第七十四話 ラケッティア、イスラント・レスキュー。
女シンガーソングライターは失業を歌い、元警官は安い酒で肝臓をいじめ抜き、酒場のオヤジはスラヴ系ギャングに渡す薄っぺらい封筒に百ドル札を三枚入れる。
吊り下げられたテレビではジャックとイスラントが戦っていて、ヘル・ブリザードで凍った床に足滑らせて、頭を打ったおれがくるくる目をまわしている。
海外ドラマにある『ワハハハハ』のサウンド・エフェクト付き。ご丁寧にどーも。
カルリエドはカメラの存在に気づいたのか、満面の笑みで手をふっている。
シップの幻影はイスラントに干渉できないことをもどかしく思っているのか、本体を呼び出そうとしている。
ギル・ローと出待ち幽霊の姿は見えないが、たぶん無事だろう。
狂気や偏執がそいつを守ってくれる事例だってわずかながら存在してるんだ。
そして、クールとかスマートと言った特質がそいつを苛む事例も存在している。
黒い手袋に白のワイシャツ、スラックス姿のイスラントは手錠でポールに繋がれて、うなだれていた。
酒場でポールというとストリップだが、このポールはステージにあるわけでもないし、ストリッパーの楽屋につながる、あの魅惑の緞帳もない。
天井に穴が開いているわけでもないので消防士マニアというわけでもない。
このポールはただイスラントを束縛するために存在している。
近寄ると、顔を上げ、「きみか」とつぶやいた。
「おれで悪かったな。ジャックに来てほしかったか?」
「ふん」
おれはイスラントの隣に座り、テレビを見上げた。
ジャックが紙一重で氷の刃をかわし、かんぐり、かいくぐり、剣を叩き落そうとするが、なかなかうまくいかない。
「なあ、イスラント。テレビのなかのお前、なかなか善戦してるじゃんか」、
「……当然だ。おれは暗殺者だぞ。……これまでがありえなかったのだ。本当はああであるべきだったのだ」
イスラントはまたうつむいた。
「期待をくじくようで悪いけど、ジャックはあんたのこと、殺さないよ。たぶん、自分が殺されるほうに傾く。ジャックの自己犠牲癖はなかなか抜けない。大切な人を傷つけるくらいなら、自分が傷つくほうを選ぶんだよ。もちろん、ジャックがいなくなったら、おれとギル・ローじゃ丸腰同然だけど、カルリエドがいるからな。本物の上級魔族らしいカルリエドが見られるかもしれん。これが怖い。ジャックの自己犠牲はがむしゃらじゃなくて、計算がされている。自分が死んでも大丈夫だと考えた上で自己犠牲する。そういうやつは本当に死んじまう」
いつの間にか手のなかにあったバカルディのストレートをちょっと口にする。
「あのね。怒ってヘル・ブリザードぶちこまないでほしいけど、あんたとジャック、よく似てるよ。こうやって自己犠牲に憧れるとことか」
「おれは別にそんなこと考えていない」
「この場末の酒場じゃみんなが正直になる。かすれた声で歌う女や安酒に溺れる元警官なんてのはどうしようもなくこの世界に正直になっちまう」
「おれは暗殺者だ。ヨハネは殺すべき敵だ」
「あの主教って野郎はたぶんいけ好かないクズなんだろうが、ひとつ正しいことを言っていた。やつはあんたの正直な気持ちを増幅させた」
「おれは――」
「正直な気持ちはもう葛藤は十分だからケリをつけたいってこと」
「……」
「それも自分が死ぬほうに賭けてる。組織を抜けてきてるんだろ?」
「……くっ……くそっ……くそっ! くそっ! くそぉ!」
握りしめた拳から真っ赤な血がひと筋流れ出す。
幸先がいい。血を見ても泡を吹かないのも正直な望みのひとつなのだ。
「……できるわけがないだろう。ヨハネ……どうして……」
誰かがテレビのチャンネルを変えた。
ドナルド・トランプがメキシコ国境に塀をつくると勇んでいる。
女シンガーソングライターはヘロインで仕事も友だちもなくしたと歌っている。
「ここを出るぞ」
「無理だ。おれは自分でこの手錠をかけた。おれが死んで消えてなくなるまで、この手錠は外れることはない」
おれはウッドロー・ウィルソンの100000ドル札を取り出して、ノコギリみたいに動かしてみたが、手錠の鎖は当然切れない。
まあ、100000ドルも万能じゃあないってことだ。ノコギリのかわりにはならないし、100001ドルの商品は買えない。何より、これは個人で使える札じゃない。連邦準備銀行と連邦政府しか使えない金貨証券だ。
