第六話 「本の虫」
キズについて行くと覚えのある道へと出る、するとその道に出て少ししたところでキズは立ち止まった。
「ああ、ここは……」
着いたのは僕でも、いやこの町の人だったらほとんどの人が知っているであろう場所だった。
「図書館、か」
キズは無言でその中へと入る。僕も後ろからそそくさと続く。
入ってすぐの正面には大きなカウンターがあった、もちろん無人だが……。
僕も調べ物をする際にはよく利用した。壁一面に本があって、コンピュータで検索すればそれなりに求めているような資料は見つかった。
キズはずんずん遠くのほうへ行った。図書館は奥へ行けば行くほど、本が多く閉鎖的になっている。
それは、まるで幼子が最初は返れると油断して奥へ奥へと入って帰り道が分からなくなる、山や森の道のようである。
そして、キズは口を開く。
「この辺よ」
「なにが?」
「その人」
「いや、いないけど……」
「トイレかしら?」
「さあ?」
「まあ、待ちましょう、本でも読んで……」
他にやることがなく、僕自身読書が好きだったので、賛成した。
壁の本棚にあった本を取る。
「数学者たち、か。まあ、面白そうだな」
僕は一応本を広げる。
有名なピタゴラスから始まり、フェルマー、オイラー、ライプニッツ、さらにはケプラーまで数学者として載っていた。
そんな感じでケプラーの楕円の法則の項を読んでいると、本棚の陰から人が現れた。
「やあ、キズじゃないか。めずらしいね、君がここに来るなんて」
いかにも読書家といった風貌だった。
「あれ、そちらは? 見ない顔だけど……」
「新入りよ。ウツロっていうの」
「あ、どうも」
僕は紹介されて、読んでいた本を閉じる。
「へえ、きみ、数学好きなの?」
彼は僕の持っていた本を見て、興味がわいたらしい。
「いや、たまたま近くにあったから、取ってみただけだよ」
「そっか、まあ、でも、いろいろな人がいて面白いよね。僕はオイラーが好きだなあ」
僕はそっと本棚に戻す。
彼は続ける。
「ぼく、本が好きだから朝から晩までずっとここにいるんだ。いいよね、本って。面白くて」
彼は楽しそうに語る。本好きの僕としても彼の言葉に同感だった。
「理論書でも、物語でも、そこには世界が広がっているんだ。小さな世界が紙にあつらえられて集まっているんだよね。読んでいると、そのことを体感できて、とても面白い」
「そうだね」
「君も本が好きなのかい? それは良かった。今度お勧めの本を紹介するよ」
「ありがとう」
「あ、ぼく、「ほんちゅう」って呼ばれてるんだ」
「ほんちゅう?」
「本の虫で、本虫」
「ああ、なるほど」
「ここ、ぼく以外あんまり人こないから。いつきても静かでいい場所だよ」
「俺も、本好きだからたまには来てみるよ」
「うん、是非来て欲しい」
「じゃあ、俺らはこの辺で……」
「うん、じゃあまた」
そして、僕とキズは外へ出た。
「なんだよ、普通にいいやつもいるんじゃないか」
「あの子、いつもはもっと引っ込み思案なのよ。良かったわね、おそらくあなたの本好きがあなたを救ったのよ」
「え? じゃ、もし、俺が本嫌いだったら?」
「おそらく向こうからあなたには何も話さなかったでしょうね」
「そんな……」
「さあ、次に行きましょうかしら?」
キズは僕の返答を待つような、思わせぶりな表情で僕を見つめる。
「いや、今日はもうこの辺でいいよ。そろそろ昼飯だし、まだこっち来て初日だし、それに、まあまあこっちの世界も理解できたし」
「そう、じゃあ解散でいいのね?」
「あ、うん……」
「わたし、ほとんど家にいるから、なにか用があったら家に来て、出るよう努力するわ」
「それってキズの気分も関係するってこと、か?」
「そうね」
自分の都合だけで会えるのか、僕は少し心配になった。
「じゃあ、今日はこれまで、ね」
「ああ、じゃあ」
「じゃあね」
彼女は帰って行った。
僕も自宅へと帰る、複雑な思いを抱いて。
しばらくすると家に着いた。玄関を開けて家に入る。
「ただいまー」
僕の声だけが響く。やはり母はいない。
なんでこんなことになったのかは分からない。だが、生きていくしかないと思った。生きるだけなら何とかなると思った。
そして、僕は自分の部屋に直行した。深い睡眠と深い娯楽を求めて……。