第九話 怪盗、怪盗アサシン衣装一考。
「ミツルの知り合いで女性にひどいあだ名をつけるやつがいて、そいつの暴言、トップ3のうち、第三位が『ケツに双子を妊娠してるみたいにケツがデカい』、第二位が『ゴリラタンク』、ゴリラもタンクも何のことだか分からないが、第三位のひどさを見るに、相当ひどいんだろう。で、第一位は『おれの口からはとても言えない』んだそうだ。まあ、きけば教えてくれるだろうけど、いかにもきいてほしそうな顔をしていたんで、無視した」
「どうして、それをいま話すんです?」
「さあ。なんでだろ?」
そのとき、ふたりの体はワイヤーにぶら下がり、真っ暗闇のなかを小型巻き上げ機でするすると上に昇っていた。
ランタンとテーブルの廊下を通っていくうちに灯のない行き止まりにつき、見上げてみるとランタンの真下に吊るされているフックが見えたので、ふたりとも慌てず騒がず、自分のワイヤーを真上に放った。クリストフが話したのは来栖ミツルがまだ現代日本にいるころの話で、ちなみに女性に使う言葉で一番ひどいのは『デブ』でも『ブス』でもなく『ハゲ』だった。
来栖ミツルが不思議に思うのはファンタジー異世界では禿げていない人をハゲと呼んで相手に精神的ダメージを与える風習が存在しなかったことだ。だから、一位がハゲだと説明しても分からないだろうと思う反面、これらの言葉は自分が言ったことではないと何度も念押しした。
クルス・ファミリーは何だかんだで女性が強いファミリーである。元祖暗殺最強ガールズ・カルテット。ヴォンモの闇魔法。爆発するエルフ姉妹。何だかんだで強力なフレイの亜空間リソース。それに身内ではないが喧嘩師サアベドラ。男性陣でこれらに対抗しうるヤバい武器はアレサンドロのターコイズブルー・パンケーキくらいしかない。女性陣が怒り狂って襲ってきたら、男の絶滅した荒野にはただ一枚のターコイズブルー・パンケーキがあるのみなのだ。
「ふわふわたまごパン、以外のものも食べたい」
「なに?」
ターコイズブルー・パンケーキとふわふわたまごパンのあいだに関係性があるわけではないが、なにかぎくりとするものがあった。
「隊長がそう言ったんだ。イリーナにきこえないようこっそりと」
「どうして、いま、それを話すんだ?」
「さあ。どうしてでしょう?」
「……まさかロジスラスは三食、ふわふわたまごパンなのか?」
「恐ろしくてそれ以上はきけませんよ。それとついでにきくんですけど、あの幽霊は何なんですか?」
「幽霊?」
「本部にいる幽霊です」
「本部ってどこ?」
「〈ちびのニコラス〉です」
「あんたたち、あれを『本部』って呼んでるの?」
「いけないことですか?」
「別にそれで誰かが迷惑をこうむったわけではないけど。……本部、ねえ。それと幽霊だけど、詳しいことは知らないね。ミツルが宇宙から連れ帰った。別に悪さするわけではない。まったり浮いてるだけだ。あと、彼女にイケメンと判定されるとときどき取りつかれる」
ワイヤーで壁を昇り、降りると冬物の厚手の毛皮外套が何百着と吊るされた大きな部屋についた。幅が広く、奥行きは百メートル以上ある部屋に黒い厚手の外套がずっと吊るされていた。来栖ミツルなら保険をかけて半分の外套をどこかに避難させ、残りはこの場で燃やして、いけしゃあしゃあと全部分の保険金をもらうところだろう。
だからと言うわけでないが、服と犯罪を結びつけると、そのうちお互いの黒装束に関する意見を言い合った。
クリストフの黒装束は外套も首まで留める胴衣も若干礼服らしいところがあり、このまま仮面舞踏会に出席できるような仕立てになっていた。ルイゾンのものは暗殺者用の装束で、男版アサシンウェア。ぴったりとした仕立てであちこち刃物だらけで手がどこにあっても瞬く間にナイフが抜ける、おっかない仕様になっている。
怪盗用衣装を縫うひと針ひと針には隠密活動に余裕を含ませる贅沢な無駄が込められているが、暗殺者用衣装にはむしろ一切の無駄を許さない覚悟が縫い糸を切るときに込められているのだ。
天井から下げたロープに三十メートルくらいの棒を結びつけ、ハンガーで吊るした外套がずらっと整列した兵隊のように隙間なく並び、そのあいだには洗濯桶らしいずんぐりとした影やシャボンの浮かぶ水面がちらちら光っていた。外套の裾は床すれすれで、生地は重く、これをどかさずに進めなかった。自分たちが進んだ後には揺れる外套が残るので、隠密行動の面で考えると、この部屋もそれなりに意味があるのかと思ったが、その部屋を抜けた先が謁見の間だった。
仕事上、いくつかの城に潜入したことがあるので、謁見の間につながる部屋というものは見てきたが、だいたいが豪華な廊下で白亜の柱が並び、気候によっては左右に壁はなく、涼しく流れる水の上に緑樹が伸びているものもあり、そういう廊下は満月の夜に忍び込むと、差し込む青い月光がため息をつきたくなるほど美しかったりする。
だが、この城は謁見の間に続くのは外套がぶら下がった部屋であり、また謁見の間も奇妙な部屋だった。魔法使いが座るらしい、背もたれの高いビロードの椅子が一段高い位置にあり、脇に羽根ペンとインク壺が置かれた小さな机があった。非常に謁見の間らしい謁見の間だが、そうであればあるほど、この前の外套部屋との整合性がない。
そして、肝心の〈骨の小瓶〉は椅子に剥き出しにして、放ってあった。
魔法使いの力の源は何の装飾もないただのガラス壜をコルク栓で閉じたもので、こういう置き方には怪盗に対する挑戦的な態度が望めた。
以前もある通り、怪盗にとって盗めないものは無造作に放り出されたものなのだ。だが、それを言うなら、今回、予告状を出していないし、また少女がひとり生贄目的でさらわれていた。
だが、その小瓶を手に取れない理由は他にもあるようだった。
その小瓶を見ると、何かに引きずり込まれそうな気がした。
触ってはいけないと告げられているようだが、そう思えば、思うほど、触りたくなる。だが、触れば、自分が怪盗ではなく、別の何かになってしまう気がした。
ルイゾンが何かを叫んでいたが、それは言葉としてきこえず、クリストフは手袋をとって、骨の小瓶にじかに手を触れた。
そのとき、魔法使いの姿が見えた。
ローブのフードの奥に見えたのは、黒い煤と焼けた文字。そして、途方もない安心感だった。




