-第09話- 月光とお化け
俺とシエラが剣道の練習をしていると、ポツポツと空から針のように細い雨が降ってきた。
――今日の練習はシエラの記憶の中にある、屋敷の庭でおこなっていた。シエラの鍵を使って、部屋と玄関を直接繋いでやって来たのだが、部屋は夜で、庭は昼間とチグハグな世界だ。
俺はまだ、現実の屋敷で庭には出たことがなかったのだが、シエラの記憶の中の部屋の様子から察するに、夢の庭も現実との相違はないのだろう。
庭はテニスコート二面ほどの広さで、光を集めたように明るく、多彩な花が色を競い合うように芝地のキャンパスを飾り、数本ある樹木の木漏れ日は昼寝をしたら最高に違いない。
遠くで、庭の縁を生垣で囲っているのも見える。
眼前の庭と、背後の屋敷が見事に調和し、一枚の絵画を見ているようだった――。
そんな庭で練習を始めてから、しばらくすると雲行きは怪しくなり。
「うげ、雨降ってきやがった!」
「うん……」
ん?どうしたのだろうか?シエラなら雨を喜びそうだが、俯きながらもじもじしている。
「どっか痛いのか?」
「んーん… あのね…… おしっこいきたいの…」
トイレに行きたいと言われても、夢の中で用を足したら現実ではオネショになるだろう…。
俺も小さい頃に、夢の中のお手洗いできスッキリしたら、現実では布団に地図を描いていた。なんて、記憶が残っている。
三歳児だしオネショもするだろうが、俺がいながらにオネショをさせるのも嫌だ。
「じゃあ、一旦シエラが起きてトイレに行くか?」
「だめ! 夜におきると怖いお化けでちゃう!」
「んー… そうは言ってもな… 緊急事態だし」
困った事態だ…、俺がトイレまで行き、用を足してもいいのだが、倫理的に幼女の体でトイレに行く事に非常に抵抗がある。今まで三歳児のシエラの体でトイレに行ったことも無いし、半年間の赤ん坊生活でもオネショはしていたが、自分で用を足した自覚はない。
「途中まで俺がいって、そこからシエラに交代できたりしないのか?」
「できる… とおもう…」
慣れない幼女生活の俺も、これができると非常に助かる。
シエラが体を洗うのは昼間なので、水浴びやトイレといった私生活面で、シエラが大人になった時の禍根を事前に摘み取ることができる。
――しかし、シエラが思春期になったとき、今と同じ生活ができる保証もないし不安は残る。
「じゃあ、とりあえず部屋に戻るかー」
「うん… わかった…」
俺は、シエラと庭に来た時と同様に、今度は玄関の扉から直接シエラの部屋へ戻り、現実に戻るために早々に眠りについた――。
◇
――俺は再び暗い部屋で目覚めた。
しかし、今回は激しい尿意に見舞われた状態からだ。半年以上ぶりの感覚だったのと、男とは我慢の勝手が違うようで、早急に行動に移さないと取り返しがつかなくなる。
トイレの場所は、事前にシエラに聞いている。廊下を階段とは逆の方向に進み、廊下の突き当りを正面にして、左側の三番目の部屋がトイレだ。
俺は脳内でマップをおさらいし、速やかに布団から出てミッションの遂行に移った。
「っく…思った以上に我慢するのが難しいな…早く…しないと…」
内股気味にお腹を軽く押さえながら、刺激しないようにユックリと進む。
薄暗い廊下を進んでいくと、目的地が見えた――。
「なんとか間に合った…早くトイレに入ってチェンジしないと…」
俺がトイレの扉を開けようとしたとき、微かに聞こえる女性の叫び声。聞き覚えのある悲鳴のような声の主は、たぶんシビルだ…
どうやら、シエラがお化けと勘違いしていたのは、あの夫婦が原因のようだ。小さい子供なら普段、聞かない親の奇声をお化けだと勘違いしていても不思議ではない。
――はぁ…もう少し周囲へ気を使ってほしいものだ。
