第十七話 地回り、赤シャツ。
高く隙間ないサボテンの壁で囲まれた下町には、魚と油と海で腐ったもののにおいがこもっていた。
区画のなかには通りが二本あり、そこに観光客に見せることのできないものが押し込められていた。
些細な小銭をめぐる賭博師同士の刃傷沙汰、大笑いしながら足を天井に向けてスカートを引き下ろす娼婦、吸い込むといい気分になれる怪しげな煙、質の悪い灯油みたいな味がする密造酒。
二本あるうちの一本である通りには浮かれ騒ぎたい水夫たちの笑い声がして、異様な面構えの人間が酒場の前でたむろしていた。太鼓と笛とギターの狂ったような音楽に合わせて踊る狂った人びとが出入りするたびにもれる酒場の黄色い靄は吸い込むと寿命が縮みそうだ。
それ以上に寿命を減らす方法が酒や賭博、売春婦に隠れているが、一番簡単なのはエル・ヴェラーコに逆らうことだった。馬鹿な命知らずが毎晩、彼らの山刀の犠牲になっている。三人くらいで済むことがあれば、十人以上が死ぬこともあり、そうなると、総督府から派遣された兵隊が片っ端から店を閉めさせた。こうなると、頭目であるカンタボニオ人のムシュー・グレミオンはひどく不機嫌になり、また犠牲者が増え、また多くの店が閉められる。
カンパニーにつけば、このサボテンに囲まれた下町に完全な支配権が与えられるという取引はもちろんのこと、金貨千枚を手つけに、成功報酬で金貨二千枚をさらに払うという約束もこたえられなかった。
赤い花と蔓の四角い家の中庭ではムシュー・グレミオンが七番目の妻に十発目の峰打ちを食らわせているところだった。
「次は峰打ちじゃすまねえぞ」
召使いの女たちに引きずられる七番目の妻にそう告げる。
ぼろきれで山刀を拭いながら、庭を囲う回廊の隅に背をもたせている男に話しかけた。
「信じられるか? もう三週連続でろくにカネを持ってこねえんだ」
話しかけられた男は黙ってうなずいた。
派手な赤縞の綿シャツにツバのない低い帽子をかぶった色浅黒い男はみなから赤シャツ(カミーチェ・ロッセ)と呼ばれていた。
顔は色艶のないヒゲで隠れていたが実際は餓死者みたいに頬がこけていた。シャツのボタンは肋骨のすぐ下までしかなく、仕立屋はチョッキを着ることを前提にシャツをつくったはずだったが、赤シャツは一度もチョッキらしいものを着たことがなかった。
それだけではなく、しゃべったところを見たものもいなかったし、怒ったり喜んだりしているところを見たこともなかった。
酒を飲んでいるところを見たものもいなく、娼婦としけこんだところを見たものもいなく、散財らしい癖にハマっているところを見たものもいなかった。
ただ賭博は別でカード、サイコロ、闘鶏や闘犬、最近は本土から入ってきたスロットマシンといろいろ手を出していて、カラヴァルヴァの名高き〈ハンギング・ガーデン〉の三色刷りの張り紙をじっと半日眺めているところを見たものがいた。
カネに詰まると仕事をした。
前日の夜も金貨が二枚、切り札になり切れなかったクイーンや出るべきところで出なかった七のために失われていた。そこで赤シャツはムシュー・グレミオンのもとにやってきたのだった。
ムシュー・グレミオンから名前と場所をきくと、前払いで金貨二十枚をもらい、雇い主は仕事が終わるまで賭場に近づくなよと忠告するのを忘れなかった。
「これが終わったら、ちょっとしんどい仕事を頼むことになる。知ってるだろ? カンパニーとクルスの選挙騒動。どちらもとんでもないカネが唸ってやがる。これを利用しない手はない」
赤シャツはうなずきもせず、首をふりもせず、廊下から通り抜け専用の通路を通って、外に出た。
帆柱の角灯が見える通りを海と反対側に歩いていく。臓物料理と煙草のにおい。空気は舌の上でざらっとしていた。
開きっぱなしの窓や地下室のドアから切り札をぴしゃりと叩きつける音がきこえてきた。
賭博には目がないが、赤シャツには自制心があった。それが長生きのコツになることは分かっていたが、健康を保証するものではない。
鶏の頭をかぶせた拳闘士の絵を描いた大きなあばら家に入ると、水夫と連れの売笑婦が樽に頭を突っ込んで蟹ビールをのんでいた。テーブルに食材を散らかしていた店主は奥の部屋を指差した。
風通しが悪く煙草と油っぽい料理のにおいがこもった穴倉に入る。五人のやくざものが、カナリア島独特のローカルルールのポーカーをしていた。
赤シャツは手近な背中に短剣を突き立て、空いたほうの手でランタンを叩き落とした。
店主が恐る恐るドアを開け、ランタンに火をつけると、五人が喉を切り裂かれたり、心臓を一突きにされて、折り重なっていた。赤シャツはネズミが出入りする拳大の穴の他に出口がないはずの部屋からきれいさっぱり消えていた。




