秘密が繋ぐ家族の絆
動乱の夜を朝日が切り裂き、新しい日が始まった。闇に満ち、悲痛な炎が踊る夜空も去った。
"堕天者"は捕らえられた。最強の敵との戦いも終わり、待ち望んだ夜明けを迎えたというのに、皆の心が晴れることはなかった。
「私……」
研究所の一室にて、エイプルは沈黙に耐えきれず、思いをこぼす。
「……私、取り返しのつかないことを、するところだった……ごめんなさい。ごめん、なさい……メイちゃん、ジュディちゃん、オーガスタちゃん…………オータム先生」
「もうやめてちょうだい、エイプル。もうすべて終わったのよ。わからないこと、不安なことはたくさんあるけれど、昨夜より酷くなることはもうないわ。今はただ……博士の調査が終わるのを待ちましょう」
「……私のことも、気にしないでください。あの夜……一番辛かったのは、エイプルさんなんですから」
「そうっすよ。ウェザーくんも順調に回復してるみたいで何よりっす。ビーノも心配して、今もべったりくっついてて……」
話の途中で扉が開き、博士と、その介添えを務めたエイプルの母、ハナが出てきた。少女たちは弾かれたように駆け寄る。
昨夜の戦いによって崩壊しかけた機体をそのままに、博士は堕天者……否、オータムを研究所へ運び、その身を調べていた。
皆は博士を囲み、説明の言葉を待った。
一刻も早く真相が知りたかった。"彼"は、どういう存在なのか?
「オータム先生には、しばらく眠ってもらうことにしたよ。いずれにせよ、記憶と力を安定させないと調査は進まない」
「博士……堕天者は、先生が獣に変異した姿……だったんですか?」
「ちょっと複雑な事情があるみたいだけど、そういう変化があったことは確実だね。この町に赴任する前、オータム先生は軍属の教官を務めていた。その時期……自分の生徒たちとともに、獣に襲われたことがあるそうだよ」
その時、彼の身に何があって、どうして自分たちを襲うようになったのか……さらに問いかけようとしたエイプルだが、博士がよろめき、倒れそうになるのを見て動きを止めた。
「そこまで損壊すれば行動に支障が出るみたいね。まだ研究を続けるんなら、機体を直すか、次のを出したほうがいいわ……ねえ、みんなは一度出直しましょう。心配しなくても、彼はまだ常識ある方の不死者だから、知りたいことは責任もって教えてくれるでしょう」
ハナはふらつく博士を支え、壁にもたせかけた。心配そうな四人に笑いかけて、解散を告げる。
知りたい全ては語られなかったが、今の博士にこれ以上、無理はさせられない。ハナは博士を機体の修復場所に連れていくようだ。
母を待つように、最後尾を歩いていたエイプルの耳にだけ、彼らの話の一部が届く。
「あなたともあろう者が、どうして情報を持たないの? だって、こんなことができるのって……」
「そうだね……彼は半人半獣、言うなれば合成獣だ。そんな存在を生み出せるのは、この世界で"僕"しかいないだろう」
◇ ◇ ◇
エイプルの帰宅を寝ずに待っていたオリバーは、愛娘とずっと消息不明だった伴侶が、ともに帰ってきたことに驚愕した。朝帰りを叱るための説教は吹き飛び、迎え入れる言葉もなく、二人を力強く抱きしめる。
二年ぶりの一家団欒だ。
「……さて、何から話せばいいことやら」
エイプルから疑惑と不信の雰囲気を感じ取ったオリバー。妻のハナも、重々しく頷いているのを見て、察した。ついに家族の秘密を話す時だと。
「ねえ、正直に答えて……お母さんは、本当はどんな人なの? 護衛のお仕事だって嘘ついて、私たちを置いて町の外で暮らしていたの?」
「その質問に答える前に、エイプルは"冒険者"って人たちのことを知っているか?」
「……ちょっとだけなら。普通の人にはできない、とっても難しい依頼をこなす人たちでしょ? "黒き獣たち"が世界中で暴れていた時に、大活躍したんだって」
「そうよ。でも、大人になったらもっと詳しく知ることになるかもしれないわね。冒険者は世界のどの国、どの法にも従さない組織。永遠に中立を保つため、多くの秘密を抱えている……私も、その一員」
「秘密組織で働いているから、私に何も話してくれなかったの? 何年も家を空けたっていうの!?」
「わかってくれ、エイプル。本来なら、冒険者は家族を持つことすら禁止されているんだ」
事情があるとはいえ、母と離れ、寂しく過ごした過去は拭いがたい。詰問しかけるエイプルを父のオリバーは止め、代わりに"ある話"を語り始めた。
"冒険者"になれる人物はごく限られている。
この秘密結社の門を潜れるのは、高い実力を持つ者だけでなく、身分を秘匿しなければならない者たちも含まれる。
追放された魔術師。禁忌を知り、命を狙われた技術者。処刑されたはずの英雄。
無実有実問わず生存を許されなかった人物。世間から排斥され迫害されてもなお、人々のために自身の力を尽くしたい……そのような存在に声がかかる。
世界各地で囁かれる、ある噂。
大戦で活躍するも、罪を着せられ火刑に処された悲劇の英雄。その人物は今でも生きていて、冒険者として名を隠し、平和のために剣を振るっているのだと。
民衆から親しまれた英雄が、非業の最期を遂げるのは悲しい。その感情が、冒険者という秘密多き組織に希望を重ね、そのような話が広まったのだと人々は受け取っている。
しかし、それが事実だとしたら?
