汝、燃え尽きることなかれ
真っ先に動いたのは博士だ。"万象改変機構"を発現させ、ウェザーの頭上に飛ばす。
花か歯車を思わせる武装が滞空した場所から、時空が歪み、少年の体は引き込まれた。何にでも形を変えられる魔道具が、今回開いたのは"転移の門"。繋げる先は、もうひとりの博士がいる研究所だ。
「布と綿で構成された僕!! 彼に治癒術を! 急げ、どれだけの魔力を使ってもいい!!」
「わかったよ僕!」
門が閉じ、少年の身柄が搬送されたあと、エイプルは陽炎のように揺らめき、立ち上がった。
その身が炎に包まれる。仲間たちは驚いて声を出しかけるが、何のことはない。これはただの"魔法少女(略)"への状態変化だ。
見慣れた現象であるが、今宵のものはどこかおかしい。
エイプルが融合した魔道具、それが司る魔法は炎。万里を焦土に変え、灼熱地獄すら発現できる力を備えていたが、優しい彼女はそれらの術を選ばなかった。
扱うのはただの"花火魔法"。見る者を楽しませ、心をあたためる灯火だ。
だが、今やそんな火では温すぎる。
大切な人を消滅させかけた存在など、消し炭に変えても足りぬくらい、憎い。
「殺してやる!!」
狂おしく憤怒の炎は爆ぜる。踏み出した地面を燃やし、溢れた火花が延焼を招くのも厭わず、エイプルは"堕天者"に飛び掛かった。
優しさは燃え尽きた。
その熱は、一匹の獣を焼き焦がすまで止まらない。
◇ ◇ ◇
標的とは全く別の人物を手にかけたと知り、堕天者の脳裏に浮かんだのは、なぜだか"またか"という既視感。
具体的な記憶を遡ることはできない、彼は"ある人物"が獣に変異したときから発生した。"獣除けの陣"から身を守るため使っている男の存在など、歯牙にもかけない。
だが、覚えのない困惑は確かに"堕天者"を呪縛した。
「ちっ……なんだよ、この感覚。胸糞悪い」
身の内に沸く衝動も不快だが、今はそれより優先すべき強敵がいる。
憤怒の炎を撒き散らし、純粋にこちらを殺しにかかってくる復讐者の相手をせねばならない。
「燃えろ!! 燃えろ燃えろ燃えろっ! 燃えろおおおお!!」
出せる限りの火球を放ち、それらの着弾を待たずに突撃するエイプル。
堕天者は黒靄纏う拳を交差してさばいていくも、数が多すぎて防ぎきれない。防御の構えを取ることにより、おろそかになった下方へ、爆風を伴う蹴りが襲う。
たまらず地を蹴って逃れた空にも、エイプルは火球に乗って追ってきた。
「よくも、私のウェザーを……!!」
「な、に……?」
空中にて至近に迫った両者。かたや消滅、かたや焼却という、触れるだけで確実な損傷を与える二人の魔法。衝突した結果など当事者にも予測できない。しかし、肉薄した以上は実行せねばならなかった。
渾身の闇と、炎。撃ち合わせた魔法の衝撃は、大気に波紋を形作った。ただ……上乗せした憤怒の分だけ、エイプルの攻撃が勝った。
"堕天者"は地に落とされる。
奇しくも、与えられた識別名の通りに。
せめて追撃は受けまいと、彼は地に背をつけたまま、地表を闇で満たす。
横たわってしまえば、攻撃は上からの一面にしか来ない。降り注ぐ炎魔法を、黒靄を精密に操作することで消していく。
堕天者にとってエイプルは、ただの目障りな小娘のひとりにしか過ぎなかった。こちらが言葉の通じる獣と知れば、戦わず対話を呼びかけた、甘ったれた獲物。
その印象があっただけに、優しさを捨て去った今の姿は、壮絶の一言に尽きる。
「……ああああああ!! はああああああああ!!」
自らを巨大な火球と化して急降下する少女に、"堕天者"は驚愕のあまり目を見開いた。
満たした闇が一瞬で干上がるほどの熱量。怒りと落下の勢いを保ったまま、エイプルは彼に馬乗りになって、その首と心臓に手をかけた。