俺は事の真相が分かったので、後でシエラにお化けがいない事をうまく説明して、今後は一人でトイレに行くように説得をしようとおもう。
そして、呆れたため息をつきながらトイレの扉を開けた。
異世界のトイレに初めて入ったが、不安に思っていた衛生面や、水回りの事について心配する必要はなさそうだった。トイレは前世と同じ洋式タイプで、見慣れない石とか桶とかあるが、水洗式のようだ。
――そして、俺は心の中でシエラに『トイレに付いたぞ』と、強く念じた。
すると、眼の前の景色が急速に遠のきブラックアウトした。
◆
――眼を開けるとそこは、夢の中のシエラの部屋に立っていた。
「うはぁ… まじで入れ替われるのか…」
入れ替わりは支障もなく、スムーズに完了した。俺の姿は生前の姿に戻り、そして、シエラの寝台に目を向けると、そこには眠っているシエラがいた。
「そういえば、トイレに行くまでは良かったけど、帰りの事はどうすんだろ…」
そもそも今になって思えば、帰り道どころか、用を足すのは一人で大丈夫なのだろうか?メイドの誰かを起こして、補助が必要なんじゃないのか?
自分の倫理観、以前に、シエラへの配慮を怠った自分の行動が悔やまれる――。
などと、ポーラの事を以前、過保護と言っていた自分も存外、過保護なのかもしれない。
「どうにかして、シエラに状況確認取れないかな…」
と、呟くと――
『セト、おしっこ終わったけどどうしよう…』
急に脳内にシエラの声が響いた。
「え!? シエラの声?だ… よな?」
『うん… そうだよ…?』
夢の中でコンタクトが取れるなら、最初から心配する必要がなかった。というか、一人でできたようで心配するまでもなかったので、安心した。
「どうしたんだ?」
『あのね… お外にね…おばけいるの…』
夫婦の声は、トイレに入っていれば聞こえなかったが、いったいどうしたのだろうか…?
「お化けって? 何かきこえるのか?」
『うん… お化けが外であるいてるの…』
「今、俺に交代ってできるのか?」
シエラの声は怯え混じりで、この調子だと一人で部屋にも戻るのは難しそうだ。
『できる… と、おもう… 一緒にこうたいしたいって思ってぇ…』
「わかった。じゃあ念じてみるぞ」
俺は心の中で、シエラと入れ替わる事を強く念じた。
すると、現実から夢へと渡ったときと同様、周囲の景色が急速に遠のき、再度ブラックアウトした――。
◇
「――ん… 」
ユックリと目を開けると、周囲の物が巨大化したような錯覚を感じた。
急速な入れ替わりで、大人の視点で見える情景から子供の視点に切り替わったことで、軽い眩暈がする。
『せいこう… した?』
と、また脳内に直接シエラの声が響いた。
俺は少し考え、一人でトイレの中で喋っているのは怪しいと思い、声を出すことを躊躇した。
『セト、心の中でおしゃべりできるよ?』
再度シエラの声が聞こえ、俺が不安視していた問題はあっさりと解決された。
『あーあー、きこえるか?』
『うん! 聞こえるよ!』
うまくシエラに聞こえたようで、シエラから返答の声が帰ってきた。
先ほどまでの怯え切った声から、声が明るくなっている…。不安から解放されたから元気になったのだろう。現金なやつめ…。
『はぁ… まぁいいけど』
『ん? セトもこわいの?』
『いや、何でもない。じゃあ今から、部屋に戻るぞ』
そして、チェンジ前にシエラが言っていた、お化けの正体を確かめるために俺は、トイレから出ることにした。
俺はゆっくりとドアノブを回し、扉の隙間から廊下の様子を窺いつつ開いていった。
廊下は静まり返り、人の気配は感じられない。
しかし、俺は過去の失敗から二度同じ手は食わない。
「エレノア… いるんでしょ?」
「――――… …はい。お嬢様」
