第二十三話 テキヤ、人望を積み重ねてジェンガする。
マルムハーシュが輪投げの輪っかが若干楕円になっていることに気づき、北河岸通りで集まった男たちに焚火を借り、火であぶりながら力をかけ、微妙な調整から完璧な正円にするという人間離れしているが地味な技を使っていると、まだ朝になったばかりなのに全ての教会で晩鐘が鳴った。
キーン、コーン、カーン、コーン。
「司祭どもめ。しこたまワインをきめたらしいな。朝と夜の区別もつかねえなんて」
と、男たちのひとりが言った。
「だが、全部の教会ってのはどういうことだ?」
「司祭限定の乱痴気パーティでもあったんだろ」
「ふーむ」
マルムハーシュは男たちのひとりに銅貨三枚で輪投げ屋の見張りを頼むと、北河岸通りを西へ昇り、ロデリク・デ・レオン街からシデーリャス通りへ入り、石塀で前庭を囲った集合住宅へと足を運んだ。
最初は二階建てだったものを無理やり五階建てに建て増している。いかにカラヴァルヴァでは地震が起こらないかという見本である。
その前庭には屑拾いの観察眼から逃れた紙屑や変色した果物の皮、それにゴミとしては最も価値のあるボロボロの靴が転がっていて、それを犬が噛んで振り回していた。
その飼い主は未亡人の老婆で造花つくりでかろうじて暮らしをつないでいたが、犬を原因に家主から立ち退きを食らっていた。
「ああ、マルムハーシュさん。本当にすいません」
ぺこりと頭を下げる老婆にマルムハーシュは膝をついて目線を同じ高さにすると、震える薄い肩に優しく触れ、
「いいんですよ。ディアスさん。それで大家さんはどこに?」
大家の部屋は二階で、そこではどこの商会にも許可をとっていないポーカーが四六時中行われていて、そのテラ銭で大家はなかなか儲かっているようだ。
マルムハーシュが部屋に入ったとき、壁紙や家具をだらしなく痛めた部屋にはカードを手にテーブルを囲んでいる男が三人。窓のそばで座ってカネを数えている、爪楊枝のように痩せた男がひとり。これが大家だった。
部屋に入ると、ゲームの手は止まらなかったが、カネを数える手は止まった。
「なんだ、あんた。聖印騎士団かなんかか?(マルムハーシュは水が滴る白銀の鎧をつけていた)」
マルムハーシュは穏やかな顔で首をふった。
「じゃあ、商会か?」
マルムハーシュはまたも穏やかな顔で首をふった。
「じゃあ、てめえ、誰だよ?」
「ここに住んでいるディアスさんに頼まれたんだよ。どうか彼女を追い出すのはやめてくれないか?」
これをきくと、大家が笑った。カードを握る男たちも笑った。
マルムハーシュは「?」と微笑んでいる。鎧はつけていたが、剣は持ってきていなかった。
「あのババアにお使い頼まれたんなら、こう伝えとけ。今日じゅうに出ていかねえと、荷物を全部道に放り出してやるって」
「そこを何とかならないかな?」
大家はいきなりマルムハーシュの顔にビンタをくれた。
「?」
「また、笑ってるぜ。こいつ白痴なんじゃねえの?」
カードの男のひとりが言うと、大家はまたマルムハーシュの顔を、今度は逆方向から叩いた。
だが、騎士は相変わらず「?」の表情を崩さない。
普通なら怒りを抑え込んだあまりの痙攣やこめかみに浮かぶ青筋が出てきてもいいはずだが、マルムハーシュはただ「?」と優しく微笑みかける。
それが何とも不気味で、そのうち大家は「ひょっとしてこいつはクルス・ファミリーのまわしものか?」と考え始めた。
大家の頭にそんな不安がよぎったのは、来栖ミツルがある剣士がなくした剣を〈ラ・シウダデーリャ〉で買い戻して渡したという噂をきいていたからだったし、クルス・ファミリーに睨まれたら厄介なことになる事情を抱えていたこともある。
実はディアボロスの組員に屋根裏部屋をアジトとして貸しているのだ。
それだけではないアジト拡張のため、あの老婆を追い出そうとしている。
ディアボロスからの賃料が相場の倍以上だったので、カネにつられたわけなのだが、これがクルス・ファミリーに知られると、かなりヤバいことになる。
しかし、一回ビンタするために立ち上がったからには相手を追い出さないとかっこがつかない。
よし、追い出してやろうとしたそのとき、
「ぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁ!」
ぐちゃ!