火球"赤玉一号"を発現した右手は、黒靄で武装した手によって受け止められた。首に突きつける手刀は炎を纏い、剣の形にも見える。そちらも分厚く発現した闇が盾となり、本体を焼き焦がすには至らない。
「絶対許さない……おまえなんか、燃えてなくなれ!!」
「糞がああ! 貴様が消えろおおおお!!」
膠着状態だ。互いに密着してはいるものの、直接触れている箇所はない。
闇と炎の喰らい合いが均衡を保てているからこそ、両者の体はかろうじて欠損せずにいられている。
どちらかが気力尽き、魔法の出力を誤れば、即死は免れないだろう。
「もうやめてよエイプル!! そんなあなたなんか見たくない! 優しいあなたに戻ってよ、ねえ!!」
「私も……今の、エイプルさんを見ていられません……」
「ふええええ。わたしも怖いっす、やべっ泣きそう」
エイプルの、本気の殺し合いを見せつけられた仲間たちは嘆く。
彼女は家柄や立場関係なく、自身と親しくなりたいと言ってくれた。たとえ異端の存在であっても、裏社会で生きてきた過去も、笑って受け入れてくれた。
底抜けの優しさと、寂しがりな面を併せ持つエイプルに、三人は何度も救われていた。この町で幸福に暮らせるのも、すべて彼女に出会えたおかげ。
ウェザーを傷つけられたことに激昂するのはわかるが、この変貌は受け入れられない。
慈愛のあまり獣の排斥すら厭ったエイプルが、今や自らの意志で、他者の命を奪おうとしている。
「ねえ博士、教えなさいよ!! どうしたら……どうしたらエイプルを止められるの!?」
「オーガスタ……君に、あの魔法と立ち向かう覚悟はあるかい?」
「あるに決まってるじゃない! 優しいあの子が戻ってきてくれるなら、わたくしは何だってやってやるわ!!」
メイとジュディも、震えながらも頷く。
エイプルは二人に、まっとうな道を進むための灯火をくれた。罪多き自分たちにとって、過去を知ってなお笑いかけてくれる彼女の存在は何より眩しく、仲良く隣を歩けることが嬉しかった。
博士は炎と闇のうねるさまを眺める。この光景を悲しいと思う感情も、この町に来て、エイプルのあたたかさに触れてから得たものだ。
少女たちのことはこの身に変えても守ると、とうに決めていた。だからこそ、エイプルの心を守る策を、皆に伝える。
緻密な均衡の上に成り立つ、真紅と漆黒の奔流に新たな色が加わる。
夜の片隅から輝きは広がり、やがて視界のすべてを飲み込んだ。
それは殺傷能力もない、ただ目映いだけの発光。オーガスタによる魔法"轟々たる白金の閃き"の目くらましを受け、膠着状態の二人は怯んだ。
機を逃さず、両者は間に入った博士によって引き離された。
「博士っ、邪魔しないでよ!! 私、まだそいつ殺せてない!!」
「……忘れたのかい? 獣の死による大地への汚染は防がないといけない。それ以上に、感情ある獣たちを殺したくないって、前に君は言ってたはずだよ」
いまだ燃え盛るエイプルの武装。博士は機体の耐久力にのみ頼り、彼女の肩を掴み押しとどめている。怒りが尽きるまで炎は消えることはない。博士が壊れる前に、残りの三人で"堕天者"を捕らえる作戦だ。
万全の用意をしてこの戦いに臨んだ堕天者だが、形勢は不利だ。特にエイプルの怒りは想定外。そのつもりがなかったとしても、少年を傷つけてしまった事実は、彼女の逆鱗に触れた。
それでも彼のなかで撤退する気は起きなかった。とある気がかりが胸を刺し、縫いとめられたかのように戦場に立ち続ける。
その理由は説明できず、ましてやこの場の誰かに問う言葉もない。
あの少年の生死がどうなったかなど……
