-第14話- 魔物と魔術
――ちくしょう。動けよ……、動けよ…! 何で動かないんだよ!
震える膝に力が入らない――。
鼓動は早鐘を打ち、吐く息は震える――。
目の前に横たわるマリエットは、鮮血で雪原に真赤な花を咲かせている。
このままでは、マリエットが失血死か凍死してしまう――。
一刻の猶予も無い状態なのは、わかっている。
『ん… セト?どうしたの?ザワザワが凄いよ』
と、俺の動揺がシエラに直接伝わったのか、頭の中からシエラの声が聞こえた。
目覚めたばかりのシエラは状況を知らない。こんな残酷な光景を小さい子供に見せてしまったら、心に酷い傷を負いかねない。
『だ……大丈夫だから…スマホは見ちゃだめだぞ!』
『――…え? ……あれマリィ? …お外でねんねしたら風邪ひいちゃうよ? 雪赤いよ? ねぇ、セト? マリィ起こさなきゃ』
最悪なタイミングだ……。なんて言ってやったらいいのか、俺には分らない。どうする? 何をするのが正解なんだ? くそ!! 早くどうにかしないと!!
頭の中で最適解を探し求めるが、事態解決への焦燥感に苛まれ、浮かぶ答えは泡のように消えていく。
『マリィは……』
こんな状況を説明できるわけがない。
『……ねぇ…セト、マリィ死んじゃったの…?』
そんな事言うなよ! 今必死に考えてるんだよ!
それにマリエットはまだ死んではいない!
『だから…マリィは……』
彼女の背中は微かに上下し、まだ辛うじて息があるようだが、その動きは確実に弱まっていってく。
何でこんなことになったんだ? 何が間違えていたんだ?
『ねぇ…マリィいなくなっちゃうの? ねぇ…うっ…』
シエラの声は微かに震え、今にも泣きだしそうだ。
泣きたいのはこっちだ……! 何で俺ばっかりこんな事になるんだよ!
『だ か ら…!!マリィ…は…まだ、大丈夫で……』
本当に大丈夫なのか? この場にいないポーラやジェフが助けてくれるのか? それにシエラや俺が次に標的にされるんじゃないのか?
『セト怒らないでよぉ……マリィが……ぐっ……マリィがぁ…うっ… うぅっ… うあぁぁぁーん!セトぉぉぉー!』
だんだんと嗚咽が混じる声は、ついに悲痛な泣声となって俺の頭の中で響き渡った。
俺は、初めてシエラの泣き声を聞いた――。
三歳児の癖に、我慢強くて、いつも楽しそうにしてて、一度も泣いた事が無いシエラが声を出して泣いた。いや、俺が泣かせてしまったんだ。
情けない……、不甲斐ない自分の愚かさに腹が立つ。俺が涙を流したとき、シエラが何をしてくれた?
俺は自分の事しか考えて無かった……。
弱くて、愚かで、浅はかで、救いようのない馬鹿だ。
だけど……、シエラが泣いたことで、苛立っていても解決にはならない事に気付いた。それにシエラを助けられるのは、今は俺しかいないんだ。
『シエラ! まだ、マリィは死んでない!』
『うそ!! うごかないもん! マリィ…マリィ…いやだよぉ…うっ…』
このままマリエットを放置していたら本当に死んでしまうし、シエラの心にこれ以上負担をかけてしまったら、本当に取り返しのつかない傷を負わせてしまう。
――俺は決断しなければならない。
このまま、マリエットを見捨てて逃げる算段を付けるか、どうにかして助けるかを選ばなくてはならない。
否、俺の中ではもう答えなんて決まっている。マリエットを見捨てて逃げるなんて、初めから俺の選択肢のなかには無かったのだから。
目の前で起こった、非日常的な惨劇に動揺して気持ちが揺らいでしまっただけだ。
『シエラ、聞いてくれ。俺が今からマリィを助けに行く』
『うっ…ぅぅ…で…できるの?』
『何とかしないと、本当にマリィが死んじゃうかもしれないし、俺達も危ない』
『マリィが死んじゃうのイヤ!! セトが死んじゃうのもイヤ!!』
『だから……、だから! 俺が何とかする!!』
――――俺の心の中に小さな炎が灯った。
足の震えは止まった。
早鐘を打っていた心臓も治まった。
呼吸を整え、目をつむり意識を体の細部へと集中させる。
―大気、―地面、―森、―月、周囲のマナを集められそうなものから全て引きだし、心の炎へと注ぎ込む。
体中が焼けるように暑い。
喉が渇き、眩暈がする。
こ…れ…で…、身体強化の準備は整った――。
この魔術は今までの身体強化とは一味違う。
違いは日常生活で体内に溜まったマナを使うか、外部から急速にマナを摂取して使用するかだ。普段の生活で体内に溜まるマナは少量だが、外部から強制的にマナを集積することで、魔術の出力を上げる。
しかし、力を得るには大きなリスクを伴う……。マナの扱いを誤れば、体内のマナが暴走し魔物に堕ちる。魔物になるまでの過程は、動物も魔術師も同じだ。魔物化することを『魔堕ち』と呼び、魔堕ちした者は二度と元へは戻れない。
俺はそうならないためにも、毎晩ひたすらマナのコントロールを練習していた。
俺は、全身に満ちた炎のマナで身体強化し、マリエットに向かい走り出した。
魔術の性能が、格段に上がっているのが体の軽さでわかる。体内で馴染んだマナと違い、コントロールは難しいが扱えないほどではない。
これならマリエットに近づく際に、魔物からの攻撃も避けられるだろう。しかし、避けるだけでは救助にならない。マリエットに近づき治療し、前線から離脱する。