大きな落下物の姿が窓を横切った。いや、上から下へ落ちたのだから縦切ったという奇妙な言葉が正しい。
大家とギャンブラーたちはみな窓に集まり、見たのは頭が卵の殻みたいに割れたディアボロスの組員の死骸と、その死骸を避けるように立ち去るトキマルとジンパチの姿だった。
四人の男は肩越しに振り返った。
それを見たマルムハーシュが「?」と小首をかしげたのだが、それが外で落下死したディアボロス組員の折れた首を連想させた。
――†――†――†――
「ありがとうございます。マルムハーシュさん。それにこんなお金をいただいてもいいのでしょうか?」
「いいんですよ。賭博のテラ銭です。わたしは半分もらいました。後の半分は生活に充ててください」
「ワンワン!」
「よかったな。お前も家を追い出されないで済むぞ」
「それではわたしはこれで。これから寒くなりますから。ディアスさんも体を冷やしたりしないでくださいね」
「あなたは本当に光の騎士です」
「? いや、わたしはただの輪投げ屋ですよ」
ロデリク・デ・レオン街と並行する路地は多少ジグザグしていて、この浅い角度の曲がり角には石で囲った泉や物売りがいる。
ゼルグレの戦場メシ屋もそうした浅い曲がり角で営業していた。
マルムハーシュが冷やかしに行ったとき、ゼルグレは大きな屋台鍋で豆と角切りベーコンを煮ていた。
「アラメスコ大尉のスープかい?」
「ああ」
「実にうまそうだ」
アラメスコ大尉のスープ。別名、ソパ・デ・カピタン。
辺境伯旅団の中隊長アラメスコ大尉が発案したと言われているが、五種類の豆と塩漬け豚肉を煮るだけの簡単な料理であり、『発案』なんて言葉が使われるほどの創意があるわけではない。
むしろこれは隊長のスープ、兵卒や軍曹では手が出ないが、隊長クラスなら何とかなる、戦場料理の豪華版と言ったところだ。
アラメスコ大尉の名を冠するのは彼がこのスープの材料を略奪するときに新機軸を持ち込んだからだ。
つまり、食料を隠した農民の親指をフリントロック式ピストルの撃鉄に挟み、豚と豆と玉ねぎとニンニク、それにレモンを少々、喜んで供出したくなるまで締めネジをまわしてやる。三回まわすと指の骨にヒビが入る。まもなく敵味方両陣営にこの拷問方法が広く知られ、隊長たちは材料調達術の発展に大いに寄与したアラメスコ大尉の名をスープに冠したのだ。
「確か、アラメスコ大尉はイグレシエラの戦いで戦死したんだな」
「ああ」
「今だから告白するが、アラメスコ大尉を斬ったのはわたしなんだ――たぶん」
「たぶん、ってなんだよ」
「いや。剣を握るとアタマがカーッとなってね。戦いの前後のことを覚えていないんだよ」
「こええ性格だな」
「だから、ぼんやりとアラメスコ大尉を斬った気がするんだけど、確証が持てないというか――」
すると、ゼルグレは鍋から椀にスープを取り、マルムハーシュの前に置いた。
「安心しな。あのクソ野郎を斬ったのはあんただ。おれが保証してやる」
「見たのかい?」
「ああ」
「もしかして、わたしはきみのことも斬ったりしてないかい?」
「なんとかかわした。あんたはおれのこと頭のてっぺんからケツの穴まで真っ二つにしようとしてた」
「そうか。しかし、辺境伯領で殺しあった連中がひとつ同じ街で商売をするっていうのは変なものだねえ」
「ふん。おれにはいい迷惑だよ」
「?」
「また、戦争が始まれば、おれたちはそっちに戻る。こんなの腰かけにもなんねえよ」
「別に戦争に行きたくないなら、行かなければいいんじゃないか?」
「おれたちなんて戦っていくらの生き物だ」
「わたしはここで輪投げ屋を続けるつもりだよ」
そう言って、アラメスコ大尉のスープを口に運ぶ。
「うん。うまい。これで暮らしていけるよ。えーと」
「ゼルグレ」
「ゼルグレ。わたしはミカエル・マルムハーシュ」
「知ってるよ」
「そうかそうか。しかし、労働の後のソパ・デ・カピタンはたまらないね」
「あんた、輪投げ屋は?」
「銅貨三枚で任せてある。仕事、というよりは頼みごとでね。靴直し屋と靴下直し屋の喧嘩を仲裁してきた。同じ足商売だから喧嘩はいけないよと話したら、すんなり納得したよ。そうそう、そこですごいものを見たんだ」