「わ、私が……また前衛として戦います! ジュディさんは援護を……オーガスタさんは下がっててください」
「いいえ! 攻撃力だけならわたくしは二人より上なのよ! このわたくしが前に出ずして、こいつを倒せると思って!?」
「ダメですって、危ないっすよ! メイちゃんさんのいう通り、後ろから雷撃してくれれば十分っすから!」
「うるさいわね! もうやるしかないんじゃない! わたくしたちだけで、こいつを無力化できれば……エイプルはきっと……」
夏祭りの夜、堕天者と対峙して怯懦に震えたオーガスタ。だが、今度は逃げない。
狂乱する友を思って、最強の獣に立ち向かう。
「その気持ち、受け取ったっす!! "風編み"であの棘だけはなんとしても防ぐっすから、お二人は攻撃を!!」
「ええ!」
黒靄を緻密に操作できるというなら、こちらも同様に細心の風魔法で応じる。虚空に漂う彼の闇は大気の抵抗を受けるのだ。風魔法を操るジュディで、黒い棘を放射される前に押し止める。
風編みの魔法に神経の全てを費やす彼女は、攻撃に参加できない。しかし、最も警戒すべき技を封じることができれば、他二人が自由に動ける。
「覚悟なさいっ、"白金閃光脚"!! ……って、ちょっと!?」
「はいっ……失礼します!!」
再び接近戦を挑むのはメイとオーガスタ。雷霆の速さで迫るオーガスタと手を繋いで、その勢いに同乗し、メイも一気に距離を詰める。
雷の一閃を受け止め、術者ごと飲み込むつもりだった堕天者は、メイの存在に警戒し、回避して距離を取った。
その過程を狙った氷の短剣の投擲は撃ち落とされたが、オーガスタの速度で素早い次手を撃ち、体勢を整える時を与えない。
「ちっ! 鬱陶しい小細工ばかり……だが、考えたものだ」
接近を狙った黒棘による反撃は、編まれた風の盾によって、少女たちに届かない。
攻撃力はあるが技が大振りで、硬直時間のあるオーガスタは狙い目ではあるが、熟練のメイによって付け入る隙が塞がれている。
魔法を放った後のオーガスタの胴体を、メイは遠慮なく掴んで退避させ、闇を纏った顔面への蹴りを空振りさせる。
さらに、雷の放射技"魁る千々の雷電"を撃つ直前に手を引き、敵の予測できない位置に攻撃をずらすなど、埋めがたい戦闘経験を補った連携を見せる。
もっとも、事前に了承や練習を経た戦闘ではないため、メイがオーガスタを攻撃、移動要員として利用するたびに、きゃあ! や、ちょっと!! などど困惑の声が上がっていた。
急ごしらえの協力攻撃だが、工夫の仕方には効果的であり、さすがの"堕天者"も手を焼いた。ただ、長くは続かないだろうと看破する。今のところ、善戦している三人であるが、いずれ体力と集中力が切れる。
息が切れ始めたか、雷魔法の攻撃頻度が落ちている。防御の風に対しても、的確に棘を捉えられていない。防ぐより逸らすので精一杯といった風情だ。
このままではいけない……そんな思いが三人の胸に浮かんだとき、彼方で燃え盛るエイプルに変化が起きた。
仇を襲わぬよう抑えられたままだが、彼女は劫火を撃ち出すことで、荒れ狂う怒りを表した。
「あれは……エイプルさんの"流星三連玉"……!!」
目標の"堕天者"をまっすぐ狙った魔法。その先に仲間達がいることへの配慮もない。
自分たちすら巻き込む攻撃に、一同は衝撃を受けるも、メイだけはこれを好機と捉えた。
獣の注意は三者から新たな脅威へ切り替わり、魔法の着弾を避けた。だが、エイプルの魔法は技名の通り、ひとつの火球から連鎖してなお動き、敵を追う。
初見の技ゆえ、彼はまだその特徴を知らない。
二発目の連鎖を驚きつつもいなし、連続発現の確信を持った堕天者は、次弾を確実に消し去ろうと黒靄を集めた。
