首都へ行こうよ! オーガスタの里帰り
すっかり少女たちの溜まり場と化した研究所では、今日も今日とて明るい話し声が湧く。
夏も終盤を迎えるこの時期、カーレル・シズネ町の学校は長期の休みに入る。生徒たちは喜び、これからの自由な時間に思いを馳せ、休みの予定などを語り合っていた。
エイプルはじめ、"魔法少女(略)"の務めを持つ者たちも、その例外ではない。
「それでねっ! ウェザーたち悪童三人組も、エドラ首都へ旅行することになったんだって! 今回のお休みは首都に行く人ばっかりだよね。リーネちゃんも向こうに用事があるっていうし」
「エイプルさん、本当にいいんですか……? お休み中は、オーガスタさんとジュディさんも首都に里帰りするみたいですし……私も、ラリィくんたちに同行します。やっぱり、いっしょに行きませんか? 私、今からでも、みんなに頼んでみます!」
「私のことはいいってメイちゃん! はじめての"家族旅行"でしょ? 大切な時間なんだから、ゆっくりしておいでよ」
「でも……これじゃ、エイプルさんが……」
メイは反論しかけるが、強くは誘えなかった。獣の襲撃がいつ起こるかわからない以上、町の守り手は必要不可欠。"魔法少女(略)"を最低ひとりは残しておかねばならない。
エイプルは進んで留守番を買って出たが、ひとりきりの休暇をさみしく思わぬわけがない。
「そんなエイプルに朗報よ!!」
話はすべて聞かせてもらった! と言わんばかりに、オーガスタは堂々と登場した。その後に満面の笑みのジュディが続く。
「オーガスタのお父上、ロレンゾさんがわたしたち全員の宿を手配してくれました! "この町でよくしてもらったお礼に、首都旅行を楽しんでほしい"とのことっす!!」
「ちょうどいい機会だわ! あなたにはいろいろと迷惑をかけたし、お詫びと今までの恩返しをしたかったところなの。エイプル、わたくしが首都を案内してあげる!」
「せっかくのご好意ですし……甘えることにしませんか、エイプルさん……ねっ?」
「ええええっ!? でも、誰かが残ってないと、獣から町を守れないよ? 留守のとき"堕天者"みたいなのが襲ってきたらたいへんだよ!」
「その点は心配いらないよ」
「そうとも! この僕が町を死守してみせる!」
エイプルの不安を除こうと、二人の博士が会話に割り込んだ。
「こんなこともあろうかと、日頃から魔力を蓄えていたんだよね。君たちが不在の間、"獣除けの陣"を強化しておくよ。維持できる期間は短いけれど、町の安全は確約しよう」
「時には任務から離れることも大切だよ! 遊びに行くのに遠慮なんかしないでくれ。"魔法少女(略)"としての役目があるとはいえ、君たちは普通の女の子なんだから」
ただし、連絡役として小さい僕を同行させてくれ、と博士は申し出、ぬいはかせをオーガスタの手に渡した。彼は、町に残った博士と通じて、情勢を逐一報告するという。
少女たちの持つ魔道具は、"陣"の強化に必要なので、研究所に預けておく。
戸惑い続けるエイプルをよそに、不安要素はどんどん解決されていった。
「おわかりになって? ちゃんと町の安全を考えて、対策を取った上での旅行なの。わたくしたちはあなたをひとりにしたくないの。首都でいっしょに素敵な時間を過ごしましょう?」
「オーガスタちゃん……ありがとう! 私もみんなといっしょにいたいよ。ただ、この町から出るのはじめてで、ちょっと、緊張してて……」
「そうと決まればさっそく荷造りよ!! 大丈夫、あなたのお父様にも了承をもらっているわ! 支度ができたら、すぐに出発するわよ!」
「ええええええ!? 旅行って今からなの? ちょっ、ちょっと待ってオーガスタちゃーん!!」
かくして、カーレル・シズネ町の悪道三人組と"魔法少女(略)"たちは、この国最大の都市に向かう。皆を送り出す博士は少女らに、布と綿で構成された自分と、作家親子から頼まれていた資料を託した。
それは博士が購読している学術誌だ。リーネと、その父リーンベルゼだけは、首都に行く目的が観光ではない。彼ら親子は懇意の人物が体調を崩したと知り、お見舞いに行くという。
机に置かれた資料の上に、のし……と白銀の獣が陣取った。夏祭りの夜から、研究所内を我が物顔で歩くようになった"激走透過狸"である。
獣ゆえに文字など理解できない。しかし獣は、印刷された図画を食い入るように見る。そこには、長いつばの帽子をかぶった、狩装束の男性が写っていた。
記事の見出しは、このように書かれている。
"動物研究家のフォークス氏、緊急入院!"
