第五十二話 アサシン、リサークの場合。
リサークが浮浪者たちをまとめて壁の清掃会社をつくった翌日、五つの街区の目抜き通りや広場に『レジスタンス万歳』『皇帝くたばれ』の落書きが書かれるようになった。
皇帝は犯人を見つけて極刑に処せと命じたが、犯人はまるで幽霊のようにあらわれ、そして消えていく。現場に『打倒! 帝国!』の落書きを残して。
帝都清掃局は必死になって落書きを消したが、消したら二倍になって返ってくる。
見張りの兵士がいても、次の朝になれば、薬で眠らされた兵士が横になり、ますます大胆になっていく落書きが残されるのだ。
皇帝は激怒して、兵士を拷問にかけ、帝都清掃局の長官を処刑した。
帝都の兵士たちは勝手な税を設定して人びとから金品を気ままにまきあげていたため、市民の同情はなく、協力も得られず、落書きの監視に当てられた兵士は己の不幸を嘆くしかなかった。
クルスミツル・クリーン・カンパニーがあらわれるまでは。
ある夜、自分が見張っていた壁にちょっと目を離した隙に『皇帝くたばれ』の落書きをされた兵士が絶望して突っ立っていると、そこには掃除道具と浮浪者たちを率いたフェルディナン・リサークがいるのだった。
クルスミツル・クリーン・カンパニーは朝までに落書きを消してくれて、おかげで兵士は殺されずに済んだ。
いつしか、見張り兵のあいだでクルスミツル・クリーン・カンパニーのことが知れ渡った。
しかもクルスミツル・クリーン・カンパニーが使う洗剤は特殊な洗剤で落書きが二倍になって返ってくることのない特注品の洗剤だということで、兵士たちは落書きが消えた後も安心して寝ていられた。
そのうち、クルスミツル・クリーン・カンパニーのことは帝都清掃局の長官の耳にまで入り、大口の清掃契約を結ぶことができた。
……もちろん、落書きの真の犯人はこのクルスミツル・クリーン・カンパニーで、これはただのマッチポンプだと思うものもいた。
帝都内務局の三人の密偵にクルスミツル・クリーン・カンパニーを調べよという密命が下った。
三人は帝都の貧民街奥深くに侵入したのだが、三人とも消息を絶った。ひとりだけ見つかったが、ぶよぶよの腐乱死体となって上級臣民居住区のどぶ川を塞いで、感じやすい上級臣民には耐え難い悪臭をばら撒いた。
ある役人はクルスミツル・クリーン・カンパニーが正式な起業許可を得た会社かどうか調べようと資料室に入ったが、倒れてきた本棚の下敷きになった。
もっと行動的でもっと高い位置にあった役人は自身の権限でクルスミツル・クリーン・カンパニーの営業停止をするための書状を書こうと、鉄製のペンを手に取ったが、秘書官が少し目を離したあいだに、そのペンが役人の喉に深々と突き刺さり、天井まで血が飛び散っている有様だった。
結局、落書きを消す犯人を見つけることはできず、かといって落書きをそのままにすれば皇帝に殺されるので、結果として関係者全員はクルスミツル・クリーン・カンパニーを使うしかない。
それが分かり始めたあたりから、クルスミツル・クリーン・カンパニーの清掃代金は二倍になったが、それに抗えるものはいなかった。
「だが、危険を冒して書いたレジスタンスのスローガンを消してしまうのは――」
ヴィクターが困った顔で言ったが、リサークは、
「どのみちスローガンが消されることは防げません。それなら、そこから軍資金を得たほうがずっといいでしょう? それにここ最近、スローガンは消されながらも、みなに注目されています。それよりわたしに話があったのでは?」
「レジスタンスに志願したものがふたりいる」
「それは景気がいい」
「残念ながらふたりとも密偵だ」
「それは残念」
「ただ、まだ確証を持てるだけのものはつかめていない」
「でも、九割間違いないのであれば、消しても問題ないのでは――ああ、リギッタさんが許しませんね。わかりました。わたしが探りを入れてみましょう。ただ、完全に黒と分かった時点で殺しますからね。そろそろ誰か殺さないと、わたしも腕がなまりそうですし」
――†――†――†――
ふたりの密偵とは魔導列車の高架下にある国営酒場で出会った。
列車が通るたびに店じゅうのグラスや陶器がぐらぐら揺れ、レールと車輪の悲鳴が耳を聾するほどにうるさい。