最後の連鎖が襲う刹那、守りが手薄になった背後にメイが強襲する。
「今です……私ごとやってください!!」
炎魔法と同時に、メイが駆け出した段階で、ジュディは彼女の真意がわかっていた。
早期決着をつけるにはこれしかない。それでも生じるためらいをねじ伏せながら、渾身の風を喚ぶ。
「なっ!? 貴様……!!」
地面から天へ吹き上げた風圧は、溜めていた黒靄を飛ばし、さらに飛びついたメイが回避行動を防ぐ。振りほどいて逃げようにも、抱きついた腰から脚部を氷魔法で拘束した。
エイプルの怒りの炎は念願の仇に直撃する……メイと、共に。
「まだっす! どうか、行ってくださいオーガスタ!!」
「……っ! でもっ、まだメイがまだそこに……」
「戦いとはこういうことなんすよ!! 博士も言っていたでしょう、立ち向かう覚悟はあるのかと!!」
被弾の影響による煙幕、防御無効状態、メイによる拘束……ここまでお膳立てされれば、求められていることなど嫌でもわかった。
大気を蹴り飛ばして、オーガスタは駆ける。仲間たちが心を潰し、犠牲を払いながらでも得たこの機会。前回のように、逃げるわけにはいかない。
「"魁る千々の雷電"!!」
眩い閃光が、ついに闇を切り裂いた。自身が成し得る高威力技を、確実に、余すことなく浴びせる。
その衝撃は敵の意識を奪うに充分。声もなく昏倒する堕天者の四肢を、メイは氷魔法で縛めた。
少女たちは勝った。けれど、その表情に喜びは皆無。オーガスタが憧れていたような、戦闘の華やかさ、健闘の爽やかさなど微塵も感じない。
本来、戦いとは恐ろしく、忌避すべきものなのだ。
負傷し、ふらつくメイを二人で支えながら、エイプルと博士のいる場所を見る。
炎はまだ燃え続けていた。
◇ ◇ ◇
皆の願いも虚しく、無力化した"堕天者"を見ても、エイプルの怒りは収まらない。
捕獲しただけでは足りない。本当に、自らの手で存在を絶やすまで止まらないのかと、仲間たちは呆然と怒りの業火を眺める。
常人の肉体ならとうに焼け落ちている炎の中、それでも博士はエイプルを押さえ続けていた。
「どけっ! どいてよ博士!」
「……見てわからないのかい? 堕天者は倒れた。もう戦う必要なんてないんだよ」
「そんなのどうでもいい!! あいつはウェザーを傷つけた! 報いを受けさせる!!」
自分のしでかしたことも見えないのかい、と痛々しげに博士は呟く。先に発現した魔法がきっかけとなって、堕天者を捕獲できたが、それは仲間たちの決死の行動あってのものだ。
常時のエイプルならば、決して喜ばない手段だった。
「みんな、これ以上の戦闘を望んでないよ。お願いだから、僕たちの声を聞いてほしい」
「知らないっ! 博士も、メイちゃん、ジュディちゃん、オーガスタちゃんも……どうせ私をおいていなくなる! そんな人たちの声なんて聞いてられない!!」
もう誰も信じられない!! エイプルは絶叫する。
「この町から、私から離れて行っちゃう……帰ってきたって、いっしょに過ごしていた頃と同じじゃないかもしれない。お母さんのように、別人みたいに変わってるかもしれない!!」
また会いに来る。心は繋がっている……そのような甘言も、帰ってきた母親からの言動のせいで、希望は霧散した。念願の再会を果たしたとて、感じるのは裏切りと失望だけ。
「ウェザーだけだった……私といっしょに、これからもそばにいてくれるのは……ウェザーはね、この町をもっと大きくしたいんだって。世界に誇れる場所にするんだって、夢を語ってた。守ってあげたかった!! 私がたったひとつ見つけられた、やりたいことだったのに……!!」