その日、カーレル・シズネ町から、一匹の獣が姿を消した。
◇ ◇ ◇
持ち前の元気のよさで、友達を振り回すことは多いが、その逆は皆無に近い。オーガスタの勢いに流されるまま、エイプルの身柄は首都へ運ばれていった。
馬車と船を乗り継いて進む。見慣れた山々の景色を越え、目まぐるしく変わる景観の果てに、高楼そびえる大都市が見えてきた。
「ほ、本当に来ちゃった……」
「うおおおおおやっべえええええ! 通りも建物もでけえええ!」
「ここが首都……たしかに、すごいなぁ……」
「おい慌てるなラリィ、エリュンスト。あまり騒ぐと客引きが寄ってくるぞ。俺たちみたいな田舎者は格好のカモだ」
「ウェザーくん、警戒しなくたって悪い人は近づいてこないよぅ。あちこちで憲兵さんが巡回してるからねぇ」
到着したエイプルは、わわわと口を開けて、きょろきょろ辺りを見渡す。生まれてはじめて見る都会の喧騒に、完全に飲まれていた。悪童三人組のように、反応を返すこともできない。
エドラサルム=ジ・エラの首都は古来から発達してきた大都市、カーレル・シズネ町とは規模が桁違いだ。
一呼吸ごとに大勢の人々が往来し、建物の中へ吸い込まれていく。祭りでもないのに店がひしめき、通りの一角だけを見ても、その盛況さは町の朝市と比べ物にならない。
最も目を引くのは、首都中央部にある議会堂である。かの古めかしい大建築は、支配階級の住む王城として造られた。
山岳をくり抜くようにして造られた城郭は、黒色の岩盤にあやかって"黒城"と畏れられ、仰ぎ見られてきた。
「どう? びっくりしたでしょう、エイプル。ここがわたくしの生まれ育った都市よ。あの議会の中にだって何度も入ったことあるんだから!」
「しばらく見ない間に新しいお店がたっくさんできてるっすよ! はたして滞在中に回りきれるでしょうか」
「でも、大まかなつくりは変わってませんね……よく真夜中に、屋根の上を駆けまわってました。懐かしい……」
以前まで首都に住んでいた者らは、大都市に対しての動揺はない。宿屋に荷物を運びこむ間も、口々に懐かしさを呟いていた。
エイプルだけはずっと圧倒されたまま、身を縮めて皆の後を追った。
カーレス・シズネ町の一行は、全員が同じ宿に泊まるものの、各自で別行動をとる。
メイは一家四人で初めての家族旅行。ウェザーとエリュンストは議会見学に参加する。リーネとリーンベルゼ作家親子は、博士からもらった情報をもとに、知人のいる病院を訪ねる予定だ。
「……さてと、残ったわたくしたちは市街を散策するとしましょう。まずパイの専門店に案内するわ。あそこのももパイは絶品なのよ。エイプルも気に入ると思うわ」
「こっちの裏路地を通ると近道っすよ! しっかりついてきてくださいっすねー!!」
「う、うん! ありがとね二人とも」
人の多い大通りを避けて、エイプル、ジュディ、オーガスタの三人は路地裏を抜けていく。近道と言ったとおり、周りは入り組んだ作りになっており、小さな家や集合住宅が立ち並んでいた。
華の首都にしては慎ましい道に、きらびやかな一団が通りかかる。上等な衣服に身を包んだ五人の少女。
エイプルたちとすれ違って数歩経たのち、最も豪奢なひとりが振り返った。
「あら皆さん、ご覧になって。あれってオーガスタじゃない? 首都から逃げ去った臆病者の娘がいるわ!」
「げええええ!! デリラ嬢じゃないっすか!」
黄味がかった髪の少女へ指をさし、嘲り笑うのはデリラという名前の現職議員の娘だ。取り巻きの少女たちも皆、議会関係者の子女である。
いずれもオーガスタと親交があり、こぞって彼女に取り入り、付き従っていた。だがそれも、ロレンゾが地位をなくすまでのことだ。
「……デリラ。こちらと関わるのはやめたのではなくて? 議長の娘でないわたくしに、付き合う価値はないと言ったのはあなたよ」
「あーら、価値ならあるわよ。こうなったらおしまいだっていう、悪いお手本として役立つわ。今のあなた、本当に無様で笑えちゃう。ねえ、そうよね皆さん?」
