第五十三話 戦記、宮殿にて。
デルレイド侯爵と二人の息子が席につく。
召使たちが現れ、純白のクロスの上に詰め物をした魚の丸焼きや白いパンの籠、ホース・ラディッシュを添えたローストビーフを置いていく。
そして、お仕着せの一番立派な召使が侯爵たちのグラスに透明の液体を注ぐ。
水だ。
食料はいくらでも城内に入れられるのに、酒だけは何があろうと没収された。
解放軍側の調査はかなり綿密に行われ、巧妙に隠したワインの瓶やビールを入れた管などが次々と荷馬車から引きずり出された。ビネガーですら、没収するのだ。
だから、ディンメルのガルムディア軍のなかでも最も高位なデルレイド侯爵の晩餐であろうと、そのグラスにワインが注がれることはない。
今、ディンメルには一滴のワインもない。
だから、ローストビーフにはソースがない。赤ワインがないからだ。
「いったいやつらは何を考えているんだ?」
塩とホース・ラディッシュで味付けたローストビーフをデルレイド侯爵はまずそうに噛んだ。
「しかし、父上」
と、次男のカスパール。
「城下で食糧不足が起きてないのだから、いいではありませんか? もし、飢餓に直面すれば、ディルランド人たちはすぐに反乱を起こしますよ」
デルレイド侯爵は手元にあったナプキンを投げつけて、この愚かな息子に怒鳴り散らしたくなったが、やめておいた。
塩だけで食べるローストビーフは人の気迫を萎えさせるらしい。
リッツ会戦の敗北の後、解放軍からカスパール解放に五千枚の金貨を要求されたときはひっくり返りかけたが、来栖の命を狙った間者を引き渡せば、カスパールを返そうと言われたときはすぐ取引に乗った。
あの忍びとやらはおそらくローバンで斬られただろう。
ロベールは〈蜜〉の話をし出した。
これも苛立ちを覚えずにはいられない話だった。
ロベールの怒りに同調するふりをしたが、デルレイド侯爵も二人の息子に隠れて〈蜜〉の製造には原料供給で一枚噛み、それなりの甘い汁も吸っていた。
それが解放軍にあっという間に監獄を落とされ、〈蜜〉のことが明るみに出て、本国ではディルランドに増援を送るか否かでもめているという。
こっちは一万五千で籠城している。
対する解放軍は四万。
ついにとうとう兵力差が逆転した。
火砲をまじえた解放軍の総攻撃を覚悟したが、解放軍は動かない。
塹壕に篭ったままで、兵糧攻めの気配も見られない。
ただ、酒の持ち込みだけを厳しく制限するのだ。
外へ食料その他物資を買い付けにいく商人たちももはや酒の買い付けを行うつもりはないらしい。
それで検査に時間をかけられるのは馬鹿馬鹿しいし、海水魚のような鮮度が命の商品を運ぶ上ではむしろ酒は邪魔なだけだ。
さっぱり分からない。
酒などなくても、兵は戦える。
一体どんな意図があって、解放軍は酒の出入りを規制しているのか。
そして、外からひっきりなしにきこえてくるあのやかましい音楽は何なのだ?
昨日、メダルの騎士に命じて、解放軍の軍服を着せた間者を数名放たせて、解放軍の封鎖の意図を探らせようとしたが、今朝、全員が服を引っぺがされて裸同然のまま縛られて送り返された。
「我々のスパイ網はこの程度なのか?」
「おそれながら閣下、わたしの手持ちのなかで最良の間者は閣下の御子息を救うために使い捨てました」
今更ながらカスパールの愚かさがこうして身に降りかかってきたわけだ。
そのカスパールは何か落ち着かない。
理由は知っている。
女郎屋に行きたいのだ。
ミレリアというマダムに入れ込んでいるらしい。
ディンメルに入城したとき、デルレイド侯爵はその女を見たことがあるが、あれではカスパールの手に余る。
美人で、そして頭も切れる。
顔のつくりがいいだけで中身のないカスパールなぞいいようにあしらわれるのがオチだ
ついにとうとうカスパールは席を中座した。
ロベールが何か言おうとしたが、デルレイド侯爵は止めた。
いっそ少しは痛い目にあったほうがいいのだ。
そうすれば戦争に少しは身が入るだろう。
――†――†――†――
カスパールの乗った馬車のランタンに灯が点ると(解放軍は薪や油も遮断しなかったのだ)、馭者は手綱で馬の尻を打った。
馬蹄が石畳の道で高らかに硬質な音を鳴らし、ビロードの座敷がしゃっくりでもしたみたいに揺れた。
マダムの店なら、まだワインの一本くらいあるかもしれない。
高くつくだろうが、酒のない女遊びなどカスパールには考えられなかった。
馬車は宮殿の裏門から市街へ出た。
市民の夜間外出は禁止され、厳しい罰則が定められていたので、街路をうろつくのはランタンを持った兵士と野良犬だけだった。
天秤の錫看板がぶら下がる両替商街を通り過ぎ、ディムル橋を渡る。河岸では買い付けから戻った船が荷物を下ろしていた。荷は塩漬け肉で酒は一滴もなかった。
橋を過ぎたところに旧市街があり、そこにマダムの店があった。
だが、おかしい。
いつもなら風呂の窓から湯気が立ち上っているはずだ。
それに人気もなく、灯もない。
カスパールはふとその暗闇のなか、マダムたちを縛り上げて猿轡を噛ませた暗殺者が凶刃を手に身を潜めているという想像をした。
想像は確信に変わり、未確認のまま事実とみなされた。
カスパールは座席から小窓を開けると、馭者に喚き散らすように命じた。
「走れ! ここから離れるんだ!」
「ですが、マダムの店はここで――」
「馬鹿め、暗殺者だ! 暗殺者がおれを待ち伏せしている!」
暗殺者ときいて驚いた馭者は立ち止まりかけていた馬に鞭を打ち鳴らし、急いでその場を離れた。
カスパールの顔はすっかり青ざめていたが、そのうち自分のカンの良さが自分の命をすくったことに気を良くし、女は宮殿の洗濯娘でも手をつけることにしようと思いなおした。
カスパールは上機嫌になり、口笛を吹いたが、馭者の耳にきこえたそのメロディは今も外からはっきりと流れてくる解放軍の音楽と非常に似通っていた。




