町が引っ越してきた!
春風とともに少女は駆ける。
朝の爽やかな空気のなか、赤茶色の髪が応じて弾む。道行く人におはよう、おはようと声をかけ、笑顔であいさつを返されるも、足が止まることはない。
しかし、次に現れた人物については、驚きを持って走り寄った。
「あっ! おはよう、博士!! 久しぶり、また引きこもって研究してたの?」
「やあ、おはようエイプル。そうだよ。三日ぶりの外だ」
声をかけられたのは若い男性。うーん、と気の抜けた伸びをしながら応じた。
この国には珍しい純白の髪が朝日を浴びる。はためかせる白衣も目に眩しい。久方ぶりの外出に、本人も目がくらんだのか、左目に掛けた片眼鏡を手で覆い、日光から庇ってみせた。
「そんなに急いでどうしたんだい? まだ朝になったばかりじゃないか。学校の時間にしても早すぎないかい?」
「あのね! 朝、起きたらお父さんの書き置きがあったの。丘の上で私に見せたいものがあるんだって! なんだろう、楽しみ!!」
「あの丘で、か。それはいいお誘いだね。エイプル、期待していて損はないよ」
「えっ!? 博士、何か知ってるの? すごい!」
丘の上に何があるのか。エイプルは博士に教えてとせがんだが、彼は笑って答えなかった。
ずるいよ! と少女は頬を膨らますも、笑顔は絶えない。彼女にもわかっていたのだ。向こうにはすてきなものがある。今日から、楽しい日常が始まるのだと。
木々をすり抜け、新緑を掻き分けた先に、屈強な男の背中があった。エイプルの父、オリバーだ。
大工である彼は大きな仕事を終えたばかり。エイプルは多忙だった父を労うよう、または寂しかった日々の穴埋めをするよう、厚い背に勢いよく抱きついた。
「お父さーん!」
「おっ! さすがはエイプル。時間通りだな」
「ねぇねぇ! 私に見せたいものってなに?」
「そんなに慌てるなって。ほら、ここに立てばわかるぞ」
エイプルは父に抱え上げられ、くるくる回ってはしゃいだのち、高台に降ろされる。自身の故郷を一望できる場所。ちょうどその時、空にあった薄雲が立ち消え、黄金の光が世界に増す。
ゆっくりと、陽に照らされていくのは、新しくなった大好きな町。
「わぁ……!!」
エイプルは感嘆する。見下ろすのは愛おしい家々の小型模型たち。自分たちの家、まだ人の少ない朝市。教会の立派な鐘も、ここから見れば鈴のよう……ここまでは見慣れた風景だ。しかし、その先から、真新しい屋根が規則正しく並んでいる。
「向こうの区画は、お父さんたちが建てた家だよね。あっちの町の人も、これから私たちといっしょに、この村で暮らしていくんだ」
「そうだ。俺たちだけじゃないぞ。大人たちや町長、あの"博士"にも手伝ってもらって、ついに完成したんだ。これが俺たちの新しい町だ」
エイプルたちの故郷。放牧と林業で栄えるシズネ町は、森を切り拓いて、新たな居住区を開墾した。オリバーらの手によって整えられた区画は、本日をもって移住者が全員揃い、町単位での引越しを終えたのだ。
越してきた町の名が追加され、今日からこの地は"カーレル・シズネ町"と改まる。
高まる期待。新しい出会いに胸をときめかせながら、エイプルは功労者の父と、美しい町並みを絶賛する。
すごいすごいと賛辞の気持ちを表すが……お母さんにも見せたかったな、という切ない思いだけは、喉を越えることはなかった。
◇ ◇ ◇
誰が決めたわけではないが、元あった町を"シズネ"、新区画を"カーレル"と呼ぶのは、住民たちの間で浸透していた。
居住区の拡張により、追加されたのは住民の家屋がほとんどだが、一部の公用施設も新区画に建て直されていた。エイプルの通う学校もその一つである。
登校初日の道のりをわくわくしながら歩く。その途中、見知らぬ少女の姿が見えたので、エイプルは立ち止まり、手を振って呼び掛けた。
「こんにちは! 私、エイプルっていうの。これからよろしくね! 学校はこっち、こっちだよー!」
「はじめまして。私はリーネだよ。よろしくねぇ」
ふんわり微笑んであいさつをする丸眼鏡の少女。リーネは、ほわほわした印象に違わず、やわらかな口調で話した。彼女も"カーレル"側の住民であり、今日からエイプルの学友となる一人だ。
「へぇえ~、リーネちゃんのお父さんって作家さんなんだ!」
「うん、そうだよう。前の家に資料が入りきらなくなったから移住を決めたの。この町は静かだから、執筆がはかどるって喜んでたよ」
「私、あんまり本を読まないんだけど、有名な人なのかな。どんな話書いてるの? おもしろいの?」
「あー、ちょっとお父さんのお話は、人を選ぶというか……」
とりとめのない会話の途中だったが、エイプルは足を止めた。質問に答えかねるリーネの注意を引き、気になる事項を指し示す。
じっと立ち尽くす女の子がいた。
エイプルたちと同じ年代、同じ大きさの鞄を持つことから、彼女も新しい学校の生徒なのだろう。しかし、先に進むことなく、途方に暮れた表情で青空を見上げている。
ゆるく内巻いた髪は、少女の視線の先にあるのと同じ、蒼穹の色。大きな紫の瞳には不安が宿っている。澄みきった容姿を光に透かす姿は儚く、二人に不思議な子だ、という印象を与えるに十分だった。
「あの子も"カーレル"から来たの?」
「んーん。はじめて見たなぁ。それに、ああいう髪色の人、まわりの国にもいないよ」
だよね、と二人は同意し合う。この国では民の大多数が茶髪であり、なかにはエイプルのような赤毛に近い者もいるが、大抵が茶の濃淡の域を出ない。