一斉に笑い始めた少女らを、オーガスタは冷めた目で見つめていた。かつては皆を友人と信じ、笑い合っていた日々もある。けれどそれは地位と家柄があってこその繋がり。
カーレル・シズネ町に越してきて、本物の絆を知った彼女に動揺はない。唯一の気がかりは、この場にいるエイプルのことだ。
「ごめんなさいね、エイプル。案内はもう少し待ってちょうだい。あなたを面倒事に巻き込みたくないの」
「えっ? でも……あの子たち、オーガスタちゃんの首都のお友達じゃないの?」
「リーネがまだ宿屋にいたはずだから、おしゃべりしてて待っててくれる? 用を済ませたらすぐに戻るわ」
ためらいつつもエイプルは元来た道を辿り、宿屋へ向かった。ジュディとオーガスタは、デリラ率いる一団と対峙する。
蔑む相手が減り、オーガスタからもろくな反応を得られないために、令嬢たちはつまらなそうな様子であった。より挑発せんと、デリラは身を乗り出す。
言葉の毒は鋭さを増し、その矛先はジュディに向かった。
「その薄汚い緑髪……ああ、覚えているわ。そいつって解放奴隷の貧民でしょ? やーね、まだ雇ってたの」
「あれは本当に迷惑な事業でしたね、デリラさま! オーガスタに押し付けて正解ですわ」
「そうね。どこの生まれかもわからない、汚らわしい犬。うちに来なくてよかったわ」
「おばかなこと言わないで! 取り消しなさいっ、今の言葉!!」
激昂したオーガスタの気迫に、一団は思わず後ずさった。デリラなどはひいぃ! と悲鳴をあげ、取り巻きのひとりの背に隠れる。
「な、なっ……急になんだっていうの!? わ、私に危害を加えようものなら、ただじゃ済まさないわよ。身分をわきまえなさい! 下級国民の分際で!!」
「黙ってやり過ごすつもりだったけど、こればっかりは許せないわ。ジュディは私の大切な友よ!! 犬なんかじゃない! そういう、人を人と思わない態度を治せって、わたくしは前から忠告しておいたはずよ」
「なんて口をきくのよ無礼者っ! 落ちぼれたくせに、偉そうに……」
「あなたの将来のために言ってるのよ」
喚きかける令嬢たちを眼光のみで制圧し、オーガスタは毅然と立つ。
身を飾らぬとも、家名の後ろ盾なくとも、彼女は傑物としての威光を纏っていた。
「身内の地位に縋るなんて、自分に力のない子どもがすることよ。そんな考え、いい加減卒業して、自分自身を高めたらどう? 今のままじゃあなたたち、成長しても小物にしかならないわよ」
「……ふんっ! なによ、ちょっとからかっただけなのに本気にしちゃって、馬鹿みたい。私はあなたに付き合ってあげるほど暇じゃないの。皆さん、こんな負け犬はほっといて、慈善事業のおつとめに行きましょ」
「はっ、はい! デリラさま!」
言い返された悔しさに、デリラは頬を怒りで赤く染め、立ち去っていった。取り巻きも小走りとなって追いかけ、目的地はこっちです! と彼女を誘導する。
最後に言い捨てた台詞の中に、慈善事業という単語があった。裕福な家庭が定期的に行う、貧しい者たちへの施し。五人の令嬢らも嫌々ながら、家族の勧めで参加しているようだ。
彼女たちの花かごには、市民への見舞いの品が入っている。訪問予定の家はすぐ近くにあった。
オーガスタたちの視界の端で民家の戸を叩き、住民の男に迎えられて、中に入っていった。
「まあ、ちゃんと慈善事業に貢献しているようだから、かろうじて及第点ね……ジュディ? どうしたの、さっさと行くわよ」
「あわわわ……どうして、あの男がここに……?」
顔を蒼白にし、震えるジュディ。令嬢たちが入っていった戸口を指差し、あえぐように話す。
彼女は先ほど出てきた男性の姿に見覚えがあった。
忘れるはずもない。何でも命令を聞くよう、体に覚え込まされたのだから。
「っ、大変ですオーガスタ! "わたしのとき"と同じです、慈善活動というのは罠なんすよ!! わたし、さっき出てきた男を知ってるっす!」