密偵はふたりとも戦線帰りの元兵士だといい、帝国のために戦うのにうんざりして、多くの民衆を救うための闘いに身を投じたいというありきたりな、だが説得力のあることを言ってきた。
ただ、前線で兵士をしていた割には手がきれいだ。きれいすぎた。
話していくうちにだんだん分かってきたのは、帝国側がレジスタンスに入ろうとしているのはレジスタンスについて調べるというよりもクルスミツル・クリーン・カンパニーについて調べるためだということだった。
白い脂のかたまりが小皿の上で燃え、やかましい列車の通過音ががなり立てるたびに、脂はぷるぷるふるえて、スパイの影が飛び散らかす。
「大声じゃ言えないが、レジスタンスの闘士に乾杯!」
「乾杯!」
ひどい味の酒を飲みながら、リサークはベルトに挟んだ小瓶をさりげなく見せた。
小瓶には丸めた紙が入っていて、ピンを刺したコルク栓で塞がれている。
これで相手に少し冷や汗を流させるのと同時に、彼らが追っている筋が間違いないものだと思わせる。
「さあ、飲んでくれ。あんたに奢りたくてしょうがないんだ」
「それはどうも。ありがとうございます」
立て続けの杯に、リサークはにこりと笑った。
――†――†――†――
一時間後、リサークはみっともない姿を公衆の面前に晒しながら、ふたりのスパイに両肩を借りて、想いをぶちまけた。
「あっははははは。それで、わたしはぁ、ずうっと恋心を抱いているんですよぉ」
「そりゃ傑作だ。あんた、そいつに貢ぐためにあの落書き消しの会社をつくったのかい?」
「ミツグじゃありませんー。ミツルですー。わたしは本気です。本気と書いて、マジと読むんですよぉ~」
リサークは左に大きくよろめき、三人はゴミ缶を蹴飛ばし、養殖場から逃げてきた食用虫を驚かせた。リサークはそのまま横になり、もう歩きたくありませんー、と口をとがらせるのをふたりのスパイが引っぱり上げてなんとか立たせた。
「さあ、歩けよ。兄弟。兄弟って呼んでもいいよな」
「うーん。まあ、いいでしょう。さあ、兄弟、わたしを――わたし――わたし、なんだっけ?」
スパイふたりはリサークを人気のない場所へ連れ出した。
安っぽい廃墟が四辺を囲む中庭で、その上を魔導列車が走っている。高架線の鉄柱は無造作に中庭を貫き、スパイたちはそのうちの一本にリサークを立てかけた。
「さあ、兄弟。ここでじっとしてろ。そのうち気分もよくなるさ」
スパイのうちの大柄なほうが小柄なほうを引っぱって、中庭の隅へと引っ込んだ。
「おい、こいつはすごい手柄だ。あいつ、落書きの犯人だぞ」
「だが、ドネルン。そうだとしたら、生け捕りにしないといけないんじゃないか?」
「バカ言うな。とんでもない殺人術の達人なんだぞ」
その殺人術の達人はコウモリを見つけて、ちょうちょちょうちょと手を伸ばしている。
大柄なスパイ――ドネルンはリサークが見せびらかしていた小さな壜を取り出した。
「爆弾は取り上げてある。しかも、あそこまで酔っ払ってる。いまなら簡単だ。殺して連れてきゃ、大手柄。おれたちは三階級特進だ」
「それはおめでとうございます」
低めの穏やかな声がして、ハッとする。
鉄柱によりかけた酔漢はいまはシラフのように真っ直ぐ立ち、ウェティアから借りた雷管装着済みのリヴォルヴァーをふたりに向けていた。
「演技に骨が折れました。正直、バルブーフ産の火酒と比べれば、ここのお酒は水同然です」
リサークがにこりと笑う。
時間が凍りついたが、携帯用クロスボウを先に抜いたのは小柄なスパイのほうだった。
六角形の銃身から燃える雲が吹き出し、小柄なスパイの額に穴を穿つ。
ドネルンは小瓶のピンを抜いて、リサークに投げつけた。
リサークが撃った弾はドネルンの腹に入り、すい臓を破って、肋骨にぶつかって破裂した。
リサークは足元の小瓶を拾い、コルク栓を抜くと、バルブーフのに伝わる三行詩を書いた紙を抜いて、ポケットに入れた。
ドネルンが這いずって逃げようとしている。
リサークが近寄ると、かすれた声で、助けてくれ、兄弟、ときこえてくる。
リサークは微笑んだが、それはひいき目に見ても慈悲の垣間見えない、人としての大切なものが欠落したものだった。
「それでは、兄弟。おやすみなさい、よい夢を」
頭上を魔導列車が通り過ぎた瞬間、リサークはドネルンの頭に一発撃ち込んだ。