絶えたはずの罪人の血、国を恨んだ戦士が生き続けていることを、良しとしない者たちは多い。
世界も、当人も平穏を得るために、秘密を語ってはならない。正体を明かしてはならない。たとえ、愛する者ができたとしても、家族をつくってはならない……
冒険者としての活動は危険のものばかりだ。世界大戦の予防、大規模範囲の災害対処、聖泉の民たちの動向捕捉、この世で七人いる不死者の監視……
命をかけて依頼を遂行する彼ら。互いの過去や正体を知らずとも、感情ある以上、仲間を大切に思うのは当然。
特別な思いに発展するのも、また無理もないことであった。
そうして生まれた愛の結実は、人知れず孤児院に預けられる。"とある少年"もまた、親の顔を知らず、統合前のカーレルの教会図書館に預けられた。
施設に援助をしてくれるという、男女の冒険者は、彼によく語ったという。
「その年でもう軍式剣術を覚えたのかい!? おまえにも才能があるんだな!」
「ねえ、私たちといっしょに冒険者にならない?」
問われるたびに、少年は断っていた。軍人に教わって剣を振るうよりも、工作や建築の方が好きだった。教会の仲間や育ててくれた修道女のために、あたたかい家を作る、守っていくことを志していた。
時が経ち、少年は成長し、冒険者の男女は姿を見せなくなった。
彼は志を果たすため技術を学び、一介の建築士となった。そして、世界中で黒き獣たちが発生するようになる。傭兵や冒険者、その他技術者や狩人を総動員し、獣の脅威を押さえ込んていた。
彼もまた、人と獣の勢力争いの前線に立ち、砦大工として拠点を守りきった。
「えっ、あなたは……!!」
その戦場で、冒険者の女性と恋に落ちた。
彼女との出会いと、属する組織が抱える秘密が、彼の出生の真実を気づかせた。あの男女の冒険者の末路とともに。
「急にごめんなさい。あなたが、失った仲間たちによく似ていたものだから」
「……そうやって、お父さんとお母さんは結ばれたんだ。通例通りなら、冒険者の子はどこかの施設に預けなければならない。でも、できなかった……俺のときと同じことを繰り返したくなかったんだ」
「私が禁を破ったのは確かだけど、後悔はしていないわ。オリバーは、両親が冒険者というだけで組織とは関りがない。私が口を割らないかぎり、隠し通せると思ったの」
幼少のオリバーを訪ねた冒険者たち……彼の両親は、同じ組織に誘うことで、我が子を目の届くところに置いておきたかったのだろう。
そんな真意に気づかず、彼は勧誘を受けなかった。その選択が正しかったのか、今でも迷うことがあると話す。
エイプルは神妙な思いで、両親からの告白を聞いていた。物心ついたときから母は家に寄りつかず、多忙な父の都合で、家でひとり過ごすことも多かった。他の家庭より家族のつながりが薄いと感じたこともある。
けれど……本当なら家族という存在すら知らずに、育っていたかもしれなかった。
普通と比べて歪だとしても、この家は両親が決死の思いで戦い抜き、築き上げた砦なのだ。
「話してくれてありがとう。お母さんもお父さんも、たくさんの無理をして、私を守ってくれてたんだね……ねえ、私も二人の秘密を守らせて!」
いなくならないで、という願いは叶わないものだろう。それでも、これまで紡いだ過去は不動だ。自分たち一家は、確かに家族として幸せな時を過ごした。
同じ秘密を共有すること。それは、より強固な絆といえる。
「そうすれば……どんなに離れてても、会えなくても、私たちは本当の家族なんだって思って生きていける。もう、寂しくなんかないよ」
エイプルはまっすぐ両親と向き合う。嬉しさと誇らしさで泣き笑いながら、二人が確かに自分を愛してくれる事実を噛み締める。
