第二十二話 司法/霊との会話、九月二十四日。
頬を何度も叩かれて、目を覚ますと、眠そうな目がロランドを見下ろしていた。
「おはよう、騎士殿」
「〈砂男〉……う、動けない」
納屋らしい建物の二階。
ロランドの手は柱に縛られていた。
〈砂男〉の背後の空は東から差す金色を含む霧がかかっていた。
「くそっ、これをほどけ」
「それが命の恩人に対する態度か? 聖院騎士団ってのはもっと躾にうるさいと思っていたがな」
「命の恩人?」
「おれがお前らをあの土手に放置していたら、お前ら全員山賊に殺されてた」
「ここは、どこだ?」
「おれが知りたいくらいだ。この村でポルフィリスタが皆殺しにされるまで釣りでもして待ってようかと思ったのに、お前らが山賊とドンパチして、これでもうここにもいられなくなった」
「他のみんなは?」
「無事だよ。フランキスタもな」
そこは水に浸かった村だった。
カルヴェーレの沼の水位が上がったのか、村の地盤が下がったのか、ともあれ腐葉土を底とする膝くらいの水位がある浅瀬になっていた。
「こんな浅瀬があったなんて。……助けてくれたことは礼を言う。ありがとう。この縄を解いてくれないか」
「それについては重要な問題がおれたちのあいだに横たわってるな。おれは盗人、お前はおまわり。正直、お前を助けたこと、後悔し始めているところだ」
そう言いながら、取り出した刃物でロランドの縄を切った。
「他のやつらのところに案内してやる。来い」
〈砂男〉が不用心に見せる背中を追いながら、ロランドは屋根の落ちた納屋を迂回し、水から生えるカエデの木立を抜け、溺れる墓で死者の安眠を破らぬよう印を切り、水を膝で割って歩いた。
村の広場だったらしい場所に出る。
水浸しのパン焼き窯、水浸しの鍛冶屋、水浸しの茅の山、水浸しの交易所。
どこかで水が流れ落ちる音がする。
足元の水は透き通り、氷のようなにおいがする。
「見たか?」
「え?」
ポルフィリスタかと思ったが、〈砂男〉は違う違うと首をふる。
「ナマズだ。墓場で泳いでいたろう?」
「見なかった」
「棺桶よりもデカいナマズだった」
「そうか」
「棺桶よりもデカいナマズがいたのに、そうか、か」
「釣りはしない」
「おれだってそうだ。でも、普通、驚くだろう? 棺桶よりもデカいナマズだぞ?」
教会の二階で他のみなと合流すると、〈砂男〉は消えていた。
「確かにいたんですけど」
「まあ、仕方がない。我々とやつのあいだに横たわる問題は思っているより深いからな。ただ、礼は言っておきたかったものだ」
「アストリットさん。これからどうしますか?」
「言われた任務を遂行する。この阿呆をカラヴァルヴァへ連れて帰り、放火の罪状で起訴する」
「へっ、どうせおれは自由の身だ」
「お前がどう思うかは知らない。だが――」
と、言いながら、イヴェスは槊杖でピストルの弾を銃身に押し込んだ。
「昨日襲ってきたのはポルフィリスタだ。既に三人が殺されている。減らず口を叩く前に考えろ。お前にとって我々はたった一本の正しい命綱だ。それ以外をつかんでみろ。地獄へ真っ逆さまだ」
外に出るが霧は深く、全ては濡れて重くなっていた。空気ですらそうだった。
水位も膝どころか腰まで浸かるようになり、短く切った丸太や古い樽が浮かんでいる。
建物はみな戸口に板が打ちつけられていて、カワカマスらしい影が水場に走った。
「止まってくれ」
水路の先頭を行くロランドが小声で知らせる。
魚ではない、大きな生き物が水を掻きわける音が霧のなかからきこえてきた。
ロランドが弓を横に寝かせて、弦を引き絞り、物音のするほうへ視線と神経を集中させる。