ジュディはもともと"慈善事業"にかこつけて送り込まれた殺し屋。彼女を仕込んだ組織は、またしても同様の手口を使い、令嬢たちを狙っていた。
「あれは間違いなく裏社会の人間……わたしのいた組織の構成員です!!」
◇ ◇ ◇
やけに急いだ荷馬車が川沿いの倉庫に駆け込んだ。男たちは人目を忍びながら、五つの布袋を運び出す。
ジュディが気づいた通り、彼らはカタギではなく、裏稼業の人間。もとは殺しを請け負っていた組織の構成員である。裏社会において一角の地位にあった組織だが、内部分裂や敵対組織との抗争で痛手を受け、凋落の一途をたどっていた。
組織を保つための資金も尽きかけ、奴隷商の真似事を始めるまでに落ちぶれていたのだ。
「いやいやいや、やめてえええっ!! 助けてー! ちょっと誰か助けに来なさいよ! ねえええええ!! この私が助けてと言ってるのよ!! 早く来なさいったら!!」
袋からもがき出たデリラは、声高に助けを求めた。
他の令嬢と違い、彼女は恐怖すると喚き出す気質らしい。
男たちが持ってきた布袋の中身は、誘拐した議員令嬢たちである。船が到着しだい、彼女たちは質の良い奴隷として、他国へ送られる。
「ったく、うるせえったらねえ! 何でこいつだけ他のやつみてえに静かにならないんだ!? 大声出したって、助けなんか来るわけねえだろうが」
「いい加減に諦めろや小娘!! 痛い目みてえのか、ああ!?」
「やめろ。商品に傷なんてつけたら、価値が下がる。こいつらは見目のよさが売りの奴隷なんだからよ」
「私が商品? 奴隷にされるですって!? 冗談じゃないわ!! そんなの絶対にいやっ、売り飛ばすなら他の子たちだけにしてよ! わ、私にはひどいことしないで!」
指差された他の令嬢は身をびくつかせた。
仮にもお姉様と慕い、敬意を抱いていたデリラからの裏切りに、彼女らはもう言葉もない。
"商品"の見張りについている男は三人。うち二人は船着場からの物音を聞きつけ、ついに船が来たかと様子見にいった。
縛られた令嬢を見張るのは一人で充分。ただ、デリラはなおも喚き続けており、残った男は燗に触る声を浴びることとなる。あまりの喧しさに自制も効かなくなり、ついに男はデリラの胸ぐらを掴んだ。
「うるせえつってんだろ! 傷物になるだの知るか!! 一発ぶちかましてや……」
「うるさいのはあなたも同じよ」
すぐ黙らせてあげる、との声の主を探して、皆は首を巡らせた。
倉庫の天井近くまで積まれた木箱の上、威勢良く立つ、ひとりの少女の姿がある。
あえて声をかけることにより、男の頭部を固定させた。次の動作に移られる前に、彼女は跳躍する。
魔道具を博士に預けているため、"魔法少女(略)"への状態変化はできない。ただの小娘が暴漢を気絶させるのは無理がある。しかし、彼女は不足する力を高所に登ることで補った。
落下分の威力を加え、オーガスタの蹴りが男の頭部に炸裂した。
「オーガスタ!! なんで……?」
男が昏倒したことにより、デリラは解放された。助かった安堵より、見下していた相手が自身を救った事実に、不可解を示している。
「デリラ。あなたねえ、助けが来るまで時間を稼ぎたかったのはわかるけど、言動に気品がなくてよ。教養の底が知れるってものね」
「まあ! 先ほどのデリラさまの発言には、そのような意図があったのですね」
「さすがの機転ですわ! おかげで助けが来ましたもの」
「へ? あ……あっ! そ、そうよ当然だわ! 私は恥を捨ててまで、皆さんを人さらいの毒牙から守ったのよ。おほほほほ、おほほ……」
先の物音も船が来た音ではなく、オーガスタがジュディに頼んでおいた陽動だ。誘拐犯追跡の道すがら、巡回していた憲兵に通報しておいたため、外に出た二人や仲間の船もじきに逮捕されるだろう。
デリラを助け、仲間の猜疑からも救ったとしても、感謝されないだろうことはオーガスタもわかっていた。だが、非道を見過ごすことは彼女の主義に反する。