ハナは何度も謝りながらエイプルを抱きしめた。
本当の名を告げることはできない、出て行ったきり便りも出せず、そのまま二度と戻らない可能性もある。未来に起こりうる不義理に対し、先に謝罪しておくことしかできない。
それでも、彼女は冒険者として生きていく。
愛する家族の住む世界を守るために。
次の日の朝、一家は町が展望できる、小高い丘の上を訪れた。集落が改装され、名をカーレル・シズネ町と改めた第一日目に、オリバーがエイプルを誘った場所だ。
黎明の光が照らす秋の町並みを、ハナは胸に刻みつけるように眺めていた。
この景色を、お母さんといっしょに見たい……エイプルの願いは叶えられた。
自分たちは秘密で繋がった家族。ここで見た光景を生涯忘れることはないだろう。
将来、どんな知らせを受けても、もう後悔はしない。そのような気持ちを湛え、彼女は笑顔で愛する母親を送り出す。
誇り高き冒険者、ハナは再び旅立った。
◇ ◇ ◇
昏倒するウェザーを囲むのは、個性豊かな動物たちと、ぬいぐるみの博士。一見して童話のような光景だ。
「チュ、チュチュ……? チュツ!!」
心配そうに腕に触れるのは"極大綿鼠"、悪童たちから"ビーノ"という名を与えられた獣である。
ふるふると艶やかな黄金の毛並みをそよがせ、反対側の腕に寄り添うのは"隠密憑依狐"。かつて彼を気に入って取り憑き、幸運を授けた獣は、今も少年の回復力を高めていた。
冒険仲間を地下大森林から引き揚げた"激走透過狸"は、これ以上手出しはできないとばかり、体を丸めて事態を見守っている。
つきっきりで治癒をかけ続けたぬいはかせは、不思議そうに首を傾げた。
「どうして、彼は目覚めないんだろう?」
布と綿で構成されたとはいえ、ぬいはかせもまた不死者の端くれ。人間ひとりの治療など造作もないことだ。即死さえしなければ、あらゆる怪我も再生できる。
惜しみなく治癒魔法を注いだにもかかわらず、ウェザーは意識を戻さなかった。
彼と特に親交のあったビーノは、悲しそうな鳴き声をあげ続け、綿のようなもこもこした体をすり寄せる。仲間の悲痛な様子に、他の獣たちも同情しているように見えた。
少年を囲む輪の中で、ある一匹が意を決したように頭をあげた。"激走透過狸"の毛皮の中に隠れていた"必眠鼯毛布"である。
「そうか! 君は夢を見せる獣だったね。いっしょに眠れば同じ夢を共有できる。ウェザーくんが起きない理由もわかるかもしれない!」
そうと決まれば、とぬいはかせはウェザーの体の隣で横になる。破損著しいもうひとりの博士は、自己修復のために機体を休めている。そちらの自分の代わりに、今回はぬいぐるみの博士が夢世界へ旅立つことにした。
森の獣たちが見守るなか、必眠鼯毛布はふくふくと膜の間に光を溜め、高所から飛び立った。
"ねがい星"の流れるさまを見上げれば、眠りの帳が降りてくる。
「おやすみ」
過去の情報は共有されていた。だからこそ、ぬいはかせは意外な景色に驚く。
ぬいぐるみの姿では支障あるとして、夢の中の彼は成人男性の白衣姿を取っている。そうやって降り立ったのは、暗い森の心象風景。かつて潜った、エイプルの夢と同じものだ。
「うわあああああん! あああああ!!」
「……うるせえ」
「だい、じょぶだからね、うぇざああぁ……おねえちゃんがついてるからああああ!! うわああああん」
あの時と同じように、エイプルはウェザーの手を引きながら、道なき道をさまよっている。
今回はウェザーが夢の主。泣きわめくエイプルは夢が生み出した幻だ。ぬいはかせは迷いなく少年へ接触する。