細かく震える矢じりから水滴がぽとぽと落ち、白く渦を巻くような霧に少しずつ陰影があらわれてきた。
沼地のきまぐれな風が霧を拭い去ると、ふたりの山賊の姿が、古王国時代の魔法使いのように突然あらわれた。
ひとりはバーゴネット兜をかぶり、銃が水に濡れないよう高めに持ち歩いている。
もうひとりはクロスボウを手にしていて、ツバの広い帽子を傾けてかぶり、頭に巻いたバンダナの結び目が帽子の内側から少しはみ出ていた。
指を離すと、矢はバンダナ男へ吸い込まれるように飛んでいき、武器を落として肩を押さえながら水中に没した。
もうひとりの山賊はギデオンが放った弾が顔に飛び込み、霧のなかに消えた。
すぐに銃声がきこえて、一行のすぐ横の、青い布を結びつけた樹に鎖でつないだ二つ弾がぶつかった。
「こっちだ! こっちにいやがった!」
弾丸が次々と飛んできて、適当に撃ったにしては近すぎる水面が弾けていく。
気がつけば、ロランドは囚人を引っぱって、浮草の水路へと逃げ込んだ。
しばらく逃げると、銃声は遠くなったが、みな、またしても散り散りになり――そして、悪しき気配を近くに感じて、弓を捨てて、太腿にいつも縛りつけてある短剣を抜き、振り返った。
――†――†――†――
「うひゃあ! なんだ、こりゃ!」
「おお、成功したわ」
「ちょっと、出待ち幽霊! なにしてくれてるの!」
「いや、無防備に寝とったから、魂抜けるかなと思ってん」
「おまっ、ふざけんな」
「なんやねん。ちょっと幽霊になったくらいで。それに今なら女子の朝風呂覗きにいけるで」
「お前、そういうとこ、ほんと邪悪だな」
「乙女に邪悪とか言うもんやないで」
「百万年幽霊やってて、考えつくのが風呂の覗きかよ」
「百万年考えてるとな、倫理の歯車まわりまわって、そうなるねん。それに、うちはしょっちゅうやっとるで」
「うん。もうツッコミ入れるのもめんどくさい」
「そんなこと言うて、ほら、覗き、行きたいんやろ?」
「そりゃ行きたいさ。でも、それでバレたら、おれの体が消し飛んで帰る体がなくなってまう」
「意気地ないなあ」
――†――†――†――
「ストップ! 僕ですよ!」
そこにいたのはピストルを手に肩掛けカバンを抱えたギデオンだった。
「危ないなあ。それに僕だと分かってから止まらずに切りかかろうとしたでしょ」
「人間、たまには欲望に素直になったほうがいいこともある」
「それは誉め言葉ととっておきましょう。それで、先生はどこですか?」
「知らん。アストリットさんは?」
「知りませんね。それより、そこいらじゅう山賊だらけですよ。よっぽど酒場を焼かれたのが頭に来たんでしょうね」
「〈砂男〉もいないしな。とりあえずカラヴァルヴァは南にある。南に向かって歩くぞ」
「羅針盤は?」
「ない」
「どうやって南に歩くんです?」
「太陽の位置で分かる」
「霧がかかってるんですけど」
「任せろ。おれにいい案がある」
そう言ってロランドは近くに浮かんでいた棒を拾い上げると、一方を短剣で削り尖らせた。
「聖院騎士団ってバカの集まりなんですか?」
「なんでそんなこときく? アストリットさんがいたら、お前、ケツの穴から裏返しにされてるぞ」
「だって、明らかにその棒を尖らせて、宙に投げて、その矢印が示す方向を歩こうとしてますよね?」
「歴史と伝統に裏づけされた確かな方法だ」
「なんてこった。おれはこんなマヌケどもにパクられたのかよ」
「黙ってろ。でないと、山賊に売り飛ばすぞ――さあ、できた。じゃあ、空に投げるぞ」
ロランドは棒を投げた。
棒は霧に飲み込まれ、それっきり姿を消してしまった。
「安直な選択肢に頼ることに対し、大自然の采配を司る精霊の女神はお怒りのようですね」
