第九話 司法/ラケッティア/スケッチ、九月八日。
それは魚が水の底で話しているみたいだった。
――近ごろじゃ、どこの家も自家製エールにホップを入れるんですよ。それを何て呼んでいるか知っていますか? ビールですよ、ビール。
――ホップを入れないと味がないだろうが。
――僕が思うに人類の堕落は醸造中のエールにホップの花を入れたときから始まったんです。
――また始まった。
――あらゆる悪徳がホップの花に込められています。
この声は〈聖アンジュリンの子ら〉の三羽烏のうち、結婚していないほうのふたり、ルイゾン、トレゼリのものらしい。
ルイゾンは聖院騎士団の組織にいながら、ホップ入りエールについての大胆な神学を披露し始めていた。
――まずホップはイラクサに似ています。カラマス写本の外典第九章の第三十二節ではクラマドアの住民が悪徳をおかすわけですが、このときに飲んでいた酒は樽にイラクサを詰めた袋を投げ込んで味をつけたもの、イラクサ入りのエールであり、それすなわちホップ入りのエールなんです。
――ホップの何がそんなにいけないんだよ?
――エールの持つ本来の素朴な味を殺しています。
――エールの味なんて麦芽を醸造所から買った時点で決まってるだろうが。
――待ってください、トレゼリ。きみは大麦を自分で発芽もさせず煎ることもせず、よそから買って、それで趣味はエール造りだと言うんですか?
――いいだろ、別に。
――これですよ。ホップが人間を堕落させた生きた証明です。
イリーナの意識が戻ると、急に自分にかけられた毛布の重さが感じられ、水のなかを浮いている感覚は消え去り、医務室を講堂に行われていたエール神学の論争も終了した。
「イリーナ! 気がついたんですね!」
「わたしは……」
「動くな。おれたちが来たときにはお前、ほんとに死んじまったみたいだった。何があったか、覚えてるか?」
「……それは……ポルフィリオ、そうだ。ポルフィリオ・ケレルマンが逃げた」
「ああ。やつは逃げおおせた。いま、隊長が探してる。そろそろ様子を見に戻りに来るはずだ」
「わたしは、どのくらい気を失っていたの?」
「ちょうど一日だ」
「そんなに――」
「医務官は三日間は目が覚めないって言ってたんですよ。待っていてください。隊長を呼んできます」
やってきたロジスラスは剣をつけたベルトを片手に下げていて、医務室に入ると、ふたりだけで話がしたいといい、そばのテーブルに剣をベルトを置いた。
「隊長、あの――」
だが、ロジスラスはイリーナの言葉を遮るように言う。
「銃をもったふたり以上の賊に対する対処法は?」
「下手に刺激せず、そのまま……逃がし、隠密裏に追跡、潜伏場所を確認し応援を待つ、です」
「そうだ。クルス・ファミリーの剣士がいなければ、お前もイヴリーも一緒に死んでいたかもしれん」
「……申し訳ありません」
「イリーナ」
「……はい」
ロジスラスの表情が、ふ、と緩む。
「無事でよかった。本当に……」
そう言われたイリーナは照れと嬉しさで赤くなる顔を隠そうと布団を顔まで引き上げた。
そして、顔の赤みが引いたと思ったところで布団から顔を出した。
「隊長。現在の状況は?」
「最悪の事態だ。ケレルマン商会は完全にふたつに分かれて、お互いをつけ狙い、イヴェス判事がポルフィリオ・ケレルマンを血眼になって追っている。そして、クルス・ファミリーは自分たちの身内の前で行われた殺人を許さず、ポルフィリオを探している。だが、いまのところポルフィリオは見つかっていない。手がかりすらない。イヴェス判事は確かな線を握っているというが、やつは守られていて、隠れ家を転々としている――くそっ、分かっている。この事態の責任はわたしにある」
悔しそうに拳を握るロジスラスにそんなことはないとイリーナが言う。
「我々が遂行した任務は正しいものでした。ガエタノ・ケレルマンは明らかに一線を越えていました」
「こうなることも予測はできていたはずだった。慢心したとしか言いようがない」
「そう、隊長が思うのでしたら――我々の手で終結させましょう」