「こんにちは、ウェザー君。今の状況が理解できているかい?」
「……ああ、博士。なぜ俺が、傷も癒えたのに目覚めないのか、調査にでも来たんだろう」
夢の中で微睡みつつも、ウェザーは現状をしっかりと把握していた。黒い棘、おそらく獣の攻撃からエイプルを庇ったこと。衝撃で意識を失う前に聞こえた、"殺してやる"という、彼女の声。
「エイプルねーちゃんがそうならないように、俺は力を尽くしてきた。だが、とうの昔に最も恐れていた事態に巻き込まれていたんだな……教えてくれよ博士、あんたは何者だ?ねーちゃんに何をした?」
「僕は不死者だよ。博士、学者、あるいは研究者と呼ばれる存在だ。そして、この町を守っている少女騎士というのが、まさにエイプルたち四人のことだよ」
どんな事情があっても、この少年なら受け止められると、博士は確信していた。ゆえに誠実に、敬意すら持って、自身の正体と少女たちの活動を伝えた。
「……では、そろそろ君のことを教えてもらおう。ここまで夢に耐性を持ち、意地でも目覚めないという、その意志の強さに興味があってね」
ウェザーは深く嘆息する。世界的な強者を前に、はぐらかせないと覚悟を決めた。
「わかった。だが、今から見せるもの、話すことは秘密にしてほしい」
「もちろん。不死者の名において誓おう」
背景が巻き戻る。夢のエイプルの姿は消え、場所は暗い森から町の広場へ移り変わった。
直接のきっかけとなったのは、四年前の夏祭り。ウェザーはぬいはかせを連れて、ある一角へ指をさす。
「まあまあまあ! お嬢ちゃん、すごい運命を持ってるわね。これはちょっと見過ごせないわ!」
そこにいたのは幼いエイプルとウェザー。呼び止めるのは占い師の老婆だ。出会いの挨拶にと、エイプルに白い花を一輪差し出した。
「わあっ、きれいなおはな! ありがとう、おばあちゃん! えへへへっ、にあうー?」
もらった花を髪にさし、嬉しそうに笑うエイプル。そんな彼女に目を向ける余裕もなく、当時のウェザーは老婆と会話を交わしていた。
「エイプルねーちゃんが……おおきくなったら、なにをするっていうんだ?」
「この子は将来、百万の命を救うでしょう」
「なるほど。これは予言だね」
「……っ! やっぱり、そうなんだな」
この世界には現実から予兆を拾い、運命の流れを垣間見る者がいる。ぬいはかせはこの町に住む作家親子、"真実の語り部たち"を思い浮かべた。年季の分か、この占い師の能力は彼らよりも上だ。しかも、視えているのは他者の未来……
場面は広場を抜け、森へ向かう。すでに日は落ちつつあるが、エイプルは気にせずウェザーの手を引いて走った。
「エイプルねーちゃん、そっちは森だぞ。今からなにをしようっていうんだ?」
「わたしも、あのおばあちゃんにおはなをあげたいの! このまえ、おかあさんと森ですっごくきれいな花を見かけたんだから!」
お礼がしたいのだと言って聞かず、森の奥へ突き進むエイプル。辺りが暗くなっても、地面に目を向けることをやめなかった。まだ踏み込んだことのない深度、帰り道すらおぼつかないまでに入り込んだのは、幼さゆえの短慮。
そうまでして探すも、見つけたのは花ではなく……
「ん? なんだぁ、おめえら」
「町のガキか? まあなんでもいい。捕まえちまおう!」
「おい! 女のガキは俺によこせ!」
「馬鹿、売っぱらうんだから余計な傷をつけるな」
武装した四人の男たち。粗野な身なりからして盗賊、人攫いの一団だ。
ウェザーはすぐさまエイプルを引っ張って、その場を逃れようとした。だが、子どもの走る速さではすぐに追いつかれてしまう。
「ほら捕まえたぞガキ……くそっ! 暴れるなよ!」