「なんてこった。これじゃあ、どうやって進む道を決めたらいいんだ?」
「普通に樹木のどちら側に苔がついてるかとか、切株の年輪が大きめに開いてるほうとかに進めばいいじゃないですか」
「イヴェスはそんなことも教えてくれるのか?」
「まあ、先生は先生ですからね。でも、はあ、ため息をつかずにはいられませんよ」
「命がまだ体のなかにきちんと収まってて、進む道も決まったのに何嘆いてんだよ」
「来栖ミツルですよ。僕らがこんなふうに腰まで水に浸かって、削った棒に運命をゆだねそうになっているなか、彼は涼しい風が吹く部屋で冷たいミルクでも飲みながら、ふわふわたまごパンを食べている。そう思うだけで嫌になりますよ」
――†――†――†――
「おい、イスラントがぶくぶくぶくして倒れてるぞ」
「せやね。倒れてるイースくんもイケメンやわあ」
「イースって呼び名はジャックだけに許されてると思ってたがな」
「せやで」
「何をした?」
「別に大したことはしてへんよ。ただ、ポルターガイストでアンコウ吊るし切りにしようとしただけ」
「脅迫の才能がある。恐喝クルーに入るか?」
「うちはここの地縛霊になるって決めたんや。でも、シャンガレオンくん、きれいやしなあ」
「さらっと流したけど、アンコウさばけるの?」
「当たり前やろ。女子高生のたしなみやで」
「さっきも言ったが、ツッコミがめんどくさい。ところで、なんでイスラントは倒れてるんだ? まわりに血はあるか?」
「血はないけど、マグロならあるで」
「ここに線路はないぞ」
「そっちのマグロやあらへん。ほら、特上本マグロのお刺身があるで。タンポポまで添えて」
「食用菊だ。しかし、イスラントの野郎、まさかマグロの赤身もダメなのか?」
「なんで、こないな朝っぱらからマグロがカウンターに置いてあるのん?」
「おれのほうがききたいわ。まあ、大方トキマルあたりだろう」
「妹ちゃんかわええな。妹ちゃんの前でキリっとするトキマルくんもかわええな」
「あいつ、もうすぐ爆発するんじゃないか? 朝一で洋風のバーのカウンターで特上本マグロをワサビも醤油もなしで食べようなんて、正気の沙汰じゃないだろ」
「つまり、ヤンデレになるかもしれへんちゅうこった。ウチはそれでもええで」
――†――†――†――
「逃げろ! っていうより、泳げ!」
「おれは縛られてるんだぞ!」
「赤ワイン通りのルーヴァ銀行の裏手に縛られたままの泳ぎ方を教えてくれるおじいさんがいます。とはいえ、いまとなっては手遅れですけどね」
「おい、聖院騎士! このガキ、すげえ性格悪いぞ!」
「知ってる! っていうより、泳げ!」
「だから、おれは縛られてるんだって!」
生死のかかる場面において――たとえば腰まで水に浸かってうまく歩けない状態でカヌーに乗った山賊に追いかけられるような場面において、必要が創造の才を刺激することがある。
まるで選ばれし民のようにスバラシイ発想が空から降ってきて、そのおかげで昼寝しているウナギと割れた桶で戦列艦をつくり形勢逆転するのだ。
ところがロランドたちは選ばれなかったようでカヌーで追ってくる山賊に対して、いまだ徒歩で逃げていた。
もし来栖ミツルが追われていれば、よく分からないうちに戦列艦が登場して追手を吹き飛ばし、しかも違法な利権からピンハネをして誰もそれに文句を言わない状態を築き上げるに違いないと考えると囚人はともかく司法サイドで働いているロランドは正義を良しとしない大自然の采配に文句のひとつも言いたくなった。
――†――†――†――
「そういえば、おれ、おっぱい利権をゲットしたんだ」
「気色悪っ」