自身の機体に亀裂が走るのを博士は自覚する。不死者と言えど、渾身の炎を浴びせられ続ければ、高耐久も限界が見えてくる。
間近にいるエイプルも彼の崩壊を承知している。むしろ、そうなることを望んでいる。
「まだ邪魔するっていうんなら、先に博士を壊していく! どうせ博士は死なない!! 代わりの機体はいくらでもあるんでしょう!? 私のウェザーは、たったひとりしかいなかったのに……!!」
「いいよ」
博士は優しくささやいて、エイプルの肩においていた手を背に回し、抱擁するようにした。
彼女は熱風に煽られる白衣に包まれた。いつかと同じ、薬品と歯車の香りを、場違いにも懐かしく感じる。
「そのかわり、君に融合した魔道具の機能を停止させてもらうよ。もう状態変化はできない。それでも、彼を殺すというのかい?」
「っ……殺す! 絶対に許さない!!」
エイプルを止められないと悟った博士は、自身の機体を犠牲に、彼女と融合した魔道具を無効化する道を選んだ。
"魔法少女(略)"でなく、そのままの彼女であれば、仲間たちが取り押さえてくれる。手を汚すことにはならないと考えた。
「君をそこまで歪めてしまったのは僕の責任だ。こんなことで償いにならないけど、少しでも気が済むなら、それでいい……次の僕とも、仲良くしてやってね」
目を閉じ、機体を炎が覆うに任せる。
彼を壊そうと意図して魔力を込めるエイプルは、その時になってようやく標的から目を離し、博士だけを正面から見た。
「だめえええええ!! エイプルさん、やめてください! お願いするっす! 博士を壊さないで!」
メイを支えつつも、ジュディは大声を出して懇願する。
博士の仮初の死。彼女にとっては初めて経験するものだ。彼が不死者であること、真の意味で死ぬことはないと理解していたが、それでも代償は存在する。
「次に来る博士は、今の博士と同じじゃないっすよ!! 研究に失敗した博士は、わたしたちのこと全部忘れちゃうんですから!!」
怒りに染まっていたエイプルに、別の記憶と感情が湧く。思い出されるのは、これまでの博士との出来事……
初めて町にやってきた日のこと。魔道具との融合、"魔法少女(略)"としての活動、壊された一体目。ぬいぐるみの博士、半壊した二体目。そして――
"僕を、ひとつの生命として扱ってくれてありがとう"
そう言われてから、それほど時も経ていないはずなのに。
自身を量産機として、軽々しく消耗する考えを否定し、彼のことも守ると誓っていたはずなのに。
「……今、もうひとりの僕から連絡があった」
穏やかな声で話しかけられて、エイプルは思わず震えた。
壊されかけているのに。機体の端から瓦解し始めているのに。
そうさせた相手に対して、心からの笑顔を見せる。なぜなら、今から告げるのが、エイプルにとっての吉報だから。
「ウェザー君は無事だよ」
山火事が雨を受けて勢いを無くすように。徐々に、ゆるやかに鎮火していく。
くすんだ白衣姿が力なく横たわるのに気づき、仲間たちは状況を見極めようとする。
博士がその身と引き換えに、エイプルの魔道具を封じたなら、炎が収まったのはわかる。問題は、彼女は状態変化が解かれてなお、堕天者に殺意向けるかどうか。
残火も絶え、黒煙も消えたあと……姿を現したエイプルは、その場から動いていなかった。
緊張の糸が切れたように、博士の隣に座って涙を流すのみ。
「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい……」
「エイプルっ!! このおばかっ、やっと正気になったのね!?」
「あ……よかった、です」
「うわあああああああん、めっちゃ怖かったんすよもおおおおお」
