第十六話 テキヤ、本当の戦場メシを教えてやろう。
昨日、屋台を川に捨てたが、翌日『それでおれを困らせたつもりか? ハッハッハ』の張り紙とともにそっくり同じ屋台がきれいになって戻ってきた。
「ち、っくしょう」
ゼルグレは屋台の車輪を蹴飛ばした。
ブーツがへこんで、小指を打った。戦争中に使っていた頑丈なブーツを旅費に困って売り払い、安物に変えたのを思い出した。千キロ歩かされてもびくともしなかったあのブーツは今ごろ別の傭兵に水虫をうつされているころだろう。じんじん痛む右足を手で持ち上げ、左足で片足跳びになりながら、
「いっつぅ……なんだ、この屋台?」
普通の屋台だ。鋳鉄製のかまど、炭を入れた箱、壁からぶらさがった鍋やフライパン、調味料の小瓶……。
垂れ布を結び、カンブリアン・ランタンが吊るしてある片流れの屋根庇……。
「チッ」
舌打ちをすると、調理台からぶらさがるバケツをつかみ、ロデリク・デ・レオン街へ出る路地を歩いた。
二分後には朝靄が低く泳ぐロデリク・デ・レオン街の料理屋通りに立っていた。
蕪やニンジン、葉がうちわみたいに大きな野菜を山と乗せた農夫の馬車が何台も続いて通りを南に下っていく。
道を挟んだ王立劇場の柱廊に毛布をかぶった浮浪者たちが丸まって眠り、影のこずんだ古い店の角からパンを焼く温かい甘い匂いを嗅ぎながらいい夢を見ていた。
食べ物屋台が路地から群れてあふれて広がってきた。四十年同じ場所で商いをしている老婆のひき肉入りの揚げパン、とりあえず腹持ちがいいことで人気がある麦の粥に落とすサワークリームの壺、王宮画家が駆け出しのころに串焼きの代金のかわりに屋台に描いたイワシの絵。
そして、そうした屋台街を体全体で咀嚼しようとする労働者たちでいっぱいになり、ロデリク・デ・レオン街はガリガリ、ムシャムシャと音が満ち溢れた。石割り工夫たちの猫背だが頑丈な背中に押し上げられたチョッキが縫い目ぎりぎりまで左右に伸ばされ、陶器職工たちの皺からしみ込んだ泥の白い線が焼きイワシを噛むたびに歪み、色黒な沖仲士たちがさじを皿でリズミカルにたたきながら煙草を噛んでいる。
聖フィオレ教会の六時の鐘が鳴る前に低賃金重労働に赴く男たちは、潤沢とは言えない食休みの時間に自分たちの上役の頭を斧――石切り人ならハンマー、沖仲士なら豆でいっぱいの箱――で叩き割る甘美な想像に身をゆだねる。
そして、二、三分後には通りから人も屋台もいなくなる。
「……チッ。だからなんだってんだ」
チッ、チッと舌打ちが止まらず、はやく戦争が再開しないかとうんざりする気持ちで北河岸通りへ曲がる。
魔族居住区の城壁のそばに草むらがあり、この季節なのにバッタがいる。
殻のような体が草にこすれる音が絶えずきこえるほどだ。
来栖ミツルは戦場メシを食わせろという。
なら、お望み通り食わせてやる。
バッタをバケツいっぱいに捕まえて北河岸通りに戻ると、〈剣鬼〉マルムハーシュが河岸から階段で通りに上がってきた。舗道でぐっと背を伸ばして、凝りをほぐすように腕をまわす。
マルムハーシュは何かに気がついたような顔をして、突然、腕を真っ直ぐ横に伸ばした。
その腕が女物のカバンを持って走る男の顔に当たって、男が仰向けにひっくり返る。
その後、マルムハーシュはカバンを取り上げると、男を引っぱって起こして、埃を払い、「さあ走った、走った」と背中を押した。
そして、裕福な農家の女将さんらしい女にカバンを返す。女将はお礼をしようとするが、マルムハーシュは首をふって断った。
ゼルグレはマルムハーシュを敵方として見たことがあった。
そのときの〈剣鬼〉はまさに鬼だった。