「別に揉むわけじゃない。売春じゃないんだ」
「じゃあ、なんやねん」
「母乳を扱う――おい、軽蔑するような目でみるんじゃない。だいたい、おれが飲むんじゃないんだ。いいか? この世界には乳母制度がある。それなりに裕福な家の女には子どもは欲しいけど、子育てをしたくないってのがたくさんいる。それになぜか自分の母乳で育てるのは下級市民のやることって偏見もある。そんなわけで赤ちゃんにオッパイをあげられる女はその母乳を中産階級以上の家の赤ん坊に飲ませて、結構なカネを取ることができる。ただ、売春じゃなくともオッパイが絡めば悪いヒモがあらわれる。ビンタされて稼ぎのほとんどをとられることもザラだ。それでおれはそういう悪い連中に代わって、乳母と良家の赤ちゃんのあいだを仲介し、ヒモ野郎よりずっと安い仲介料で、ヒモ野郎よりもずっと広い人脈をもとにいい家を紹介する」
「それって搾乳やん」
「おい搾取と呼べ。変態プレイしてるみたいじゃねえか。言っておくが、おれがつくった仲介所は清潔で快適な待合所なんだぞ。それに乳母たちだって、おれにとられた仲介料の二倍も三倍も母親からふんだくる。栄養価の高い乳を出すためにケーキを食わせろとか、何の関係もないのに貴金属をねだったりとか。それに貴族の乳母とかになれれば、大切な跡取りを育てる乳にカネを惜しまない。非常に高名で権力もある侯爵が自分の名前も書けない農家の女にへいこらして、ご機嫌を取っている現場を見たことがある。赤ん坊ってのは一度慣れ親しんだら、その母乳以外飲まない。そうとなったら、何が何でも乳母のご機嫌を損ねてはいかん。千年の家系が途切れてしまうかもしれないからだ。というわけで、乳母はひとりオッパイやれば、今度は自分が乳母を雇う立場になるってわけよ」
「オッパイさまさまやな」
「だな。これからこの国の貴族たちは子どもがオギャアするたびに、おれのところに『おい、上等なオッパイを頼む』って言ってくるわけよ。ところでさっきから頭のなかに装甲巡洋艦シャルンホルストの勇姿がちらちら浮かぶんだが、これ、オッパイの話と関係あるのかな?」
――†――†――†――
普段なら武装商船の甲板に取りつけられる青銅の後装式霰弾砲、通称、皆殺し砲が手漕ぎボートの舳先から発射され、山賊たちをカヌーごとバラバラに刻む。
青銅の砲尾を取り外し、装填済みのものと変えること三回で山賊たちは慌てて引き返し、火砲付きボートに乗った〈聖アンジュリンの子ら〉があらわれた。
既に別の船がアストリットとイヴェスを回収しているとのことだった。
「よく、ここが分かりましたね」
そうロランドがたずねると、ロジスラスは、
「礼なら〈砂男〉に言え。帰還途中にやつを見つけて、追ってみたら、山賊たちがこのボートでお前たちをバラバラにすると言っている現場に出くわした。やつ自身は見事雲隠れしたがな。正直、隊に勧誘することを真剣に考える水準だ」
ポルフィリオ・ケレルマン派(ポルフィリスタ)
ポルフィリオ・ケレルマン
†ミゲル・ディ・ニコロ 9/9 殺害
パスクアル・ミラベッラ
ディエゴ・ナルバエス
†ルドルフ・エスポジト 9/8 殺害
ガスパル・トリンチアーニ
†アニエロ・スカッコ 9/12 殺害
ピノ・スカッコ
フランシスコ・ディ・シラクーザ派(フランキスタ)
フランシスコ・ディ・シラクーザ
バジーリオ・コルベック
バティスタ・ランフランコ
†サルヴァトーレ・カステロ 9/7 殺害
†アーヴィング・サロス 9/13 殺害
アウレリアノ・カラ=ラルガ
ロベルト・ポラッチャ
〈鍵〉の盗賊ギルド
〈砂男〉カルロス・ザルコーネ
†〈キツネ〉ナサーリオ・ザッロ 9/3 殺害