じゃあ、なんでフレイを連れ出すときは使えたんだと言うと、まあ、普通に骨董価値がついてて、額面以上の値段になっているからだろう。
さて、どうしたものかと思っていたら、いかついスーツにいかつい開襟シャツ、いかつい金の指輪をした男が携帯電話でスラヴ系言語をまき散らしながら入ってきた。
クラビッチとかパーヴェル・スミガイロフって名前っぽいそのギャングは携帯を切ると、辛気臭い酒場を通り抜け、カウンターのオヤジに指を一本立てた。
ウォッカベルト出身のギャングは出されたオヤジが滑らせる封筒をろくに見もせず、ウォッカをじっと見つめた。
レイカーズのキャップをかぶり白い外科手術用の手袋をした手に九ミリを握った若い男が店に入るなり、カウンターまで歩いていき、スラヴ人の頭を撃ち抜いた。
オヤジはカウンターの後ろに伏せ、元警官はグラスを持って裏口に逃げ、女歌手はのろのろとステージの端に引っ込むと、ポケットのなかのヘロインの包みを安物のカーペットの下に隠し始めた。
おれはというと、立ち上がり、たったいま目撃した殺人の現場から犯人が捨てた九ミリを拾って、イスラントの手錠の鎖を撃ち砕いた。
「確かに、このスラヴ系のギャングにみかじめを払ってるこの酒場じゃ主教の考えていた以上のことはきけない。ほら、行くぞ」
「ダメだ。おれは――」
「ギャング殺しの凶器に指紋残すまでしたんだ。うだうだ言わずついてこい」
――†――†――†――
「うーん」
目を覚ますと、錆びた粉が降ってきて、ちょうど口のなかに入ってきた。
「げえっ! ぺっ、ぺっ」
起き上がる。頭にたんこぶ。
そうだ。ヘル・ブリザードを避けたはよかったが、ツルツルに凍った床で滑って、相変わらずいかがわしい店が並ぶ場末の街でストリップ・クラブと深夜営業のドラックストアのネオンに挟まれた狭い通りの奥にある秘密のバーにイスラントを押し込んで、そうしたら、目が覚めた。
「あ、来栖さんが起きましたよ!」
「ヘイ、シップ。現状報告プリーズ」
「イスラントさんの洗脳が解けました!」
「それはよかった。でも、どうやって?」
「なに謙遜しているんですか。来栖さんが目覚めさせたんですよ!」
「え、どんなふうに」
「それが、なんだか不思議な、えーと」
「カルリエドが説明代わるんよー。ヒューマンのブラッダ、クールマンのブラッダにばびゅばびゅーん!して、ずだだだーん!のどんがらがっしゃん、ぽっぴー!な――」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。意味が分からないけど、でも、ひとつだけ分かったんだけど、おれ、どんがらがっしゃん、ちゅっどーん!したの?」
「ちゅっどーん!じゃないだや。ぽっぴー!だや。まじサタンな話。それよりヒューマンのブラッダ。グッド・ストーリーとバッド・ストーリーがあるんよ。どっちをきくん?」
「じゃあ、グッド・ストーリーから」
「クールマンのブラッダ、取り戻したんよ。ヒューマンのブラッダのおかげだや」
見れば、意識を失ったイスラントをジャックが抱きかかえ、ゆっくり床に寝かせている。
「んー、バッド・ストーリーは?」
「バッド・ストーリーあれだや」
カルリエドの指が差した先にはかなり巨大なペイズリー柄の醜い肉塊から体に比較して細い、歪な手足が伸び、ごわごわした毛がまばらに生えている。
あれは皇帝だという。正確にはだったか。
ギル・ローが説明をかわっていうには、
「もはや星の制圧などどうでもいい。フレイアの力はこれらの〈剣〉からいくらでも引き出せる。国家は必要ない。臣民も必要ない。軍も必要ない。帝国とはただひとつ、余こそが帝国! 余こそが至高の存在なのだ!」
と、調子づいて〈剣〉の力で神になろうとするも、化け物に。
剣は星々から力を吸い出すが、一度フレイアをよみがえらせれば、フレイアの力が流れ込むパワースポットになる。皇帝の最後をユーチューブで生配信すれば、パワースポットブームもしぼむだろう。そのくらいひどい死にざまだ。
「あーあ。やっぱりそうなりますか」
主教、と呼ばれたローブの男がククっと笑う。
「〈剣〉は無限に水が湧く泉。それを普通の胃袋しか持ち合わせていない凡人がひと息に飲み込もうとすれば、破裂は当たり前。そのくらいのことは気づいてもよさそうなものですけどね」
声はガラガラに枯れた老人のものだが、言葉遣いが幼くなっている。
その細い指がフードの端をつまんで後ろに流し、顔があらわになる。