けれど、あの青い少女の外見は明らかに異なる。別の地域に出自を持つのだ。
珍しさと好奇心からか、この子と仲良くなりたいという思いが、二人に湧いた。
「ずっと立ってるけど、どうしたの? あなたは、私たちと同じ学校に通うんだよね? お名前、教えてくれるかな?」
「あっ……私ですか? わ、私……メイって、言います。あの、学校がはじめてで……どうしたらいいか、わからなくて……」
「大丈夫だよぅ。今日から開校する新しい校舎だから、みんなもはじめてだよ?」
「そうじゃなくて……"学校"というものに、通ったことがないんです。私は、今までずっと、暗殺の訓練しかしてこなかったから」
「なるほど。暗殺者さんだったのかぁ」
「ええっ! その年でもう働いてたの? えらいね!」
「あれっ!? 驚かないんですか? 怖がったり、気味悪いって思ったりしませんか?」
この会話で驚いたのはメイと名乗る少女だけだった。素直な性格で、嘘を言うのが苦手な彼女は、素性を話すたびに恐れられてきたらしい。
意外な反応の理由を問うと、父がよくそういう小説を書くからとリーネは言い、エイプルも同様に聞き慣れてるのだと述べた。
「でも、正式に働いたことはないんです。お仕事を始める前に、私のいた組織が壊滅しちゃって……結局、実戦登用もされなかったんです」
「そっか、メイちゃん大変だったんだね。でも心配しなくていいよ! わからないことがあったら、私たちも教えるし、先生たちにも聞いてみたらいいんだよ。これからいっしょに勉強していこ!」
◇ ◇ ◇
先に話したとおり、メイが"学校自体"を知らない、というのは本当だった。
登校初日は、校長によるあいさつと新任教師の紹介、新しい校舎の案内など、授業の事前準備をするに留まった。
エイプルたちも、新しい仲間との交流を楽しんでいたが、ほとんどの時間はメイの介添えに費やされた。
まだ暗殺者の感性が抜けない彼女に、先生たちの言うことは命令ではない、失敗しても致命的な懲罰が下ることはない、誰かの命を取ってこいという宿題もないと、丁寧に説明した。
物騒な失言をしたときは、すかさず訂正し、笑って流させた。
二人の補助によりメイは、"少し変わってるけど素直ないい子"という認識で、同級生に受け入れられたのであった。
「ごめんなさい。私が至らないばかりに、ご迷惑おかけして……」
「謝らなくてもいいよぉ。まだ表社会に慣れてないんだから、戸惑うのも仕方ないよ」
「そうだよ! それに私は、メイちゃんとたくさん話せて楽しかったよ。がんばって自己紹介するメイちゃん、かわいかったなー」
「あ、ありがとう、ございます」
午前中のみの授業を終え、少女たちは帰路についていた。エイプルはこのあと、越してきた二人のために、町を案内する予定である。
「でも、あれだけよくしてもらったのに、対価を払わないのは申し訳ないです。お返しをさせてくれませんか? あのっ、戦闘とかでしたら、けっこう得意です」
「うーん。とくに戦闘能力は必要ないかな。博士の敷いた"陣"があるから町は守られてるし」
「そうだよう。最近は"黒き獣たち"も見かけなくなって……」
突如、けたたましい金属音が会話と重なった。三人はびくりと身を震わす。
カンカンカンと、他方から始まった鐘の音は、町全体に広がっていく。この音が意味するのは警報。先ほどリーネが言いかけた、"黒き獣たち"の襲撃である。
「たいへんたいへん! すぐに避難しなきゃ」
「でもどうして? 獣たちはこの半年、まったく姿を見せなかったのに……あっ! メイちゃん、避難所はそっちじゃないよ!!」
「いいんです。エイプルさんとリーネさんは安全なところに隠れてください! 私は、行かなくちゃ……」
「メイちゃん!」
激しくなる喧噪。逃げる者と真逆の方向へ、メイは走る。人にぶつからないよう配慮してか、跳躍して屋根に飛び乗り、建物づたいに駆けていく。
追いかけようとしたエイプルは、リーネに手を掴まれた。
「待ちなよ! 心配なのはわかるけど、絶対に追いつけないって!」
「でもっ、メイちゃん避難場所知らないし、一人になるのは危ないよ!」
「今の身のこなし見てたよねえ? あの子、会った時から足音立ててないし、相当な手練れだよ。もしかしたら獣に見つからず、戻って来れるかも」
私たちは逃げるべき、とリーネは主張する。メイと違い、戦闘能力のない自分たちは、獣の餌食になるだけだと。
エイプルは、わかってるよ……と返すも、次の行動を決めていた。
「ごめん、やっぱり私も行ってくるよ!! リーネちゃんは避難場所へ走って! ここをまっすぐ行けば着くから!」
「行くって、もう追いつく距離じゃあ……」
静止の声を優しく押し留め、エイプルは強く地を蹴る。人々もあらかた逃げ終え、見晴らしの良くなった街路を、春風も切り裂く勢いで駆け抜けた。
轟々という音がリーネの耳に反響した。彼女は、あれれ? と首をかしげる。
瞬きのたびに遠くなるエイプルの姿。一呼吸後には、すでに見えない距離にいる。風を逆巻きにし、周囲を軋ませるほどの推進力は、とても普通の少女が成し得るものでない。
「……なんだか、すごいところに引っ越しちゃったなぁ」
残されたリーネは、目撃した非日常の光景も、ほわほわと受け止めて微笑む。蒼天を仰ぎ、新しい友達の無事を祈ったあと、一人避難場所へと歩き始めた。