口では簡単だが、俺はこれから死地にに赴く。
あと、数歩でマリエットの元へと到達する寸前で、やはり魔物からの攻撃が飛んできた。雪の下から突き上げる、オールドエントの鋭い根。風切音も巻き起こした鋭い突きを、俺は紙一重の距離で回避して側面へ退く。
足が地面に付いた瞬間には、両側面から今度は根が突き上げそれを後方へ、跳躍し回避する。
避けるので精一杯な俺に、オールドエントは間髪を容れず攻撃を繰り返す――。
猛攻と回避の応酬が、極度の緊張感を生みだし俺の集中力を高めていく。
――流れる景色が遅く感じる。
いくら体感速度が上がったところで、攻撃に転じることができないし体力の限界もある。このままではじり貧だ。
『セト!!ポケットの中!!』
と、必死な俺にシエラが急に呼びかけてきた。俺は、回避をしながらコートのポケットの中に手を突っ込み、中身を調べた。
『これは……確か…』
『うん!それ使って!』
ポケットの中には、ポーチェさんがシエラに渡した『夢見の守り』が入っていた。夢の中で、黒い茨から守ってくれたあのお守りだ。
複雑な模様が施された小さなコインには、魔術式が両面に組み込まれており、表面は現実世界を表し、裏面は夢の世界を表していると、ポーラに教えてもらったのを思い出した。この、お守りにマナを流せば術式が起動する。
――これを使えば、オールドエントの攻撃を一時的に防ぐことが可能だ。
俺は再度マリエットの元へと、攻撃を紙一重で回避しながら尚も向かう。これ以上、時間の浪費はできないし、多少の無理をしてでも進まなくてはならない。
近づく際に鋭い突きが右肩をかすめて、傷を負ったがたいしたことはない。
あと五歩……
オールドエントは、眼の前に無数の根を雪から突き出す。
あと四歩……
もっと早く……!
あと三歩……
もっと確実に!
あと二歩……
鋭い根に肉薄する。
あと一歩……
全身の身体強化に回していたマナを、左手に持つ夢見の守りに注ぐ。
その刹那、『ドンッ』っと腹に響く鈍い音がこだます。
俺とマリエットを囲むように、十本もの根を赤い被膜が寸前で食い止めていた。もう、本当に駄目かと思ったがギリギリのタイミングで間に合った。
マリエットは――、よかった! まだ息があるが意識は失っている。
しかし、予断はできない。
俺の前世での職業は、医療関係の仕事に付いていた訳では無いし、魔術での治療も今回おこなうのは初めてになる。
ポーラの授業で魔術の基礎を習う以外に、独学で屋敷の書庫にあった魔法に関する書物を何冊か読んでいるが、簡単な治療魔術は俺でも少しは扱えそうだが、どこまでできるかはわからない。
それに、夢見の守りの効力がどの程度かは未知数で、耐久力や持続時間もどうなのかは不明だ。今も周りでは夢見の守りの結界を破ろうと、オールドエントが鋭い根を突き立て続けている。
不安だらけで押しつぶされそうだが、今はそんな事を考えてる暇なんてない。
俺は本の治療魔術に関する必要手順を必死に思い出し、マリエットの腹部の傷口へと手を近づけた。傷からは赤黒い血が流れ続ける。
まずは……、マリエットと俺のマナを同期させる。マリエットの腹部へとかざした手に集中し体内のマナを集める。
同期がとれたのか、マリエットの傷と同じ位置に違和感が出てきた。痛覚までは無いが腹をぐちゃぐちゃにされたような、気持ち悪いか感覚がこみ上げる。
そして、次に火のマナが司る特性の『再生』を心の中へ投影する。ズタズタになった血管、内臓、筋肉、の順に再生するイメージを作り出し、後はマナを一気に流し込み具象化させる――。
かざした右手が薄く光り、一気にマナが吸い取られていく……。本には浅い切り傷の治療でも、術式を組まない魔術の行使はマナを無駄に消費しすると書いてあったが、マリエットの傷を治すのにどれだけのマナが必要になるのだろうか?
徐々にマリエットから流血は治まり、微かにマリエットの瞼が痙攣した。
「ん……あなたは…? どこの御仁かは…存じないっすけど…、危ないっすよ…に…げ…」
意識を微かに取り戻したマリエットは、混濁した様子で逃げるように促すが、また意識を失った。それに、シエラを誰かに見間違えるほど疲弊しているようだ。
――手にマナを集中させ続けて少し経ち。
まだ傷が完全にふさがらない状況だが、俺のマナも限界に近い。右手の光は徐々に弱まり、身体強化の効能で体温が上昇していたがそれも無くなった。
これが、今できる精一杯の治療だ……。
一命は取りとめたが、まだ治療は完璧じゃないし、どんどんと体温は奪われ続ける。
このままじゃ……、俺もマリエットも駄目だ……。
そうなる前に……、俺の『オド』を使えば……。
俺が自己犠牲を払おうとした、その時。
『ガシャン!』と、ガラスが砕け散るような音がし、目の前に真っ白な獣が現れた。
その獣のは、兎の耳にアンバランスな巨大な虎の腕をしたポーラだった。目は月明りに照らされ怪しく赤色にギラつかせ、目じりを険しく吊り上げ、口元からは牙を覗かせるその姿は、俺が知っている穏かな女性では無かった。
俺は、助けが来た! と、言う感覚よりも目の前に現れた、ポーラの変わり果てた姿に恐怖した。