マルムハーシュのいる隊はゼルグレたちの隊に負けて、追いかけられていたが、突然、マルムハーシュが振り返り、追撃する一個中隊をひとりで押し返した。
右へ左へ味方が薙ぎ倒されるのを見て、〈剣鬼〉の名が伊達ではないことを身に刻まれ思い知った。
「それでこっちは死にかけて、三日間生死の境をさまよった」
「それは悪いことをしたね――ふわぁ」
〈剣鬼〉は剣は下げているが鎧はなく、あくびが止まらないらしい。
もらえるカネはもらえるだけもらっておいたほうがよかったんじゃないか?とたずねると、マルムハーシュは「?」という顔をした。
きくと、お礼をたずねられたとき、眠くて断ったことも覚えていないらしい。
「お礼。お礼か。それは惜しいことをした」
「輪投げの景品を盗まれているそうだな」
「でも、午後までには戻ってくる。人の本性は善だよ」
「おれたちに給料払わず、妾の尻を追いまわす貴族士官どもも?」
「何事にも例外はある」
「そうか。あんたは――いや、なんでもない」
「ん? なんだい?」
「戦争が再開したら戻るか?」
「それはどうだろう。そのときにならないと分からない。ところでそのバケツの中身はバッタかい?」
「ああ。これを炒めて出す」
「うん。実にうまそうだ」
――†――†――†――
油も引かずに熱した鍋にバッタを放り、生きたまま炒りながら塩を振る。
食べるものが尽きた籠城戦ではこれを〈小エビ〉と呼ぶ。
確かに食べてみると小エビと思えないことはない――目隠しして食べればの話だが。
茶色く焼けたバッタを小皿に分けて、屋台車のカウンターに並べてみた。
こんなもの食べるやつが平時にいるだろうかと思ったが、ゼルグレはカラヴァルヴァの人間の舌を甘く見ていた。
彼が店を開いた路地のまわりには貧民窟の中庭がいくつかある。
子どもが野良犬と追いかけっこをし、洗濯物がぶらさがり、鋳掛屋の呼び声が響く、その小さな中庭に小さな掛け小屋があり、その漆喰壁に小さな窓が開いている。その暗くて誰がいるのか分からない窓の枠に空の小壜と銅貨十枚を置くと、白くて毛が生えていない、ちょっとだけぷっくらした手が小銭と壜を取り、トクトクトクという音がしてから、壜が密造酒でいっぱいになって帰ってくる。
そのツマミに一皿銅貨五枚の炒りバッタはちょうどよく、バケツいっぱいのバッタは売り切れた。
「おい、兄ちゃん。バッタはもうねえのかよ」
「ああ。それにしても、どういう胃袋してるんだ、あんたら?」
「知るかよ。バッタはねえのかよ。バッタバッタバッタ」
アル中のツマミ中毒たちのためにゼルグレはバケツを持って、魔族居住区の草むらと屋台を三往復した。
北河岸通りの欄干から河岸の荷揚げ場を見下ろすと、マルムハーシュが子ども相手にチョークで引いた線よりも前に歩かせていた。
そこまで近づけば、蜜菓子に上から輪っかを落とすだけだが、それでも外したので、〈剣鬼〉は蜜菓子をふたつに割り、片方を子どもに、もう片方を自分の胃袋に落とし、手袋についたカスを魚が食べるかもしれないと思い、川の上ではたいた。
結局、一日で十七往復して銀貨にして六十枚、金貨にして一枚を売り上げた。
油は使っていないし、バッタはタダみたいなものだし、塩はほとんど使っていない。
戦場で金貨一枚の稼ぎをするのに、いくつの村を略奪する必要があるだろうか?
村は既に敵の軽騎兵に襲われていて、なにも残っていない。腐った馬の死骸くらいしか。
「そうか。その手があった」
死のスープ。
これならさすがにこの住人でも食べられないだろう。
なぜかほくそ笑むのが止まらない。
奇妙な満足が呪いよりも素早くゼルグレに染みつつあった。