次々と状態変化を解き、エイプルに抱きつく三人。他を憚らず大声で泣き合い、溢れる互いへの思いと謝罪の言葉が響く。
博士も……壊れかけでありながらも、嬉しそうに少女たちを見上げた。
「ああ……やっぱりエイプルは、優しいね……」
身を起こせない状況でも、メイたちの治癒を優先する博士。全員が動けるようになった後は、捕えた獣を研究所に収容する。それで任務完了だ。
そろそろ撤収したいところだけど……と、歯切れ悪く博士は切り出し、森の繁みの方向を見据えた。
「言いたいことがあるなら、素直に出てきたらどうだい?」
「え?」
壮絶な戦闘は第三者に見られていた。
手練れのメイですら気がつかなかったほどの気配断絶。そんなことが為せるのは、高い実力を持つ人物に限られる。
「私が全部悪いの……ごめんね、エイプル。あなたを追い詰めてしまった」
現れたのはエイプルの母。ハナは、胸に剣を抱き、うずくまるようにして頭を下げる。
初対面の時の態度との差に、オーガスタは憤ったように声をあげた。
「いつから見ていたっていうの!? たった今来たわけじゃないんなら、どうしてエイプルを止めてくれなかったの! あなたそれでも母親!?」
「……もういいんだ、オーガスタ。彼女はわかってくれたはずだよ。それに、あの戦いはただの人間には止められない。入ってきたって足手まといにしかならないだろう」
「お母さん……あのね、私。実は……」
「無理に説明しなくても、わかってるわエイプル。彼からの報告書を読んだから……こちらに誤解があったことは謝罪します、不死者"学者"。あなたは本当に私の娘を守ってくれた。あの状況でこの子を止めるなんて……私でも、できないことだった」
博士への敵意が消えたことを確認すると、エイプルはおずおずとハナに近づいた。
彼女は、本当なら誰よりもこの再会を喜びたかった。家族全員で過ごすのを、夢見ていたはずだった。
また、母ハナの方にも、話しておかなければならない秘密がある。帰ったら真っ先に家族会議だ。
やっと帰路につけそうと全員が安堵したその時、離れた位置にいる闇が蠢いた。
「……ぅ、あ」
氷の拘束は、黒靄の中で溶けるように消えた。まだ雷魔法の痺れが取れないのか、緩慢な動作で立ち上がる……堕天者。
「そんな! まだわたくしたちと戦おうっていうの!?」
「わ、私が……出ます!」
「いや、戦う必要はないよ。もう決着はついている」
意識を取り戻した堕天者に、博士は片足を引き摺りながら近寄り、告げる……時間切れだよ、と。
森の梢から朝日が差し込む。獣は逃れようとするも、麻痺した体は思うように動かない。
「君ほどの強力な獣なら、いやでも"獣除けの陣"から強い影響を受けるはずだ。この町で無理して活動するのは、夜間しか許されない」
これが、世界中にいる博士から情報を集約して得た結論。朝まで堕天者を留めておけば、自分たちの勝ちだ。戦うまでもなく、彼は無力化される。
陽の下で存在を保てない獣性は、仮初めの皮に包まれていく。
朝と夜の境目。黎明のこのひとときだけ、人と獣の記憶が混じり合う。そして、違和感への答えがもたらされた。
少年を手にかけたときに生じた激しい動揺。彼の安否が気にかかる理由。しでかした事実に対する"まただ"という感傷……
「……ああ、そうか」
闇の武装が溶け消える。それはまるで状態変化を解くさまに似ていた。
強制的に存在を変換した影響か、彼の意識は再び途切れる。
「俺は、また……大切な、生徒を……この手で……」
朝の日差しに暴かれたその姿は、見知った人物のもので――
秋の、身を切るような掠れた風は、少女たちが叫んだ恩師の名を運ぶ。
皆が駆け寄ってくる前に……教師の"オータム"は目を閉じた。