マルムハーシュが見たのはアレンカだった。
靴直し屋の一団と靴下直し屋の一団というお互いを殺し合おうとする怒れる男たちのあいだに入っていたとき、火だるまになった暗殺者が悲鳴を上げながら、サン・イグレシア大通りを沼のほうへ走っていったのだが、その後ろから、
「キャハハハハ! 燃えろ、燃えろーっ、なのです!」
と、アレンカがお腹を抱えて笑っていた。
その凄まじい光景にポカンとしているあいだにマルムハーシュは靴直し屋の親方と靴下直し屋の親方の手を引っ張り、強引に握手させて一件落着にした。
その後、納得がいかない双方が武器を手に戦おうとするが、マルムハーシュは足払いをかけた。誰も立って戦えないことを悟らさせるまでかけた足払いの回数なんと二百十回、靴直し屋と靴下直し屋たちはマルムハーシュに対して白旗を上げ、かくして労働争議は無血決着したのだった。
「そんなに足払いをかけていたら、お腹が空いてしまってね」
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にさせていただこう」
「……」
「?」
「あんた、なんでおれがよそったものを食べる?」
「? 食べさせようと思ってよそってくれたんだろう?」
「だから、この腕だよ」
「腕? 包帯が巻いてあるようだが、わたしが斬ってしまったのかな? だとしたら、すまない。だが、記憶がなくて――」
ゼルグレは右腕を隠す包帯を引きちぎった。
その紫の鱗が生え、血管が黒く浮き上がった不気味な呪術の塊は日に当たることを拒み、宿主の意図を介さず、不満げに震えていた。
「この街の連中は馬鹿なのか、無知なのか知らねえけど、おれの手を見てもどうも思わない。だが、あんたはどうだ?」
「? よく分からないが、きみはその腕でスープをよそったら、味が落ちると言いたいのかい?」
「そうじゃねえよ」
「?」
「呪いが感染るとか、思わねえのか?」
「感染るのかい?」
「それは――分からねえけど。でも、薄気味悪いだろうが」
「わたしは別に思わないし、この街の人たちもそう思っていないなら、そのままでいいじゃないか」
「でも、おれが――これまで生きてきた場所はみんな、この腕を――、チッ、もういい。とにかくおれは戦争が始まったら、すぐに戻る。んで、とっとと戦死する。呪いはもうじき心臓を蝕む。その前にこっちからくたばって――」
路地はそこそこ広く、馬車が二台すれ違えるくらいの広さがある。
あちこちにある安い旅籠の窓から洗濯物を煮るシャボンのにおいが漂ってきて、城壁か何かが朽ちた跡の石の積み上がりがあり、そこに特に意味はないが、青と黄色の美しい盾を描いた旗が朝の大気を背景に元気にはためいていた。
そのとき、一台の馬車が路地を暴走していた。
その車体には鉄の爪をつけた黒装束の小人たちがまとわりつき、扉や屋根を次々と切り裂き、大きな顔をしたヒゲの男が山刀を手に「おれはココナッツ・マンだ」と自己紹介しながら致命的な一撃を馭者の頭にぶち込んでいるところだった。
その後ろからは巨大な大聖堂に車輪がついたものが路地の広さギリギリで走りこんできて、パイプオルガンの汽笛を鳴らしていた。屋根に乗ったヴォンモが、
「お馬さんに怪我をさせたら駄目ですよ! 殺していいのは人間だけです!」
と、パイプオルガンに負けない声で叫んでいた。
まもなく手綱が切られて、馬は自由になり、車体は不自由になり、ただ壁に激突するまで走るだけの車輪付き棺桶と化した。このまま激突すればイスラントを三日間倒れたままにできる凄惨な死体をつくることだろう。
「待ってー!」
暴走機関車大聖堂ことカテドラルのカッちゃんを追いかけるのが三人。
来栖ミツルとミミちゃん、そして――モレッティ(来栖ミツル命名)だった。
「だめだ。全然追いつけねえ」
「だっから、馬車雇おうって言ったんですよ。これでヴォンモちゅわんをペロペロできなかったら、あなたのせいですからね」
そのまま来栖ミツルとミミちゃんは絶望的な追跡を再開したが、悪魔のモレッティだけはその場に残り、悪魔の尻尾を振りながら、興味深げにゼルグレを観察していた。
「なんだよ?」
「いえ、知り合いがいたもので」
「知り合い? マルムハーシュのか?」
