第十話 ラケッティア、ツンのちデレを味わう。
現代日本で暮らしていると、豪雪地帯に住むのでもない限り、屋根に上ることはない。
だから、屋根に上るという行動それ自体がなんだか新鮮だ。
ツィーヌは屋敷の塔のようになった部分の円錐屋根に膝を抱えて座っていた。
風でグリーンの眼にかかる鳶色の髪をときどき邪魔っ気に横に撫で分け、スカートと一緒に膝を抱えている。
一人でいる彼女は下で見るよりも、ずっと細く見えた。孤独から身を守ろうとする気持ちを抱えた人はみんなこんなふうに細く見えるのかもしれない。
そんな彼女の横におれは座る――はずだった。
ヤバい。動けない。
三階の窓から屋根へ上ったのだが、ほんの二歩動いて、そこで固まった。
こえー! 屋根、めちゃくちゃこえーよ!
映画とかで登場人物が平気の平左で屋根に上って、しっぽりやるけど、あんなの無理。なんで、できるの? ねえ、CGでしょ? それ以外ありえん!
このちょっと前、三階の窓から出るとき、マリスとアレンカは自分たちもついていこうかときいてきた。
そのときのおれの返答。
「大丈夫。すぐに戻るから、先に食堂に行っててくれ」
あ、あれ? これもしかして、死亡フラグ立てた?
これ、助けを求めたほうがいいか? いいよな? でも、できないよな。だって、カッコ悪いもん。
アホか! 生きてる腰抜けと見てくれのいい死体だったら、チキン一択だろうが!
ああ、でも、ほら、ツィーヌの隣に座って、なーにふてくされてるんだよ、って、グーでおでこコツンするシチュエーションじゃないですか。そこで助けを求めるのはいかがなものかと。
よし、この来栖ミツル、これでも大和の男子ですよ。根性みせて、隣に座ってやるよ、ちきしょー。
「なにしてるの、マスター」
「へ?」
見上げると、いつの間にか、ツィーヌが立っていた。どうしてああも恐怖心もなく立っていられるのか不思議なくらいへっちゃらな顔をしてる。
「いや、ね。迎えに来たつもりだったんだけど、このとおり、高さで足がすくんで――っ!」
屋根を葺いていたスレートが一枚、靴の下で滑った。
おれの体は横倒しに屋根にぶつかり、全身に熱と痛さが同時に迸り、一瞬だが目がチカチカした。
その不明瞭な視界で見えたのは星空。
おれの体のほとんどは屋根の外に飛び出して、後は落ちるばかりだ。
目をかたくつむる。
……。
まぶたを開けると、ツィーヌがか細い腕でおれの右腕を必死になって引っぱっていた。
だが、宙ぶらりんになった男一人の体重を支えるのは無理だ。今度は彼女自身が屋根の上からずるずると滑り落ちているのを見て、叫んだ。
「馬鹿っ! 手を放せ! お前まで落ちるぞ!」
「――さない。――」
「は?」
「絶対に放さない! だって、だって、わたしのマスターだもん!」
ツィーヌの踵が屋根にがりっとこする音を鳴らし、おれたち二人は宙へと舞った。
……。
まあ、実際、落ちたのはほんの五十センチくらいだったんすけどね。
おれたちの下には二階の張り出たテラスがあったのだ。
傍から見ていたら、相当マヌケな絵面だろう。
おれはツィーヌの下敷きになり、そこそこある乳を腕に押し当てられるという役得に名残惜しくもおさらばして、なんとかツィーヌを先に立たせ、おれはもうハラホレヒレハレな状態でテラスの欄干にもたれ、よろつき、何とか体を二本の足で支えることができた。
「ほーら。だから、言っただろ。手を放せって。何も二人一緒に落ちることないんだって――」
「馬鹿!」
ツィーヌが目にいっぱい涙をためて叫ぶ。
「馬鹿! マスターの馬鹿! わたしを追って、屋根に上るなんて、できもしないこと、なんでしたの? 本当に地面まで落ちたら、どうする気だったの? 死んじゃうんだよ?」
「そうなったら、四人とも、またメシに困ることになるな、なんて。アハハ」
とんっ。
ツィーヌがおれの胸に飛び込んできた。
そして、拳でおれの胸を打った。
とん、とん、とん。
胸に押しつけられた頭はかすかに震え、くぐもった声で繰り返した。
「マスターが、死んじゃう、嫌だよ、そんなの……絶対に嫌だよ……」
うわ、すっげーいい匂い。
心臓バクバクものだ。
つーか、どうして、この子は今日会ったばかりのおれなんかのために泣いてくれるんだろう。
ちょっとメシをつくってやっただけじゃないか。
……おれが転生して、ここに来る前に何があったのか、知りたくなった。
こんなおれに望みのようなものを託すほどの出来事が四人にあったのかと思うと、嫌な感じがした。
娘ができて、その娘が学校でいじめにあったら、抱くような怒り。
「とりあえず、食堂に降りるぞ。いいよな?」
ツィーヌはうなずいたが、離れようとはしなかった。
それでもようやく食堂に降りると、マリスが開口一番待ちわびたお腹ペコペコだと言ってくる。
「でも、夕ごはんはわたしが駄目にしちゃったから」
ごめんなさい、とうつむくツィーヌにアレンカが言った。
「ツィーヌ。ごはんならこの通り、ちゃんとあるのですよ」
「え?」
テーブルの大皿には切ったパンの上にみじん切りの玉ねぎとトマトの輪切りが乗っていて、それにバジルやハーブが塩と一緒にふりかけられ、オリーブオイルはテラコッタ製の水差しのような入れ物のなかで出番を待っている。
「これは?」
「プルスケッタ。残った材料でできるものをつくってみた。まあ、切ったパンをちょっと炙って、トマトをのせただけの簡単なもんだけど、結構うまい。じゃ、仕上げを頼むよ」
「仕上げ?」
「そこのオリーブオイルをプルスケッタにさあっとかけて、出来上がりだ。まあ、料理はおいおい覚えていけばいい。なんなら、最初は火を使わないものから始めてもいいし。とにかく、腹も減ったことだ。じゃ、コックの卵くん。頼むよ」
「でも、わたし――」
「どうしても、ツィーヌにかけてもらいたいんだ。他に頼める人がいなくてな。なあ、みんな?」
みんなが頷く。
ツィーヌはふふと笑って、
「しょうがないわね。かけてあげるけど、わたしのためにかけるんだからね。そこを勘違いしないでよ」
入れ物を手に取る。
オリーブオイルの匂いがさあっと部屋を巡った。