「だめっ! ウェザー! やめてよ、ウェザーをはなして!!」
「ねーちゃん逃げろっ!!」
大人の力で抑え込まれ、為す術もないウェザー。エイプルは恐怖で固まって動けない。その身に三人の男の手が伸ばされる。大声をあげても、町まで届きそうにない。
もがくウェザーを脅すためか、押さえ込んだ盗賊は剣を取り出す。
「だめええええええ!!」
少年を殺させまいと、エイプルは考えなしに剣に飛びついた。
逃げる間も逃し、助けを呼びに行く選択肢も放棄した。このままでは二人とも捕まるか、最悪殺されて終わる。
ただし、彼女が普通の少女であれば……
それからの光景は、さすがの不死者も目を逸らしたくなるものだった。
「うわあああああん!! わああああああ!」
エイプルが奪い取った剣は、いつの間にか鞘がどこかに飛んでいた。
「いやあああ、うごかないで! ひどいことしないで!」
恐怖のあまり泣き叫び、かたく目を閉じた状態で……何度も武器を振り下ろす少女。
すでに、まともに立っていられる盗賊はおらず。声を上げる、抵抗しようと身じろぎするたび、倍以上の反撃が降り注ぐ。
「うう、ひっく……まもらなきゃ……ウェザーは、わたしがまもって、あげるんだからああああ!」
大事な存在を失いたくない。ウェザーを守らないといけない。その一心だけがエイプルを突き動かしていた。
幼い少女が、服についた毛虫を半狂乱で振り払うように。本人は半ば自失しており、自らの振る舞いにも気づけない。
唯一、助けられたウェザーだけが、一部始終を見ていた。
「この日の数日前に、お母さんから剣の使い方を教えてもらったんだと、エイプルねーちゃんは言ってた」
現在のウェザーは補足する。エイプルの母ハナは、何かと物騒な世の中だからと、護身のため娘に戦い方を教えていた。
「あいつの家族はさ、ちょっとズレているんだよ。オリバーさんもハナさんも規格外すぎるんだ。エイプルねーちゃんにも才能は遺伝した。むしろ、恵まれすぎている……はじめて剣を握って数日の子どもが、こうなってしまうほどに」
剣の技術は役に立った。幼い二人は無事に危機を脱した。母の教えは正しい。しかし、その後のことをまるで考えていない。
もし、ウェザーが現実を受け止められないと恐怖に駆られ、ひとりで逃げ出したらどうなる? 町の人間に見たことを洗いざらい話したら?
その瞬間から、エイプルはただの町娘でなくなってしまう。異質の存在と決めつけられ、一家ごと町から排斥されかねない。
この瞬間、ウェザーの覚悟は決まった。幼い心でありながら、恐れという原始の衝動を捻じ伏せ、すすり泣くエイプルの手を取った。
「どうしても嫌だったんだ。エイプルねーちゃんが、俺のそばからいなくなってしまうのが」
記憶は冒頭に戻る。暗い森の中、手を繋いで家を目指す、幼いエイプルとウェザーの姿。
泣き疲れて涙は引いたが、エイプルは胸が潰れるような心細さと不安に苛まれている。一方のウェザーは考え続けていた。
「この時の俺は、ねーちゃんを守ることしか頭になかった。飛びぬけた才を持ってて、多くの命を救うと予言された存在を……ただの町娘のままでいさせるには、どうすればいいか」
気がつくと少年の琥珀色の瞳から涙がこぼれていた。
優しい彼女のことだ、これからも誰かに危険が及べば、助けてしまうのだろう。溢れる才と身体能力を駆使し、幾多の命を救っていくのだろう。占い師の老婆から、予言されていた通りに。
だが、自身が動揺して震えているように、尋常ならざる力は群衆を恐れさせる。幸せな結末を迎えられた英雄は多くない。エイプルがそうならない保証など、いったいどこにある?