「……そうだな。つまらないところを見せた」
「いえ」
こういう一面を見せてくれるのは自分を認めてくれているからだ、とイリーナは誇らしくなる。
「すぐにでも復帰したいのですが――」
「医務官は後一日安静にしているように言っている。いまは回復に専念しろ」
「はい」
――†――†――†――
「ポルフィリオ・ケレルマンのクソヤロー。こっちが用意してやった小切手を最悪の形で振り出しやがって。耳のコレクション? まさに山賊の手口だな。身代金を出し渋られたとき、しょっちゅう耳を切り落としてるから、あいつらにとっちゃ、耳ってのは豆からもやしをひっこぬくくらいに簡単に行われる、そう、いとも簡単に行われるえげつない行為ってわけだ。ロムノス。その場にポルフィリオ・ケレルマンはいたんだよな」
「その通りだ。王よ。だが、地下水路へと逃げた」
「ドブネズミにお似合いだ。カールのとっつぁん、殺し屋どもの身元は?」
「部外者だ。ケレルマンの身内じゃない。腕のいい連中で、殺しだけじゃなく、今回みたいに護衛もやる。おそらく、ポルフィリスタはその三人だけでやらせるつもりだったんだろう。しくじったら切り捨てられるように。が、ポルフィリオが無理やりついていった。その結果があれだ。カステロを狙うなら帰り道でもどこでもできたはずなのに、よりによって〈金塊亭〉で大勢の目の前でやった。疫病神だよ。トラブルを呼び込んで楽しんでいるとしか思えん」
「やつら、カンパニーとつるんでるのか?」
「それはないな。カンパニーの特別使節らしい男の死体が戦車競技場の外れの原っぱで見つかった。後ろ手に縛られて、箱のなかに押し込められていたが、右の耳が削ぎ落されていたそうだ」
「それにしても〈砂男〉はどこに行ったんだろうなあ。〈キツネ〉が殺られたことを頭に来ているのは間違いないけど、完全に雲隠れだ」
――†――†――†――
その深夜、おそらくカラヴァルヴァの住民の半分がその居所を探している〈砂男〉のカルロス・ザルコーネはロデリク・デ・レオン街の外れにある路地裏でルドルフ・エスポジトのみぞおちに深々と包丁を突き立てていた。
ポルフィリオの警告を無視して愛人に会いにいったのだ。
包丁はしっかり柄が触れるまで刺されていて、ルドルフは顔を蒼白にさせて額から冷たい汗をだらだらと流しながら、口を酸欠の魚みたいにパクパクさせていた。
「どうした、ルドルフ。体の調子でも悪そうだな。せっかくのハンサムな顔が台無しだぞ」
〈砂男〉は首を少し傾けて、つい今さっき自分が刺した包丁を眺めた。
「ああ。これか? 抜いてやるよ」
しっかりと柄をつかみ、ぐっと押し込むと、ルドルフはそのまま小刻みに下がり、壁に背がぶつかった。
〈砂男〉は刃をねじると、そのまま〈キツネ〉の仇の腹を横に裂いた。
「どうだ? ちっとは感じるか? お前みたいな人でなしでも痛みは感じるのかよ?」
包丁を抜くと、洒落たシャツに怪物の口みたいな傷が開き、どろどろと内臓が流れ出て、屠殺場じみたにおいが濃く湧き出した。ルドルフは倒れて目を剥いて激しく痙攣を始めている。
パリンと何かガラス細工が割れる音がして、振り向くと、階段を昇った先の戸口にルドルフの愛人が手で口を押えて、ぶるぶる震えながら立っていた。
〈砂男〉は帽子の縁に触れて、挨拶すると、そのまま夜の闇に消えていった。
ポルフィリオ・ケレルマン派(ポルフィリスタ)
ポルフィリオ・ケレルマン
ミゲル・ディ・ニコロ
パスクアル・ミラベッラ
ディエゴ・ナルバエス
†ルドルフ・エスポジト 9/8 殺害 【New!!】
ガスパル・トリンチアーニ
アニエロ・スカッコ
ピノ・スカッコ
フランシスコ・ディ・シラクーザ派(フランキスタ)
フランシスコ・ディ・シラクーザ
バジーリオ・コルベック
バティスタ・ランフランコ
†サルヴァトーレ・カステロ 9/7 殺害
アーヴィング・サロス
アウレリアノ・カラ=ラルガ
ロベルト・ポラッチャ
〈鍵〉の盗賊ギルド
〈砂男〉カルロス・ザルコーネ
†〈キツネ〉ナサーリオ・ザッロ 9/3 殺害




