ミツルが慌ててやめさせた。
「撃つな、撃つな! おれの身内だ!」
黒い人影は風を巻いて走り、そのまま塹壕に転がり込んだ。
鷲鼻にイボのある老兵だ。
その手がさっと顔を撫でると、少女っぽいつくりのトキマルの顔に戻った。
「その変身、便利だよなあ。おれも使えたらいいのに」
「他に言うことがあるでしょ、頭領」
「おつかれちゃん」
「ったく……首尾は上々。これで兵士の脱走は止まらなくなると思う」
「よーしよし。陣地に帰って寝ていいぞ」
「言われなくったって、そーする。あー、疲れた」