「……だい、じょうぶだからね、ウェザー。泣かないで!」
「えっ? ねーちゃ……」
「わたしがずっといっしょにいて、まもってあげるから」
「……ああ。守ってくれよ、ねーちゃん……ずっと、俺だけを」
そこでウェザーとぬいはかせは足を止め、夢の中の二人を見送った。
これが幼い頃から、家族同然に育った二人を繋ぐ秘密だ。ただし、錯乱状態だったエイプルは、この日のことを忘却している。ウェザーも、彼女に真実を告げる気はない。
「百万の命より、町のみんなより……俺ひとりを守っていて欲しかった。あいつを英雄なんかにしてやるかよ!! 誰にもねーちゃんの力に気づかせたくなかった。だからこそ、頻繁に騒ぎを起こすことで、住民の注目を俺に向けさせるよう、活動してきた」
単身でできることには限りがある。力を求めてラリィを、知恵を求めてエリュンストを仲間とした。今でこそ、硬い友情で結ばれた仲間たちだが、その始まりは打算あった上での接触。町の危機に進んで首を突っ込み、いつしか悪童三人組と呼ばれ、町一番の問題児となった。
求めているのは、ラリィとメイのように、支え合い、力を高め合える関係ではなく。
エリュンストとジュディのように、互いを世界へ送り出し、幸福を願う仲でもない。
この町を守り、より良くしたいという野望も、たったひとりの存在を囲う"美しい箱庭"が必要だっただけ。
ただ、エイプルのために。
自分のそばから離れないでほしい。どこにもいかないでほしい。
そんな子どもじみたわがままが、ウェザーの行動原理のすべてだった。
「だけど博士……あんたのせいで、俺の望みは破られた。エイプルねーちゃんは、すでにこの町の救世主だ。このまま勢いづいて世界を救いたいなどと言い出しかねない」
「だから、君は眠り続けることにしたのかい? 彼女に自分を守れなかった挫折を味あわせ、そばに縛り付けておくために」
「そうだ! その方がいい……英雄として町を出るより、ずっとましだ」
故意でなかったとはいえ、エイプルを獣たちとの戦いにけしかけた原因は博士だ。そのことを、ウェザーは恨んでいる。
彼の危惧は正しい。元々の才能と身体能力。さらに魔道具と融合することで魔法まで得られた。自分にできることならば、獣の元凶たる不死者"魔女"を止めたいと、優しい彼女は口にしたこともある。
「そんなことはこの僕がさせないよ! 不死者なのに……いや、もういい年した大人なのに、子どもたちだけに戦いを押し付けるなんて、どれだけ情けなく思ったことか! あの子たちは必ず無事に、日常に返すよ。そのためなら、この身がどうなっても構わない」
ぎゅっと、両の拳で白衣を握り込む姿と、口調の荒々しさ。今の言葉は本心であるとウェザーは察した。
人の理を脱した存在でありながら、博士は大人としての良識を持ち合わせている。自分たちの将来を思ってくれている。生徒の輝かしい未来のため尽力する、オータム先生のように。
「エイプルを巻き込んだこと、君を傷つけてしまったのも、責任は僕にある。だけど君の、自分自身を人質に取るようなやり方は卑怯だ。早く目覚めて、エイプルを安心させてあげてよ」
「……ここは俺の夢。いくら博士でも、俺が望まない限り、ここから連れ出すことはできないはずだ」
「君の意志を補強するのは例の予言だね。"エイプルは百万の命を救う"という……あの占い師の言ったことは本当だ。外れることはないだろう」
「そうだ! だからこそ俺は……」
「だけど、それが"人の命"だとは言っていないよね」
「……なんだと?」
「彼女の優しさがあったからこそ、立てられた仮説がある……"浄化の魔法"と、僕たちは呼んでいる。獣を、もとの動物に戻す術だよ。実現できれば、助かるのは百万どころじゃない。人も獣も、大地に根付いた生命、すべてが救われる」
それは不死者"博士"だけでは成し得なかった発想。獣による大地汚染を、根底から解決する唯一の光明だ。
獣をも救いたいと願ったエイプルの優しさと、ある老狩人の意志を受け継いだことによって構想された。あとは条件さえ整えば実現できる。
「あの日の君がした選択が、今のエイプルを作り上げたんだ。君のおかげで彼女は歪まず、優しい心を保ったまま、この町を愛し続けている。そんな彼女だからこそ、きっと創り上げるよ……この世界を救う魔法を」
理解が及んだのか、琥珀色の瞳がゆっくりと見開く。その時、暗い森に光が差し込んだ。大人びた少年の表情より、夢の風景の方が彼の心を雄弁に投影している。
「ありがとう。少し早いけれど、世界に代わってお礼を言うよ」
占い師も、同じように感謝を告げていた。あの老婆はウェザーの選択と覚悟をも経た、未来を視ていたのだ。
エイプルは英雄になることなく、ただの町娘のまま、世界を救うだろう。
あの日からずっと抱き続けた不安と恐れ。年若い身が背負うには重すぎるほどの、覚悟と献身が氷解する。
ウェザーは心の底から安堵し、清々しい目覚めを迎えた。