自らの心のままに。理想を追い求めた先にいる、なりたい自身の姿を、オーガスタはまっすぐ目指していた。
「あなたたちにももうじき迎えが来るでしょう。事情を聞かれるのは手間だから、わたくしは戻ります。あとのことはデリラが好きに証言するといいわ」
ではみなさん、ごきげんよう。
そう言って感謝も求めず、凛と立ち去るオーガスタの姿を、他の令嬢たちは眩しそうに見つめていた。
それはまさしく、英雄に向ける眼差しだ。
集荷に来た船は航路の途中で憲兵に止められ、船着場に来ることはなかった。音を立てておびき出した男たちも、倉庫に戻る過程で憲兵に見つかり、逃走したと聞く。
「オーガスタとお嬢様がたは大事ないでしょうか。商品に傷つけたらアレだし、大人しくしてれば、たぶん大丈夫と思うんすけど……」
陽動を成功されたジュディは、狭い近道を通って倉庫へ向かっていた。この倉庫街は組織の取引で利用されることもあり、いざという時のための脱出路も用意されている。
隠し道を使えば早く目的地に着ける。そう考える者は、ジュディのほかにもうひとりだけいた。
狭い一本道にさしかかったとき、ジュディは懐かしい顔と鉢合わせた。
逃走中の誘拐犯のひとり。過去、彼女を殺し屋として仕込んだ、組織の構成員だ。
「っ! ぁ、ああ……」
瞬時に脳裏をよぎる、組織にいた日々。暴力と薬物による調教、この男にされた非人道的な扱いも、色褪せることなく彼女の中に残っている。
オーガスタとの出会いにより、人としてのジュディは確立されたが、殺し屋に立ち戻る可能性はまだある。
その証拠に、男が近づくのを見ても、ジュディは動けなかった。
再び支配されてしまう。彼の口から命令が発されれば終わりだ。"肉壁七番、配置につけ"と、ただ一言命じられれば、体が勝手に従ってしまう……
「何見てんだガキ、どけっ!!」
予測していた言葉は来ず、ジュディは呪縛から解き放たれた。
動けなかったのは一瞬の出来事。男は憲兵から逃れることしか頭にないようで、彼女を怒鳴りつけて、先に進もうとする。
「……およよ? あなた、わたしのことを覚えてないんすか? これっぽっちも?」
「ああん? ふざけてんならぶっ殺すぞ!!」
立ち去る男を眺めつつ、少しずつ状況を理解する。男はジュディのことを忘れていた。いや、彼だけではない。使い捨てた人員は多く、組織の幹部がいちいち記憶するまでもない。
任務の意味がなくなり、置き去った"武器"のことなど、今更誰も覚えていないのだ。
「あはははは! そっか! そうっすよね!! 誰も彼も、わたしのことなんか覚えてるわけないっすよね!!」
突然笑い始めた少女に、ぎょっとして振り返る男だが、さっきまでの場所にジュディはいない。
狭い道だ。大の男がとれる動作は限られている。ゆえに、足元に迫った彼女の攻撃を避けることは難しい。
脛を容赦なく蹴る。少女からの非力な攻撃といえど、靴には暗器が仕込まれており、金属で殴られた衝撃と等しい。うずくまる上体に叩き込まれた膝蹴りも、同様に硬化されている。
すべて組織で仕込まれた策略、身につけた技だ。息を詰まらせた男の首に足を絡ませ、体のひねりで壁に激突させるのも、彼らから教え込まされた。
「あはは、はは……命令を無視して、組織の人間に歯向かう。昔のわたしからは考えられない所業っすね……」
ジュディは倒れ伏した男を見下ろし、感慨深く呟いた。
組織から忘れ去られていると知った今、ずっと引っかかっていた心の枷が、ようやく取れた気持がする。自身を支配していた相手をのしたのも、暗い過去との決別を感じさせた。
「なんか……なんか実感した! 上手く言えないっすけど、なんかわかった気がするっす!! わたしが、本当の意味で、自由なんだってことが!!」
この気持ちを、いの一番に知らせたい人がいる。ジュディは緑髪を振り乱し、一目散にオーガスタの待つ場所へと走る。
快晴を誇る首都の街に、自由の風が吹き抜けた。