「いえ、あなたです」
「おれ?」
「正確にいうとあなたの腕に。――バフォメット、出ておいで」
するとゼルグレの腕から万年平教師風の山羊ヒゲの男があらわれた。
紫の煙が渦を巻き、そのなかからバフォメットはあらわれたのだが、そのときも帽子をとって手に持ちながら、モレッティにペコペコ頭を下げていた。
「お久しぶりでして、若」
「若だなんて。水くさいじゃないか。で、きみは元気かい?」
「なんとかやっておりまして」
「見たところ、その若者に取りついているようだけど」
「はあ。ちょっと魂が入用になりまして」
「当ててみよう。女性だろう?」
「はあ。その通りでして。今年はちょっと多めに渡してやろうと思いまして」
「その若者の命を取る予定かい?」
「ええ。まあ、そうなるかと思いまして」
「どこまでやったんだい?」
「いえ。そんなにやってません。腕とそれに心臓を少々。この若者、若のお知り合いでして?」
「知り合い、というか――僕の宿主にとって大切な人が職業を斡旋してあげたのが、その彼なんだ」
「それは恐れ多いことでして」
すると、バフォメットはゼルグレのほうに向きなおり、頭をひとつ、ぺこりと下げた。
「心臓は手放しまして。これで長生き間違いなしでして。ただ、腕はいただきたいわけでして。というのも――」
「分かるさ。奥さんに多めに魂を入れたいんだろう?」
「いえ。それがこちらのほうでして」
バフォメットは小指を立てて、人間界と悪魔界ではそのジェスチャーが同じ意味を持つことを証明した。
「なんてことだ。すごいね。きみ」
「どうぞ、このことはあいつには御内密にしてほしいのでして」
ぼわりと紫の光が鈍く広がると、バフォメットは消え、ゼルグレが常に感じていた胸の圧迫がころりと取れた。
物心ついたころからあった呪いが一部消えたのにゼルグレが感じたのは戸惑いだった。
蹴られ、殴られ、戦争に売られるのが当たり前だった彼のこれまでの人生で、こんなに恩義を与えられることがなかった。
来栖ミツルとミミちゃんがぜえぜえ肩で息をしながら戻ってきたときになって、彼は自分を取り戻した。
「おい! どういうつもりだ!」
うおっ!と来栖ミツルが声を上げた。
「なんだよ、戻ってきたら藪から棒に」
「そこにいる悪魔がおれの呪いを解きやがった」
「へ? モレッティ、んなことしたの?」
「ええ。まあ。腕だけはできませんでしたが、内臓系は侵さないと約束させましたので、まあ、不摂生さえしなければ長生きできると思いますよ」
「ふーん。よかったじゃん。呪い解けて」
「よかったな」
「サー・ナイスミドルもそう思う」
「もちろんだ」
分からない、とゼルグレがつぶやく。
「なんで、そんなふうにおれに構うんだよ」
「お前だけじゃないから安心しろ」
「……」
マルムハーシュはこの呪われた腕を持つ若者を見た。
ひどく揺らいでいて、嵐の海の小舟のようだった。
とはいえ、その小舟はこれまで海の底にあった。
それがここにきて、水面へと浮き上がった。
浮き上がった先は嵐だが、それをかわせば、岸につける。
それができるかどうかは今後のゼルグレの生き方が決める
アラメスコ大尉のスープをいっぱい注いだ椀がふたつ、カウンターに置かれる。
「食べていけ。借りを借りのまま、放っておきたくない」
来栖ミツルと悪魔はちらりと目を合わせてから、いただきます、とさじを取った。
いやいやいや!とミミちゃんが法の抜け穴から得た権利が通用せず有罪判決を受けようとするマフィアのボスみたいに叫んだ。
「なに、いい話みたいにまとめようとしてるんですか!? ヴォンモちゅわんに逃げられたんですけど!」
――†――†――†――
マルムハーシュが戻ってみると、輪投げ屋に子どもが集まり、商売は順調のようだった。
さて、本業に戻ろうかと思ったとき、帽子を手にした気弱そうな男が近づいてきて、
「あの、マルムハーシュさんって方をご存じないでしょうか? 困ったことがあったら、その人のところに行くといいと言われて。僕、いま妻と喧嘩中なんです」
「ああ。いいとも。仲裁できるか分からないけど、精いっぱい頑張るよ」
と、笑って、男の後についてきて、結婚生活をひとつ救出するのだった。