お化けの第二の正体は、やはりエレノアだった。
俺よりも野生の勘が鋭いシエラには、俺では気付くことのできない気配を感じ取ったのだろう。
「どうしたの?こんな夜遅くに」
「――…お嬢様を廊下で御見掛けしましたので、――…御一人で、だ…大丈夫か心配になりまして」
気配も無く、トイレの前をうろつかれている方がトラウマになるだろ。
「ぁ…ありがとう…だいじょうぶだったから」
「――…御一人で問題無かったようで、差出がましい真似をし、も…も…――申し訳ございませんでした」
「んーん… 心配してくれてありがとう…」
「――… …はい」
エレノアはいつも、気配を消した状態で廊下を彷徨っているのだろうか…と言うか、こんな時間に廊下で鉢合わせるのは不自然だ。
俺は、エレノアに不信感を抱き、事前にシエラにエレノアについて訊ねることにした。
『シエラ?エレノアはいつも廊下にいるのか?』
『エレは、夜にお月さまの光あびないとだめなんだって?』
『何かの病気とかか?』
『んー?よくわかんないけど、マナがひつようなんだって』
マナが必要なのは、魔法を使う為に必要なのだろうか?廊下にいたのは本当にたまたまだったのだろうか?
「お月さまの光をあびてたの?」
「――…はい…今宵は…マナの集まりが良かったので」
「そうなんだ…そのマナっていうのはなに?」
「――…自然の中の力、生命の源、原初の命、世界の理です」
マナについては、よくわからなかった。TVゲームとかで聞くような、不思議パワーだと思っていたが、意味深なことを言われた。
「そ… そうなんだ…難しいね…」
「――…とても…」
今、これ以上聞いても良く分からないので、部屋に戻ることにした。
「ははは… じゃ… じゃあそろそろ寝るね」
「――…お… … お部屋までお送りいたします」
エレノアに握られた手はとても冷たく、陶器のような滑らかで、細く長い指がしっかりとシエラの小さな手を掴んでいた。
俺は、異性に手を握られた経験なんてほとんど無かったので、これ以上ない緊張とエレノアの読めない性格にドキドキしながら、部屋まで送られた。
「――…では…お休みなさいませお嬢様」
「あ… ありがと… おやすみなさい」
夜に聞くエレノアの消え失せてしまいそうな、か細い声で話されるのは正直怖い。
きっと、昼間に見るとまた違った印象なのだろう。夜のエレノアの生気を感じさせない動きと、月明りに照らされた金髪の妖艶な雰囲気が、ミステリアスさを強調している。
エレノアが扉を閉じるまで、俺は固まったままその姿に見入っていた。
『エレノアって不思議なやつだな』
『ん? なにが?』
『いや、何でもない。じゃあ剣道の続き始めるか』
俺は、寝台へと横たわって再度シエラが待つ夢の世界へと向かった。
◆
「セトォ~これみてみてー」
「ん? どうしたんだ? 俺のスマホ?」
横たわる俺の上に跨ったシエラが、俺のスマホを自慢げに掲げていた。
「スマホ? ……スマホ!! すーまーほーーー!」
「んで、そのスマホがどうしたんだよ?」
シエラは喜色満面の笑みで、気分は上々のようだった。俺の質問も耳に入っていないのか、作詞作曲シエラの音程が外れた、スマホの歌を歌っている。
「シエラさーん…スマホがどうしたんですかー?」
「きゃっきゃ! スマホ!」
俺のスマートフォンをブンブンと振り回しながら、部屋の中を楽しそうに走り回っている。それにしても、いつ俺のスマートフォンを部屋に持ち込んだのだろうか?先日の引越し作業の時には、見かけなかったが。
――それからシエラは、走り疲れて少しづつテンションは下がり、やっと喋れる状態にまでなった。
「スマホ! でね、おそと見れるようになった!」
「どういうことだ? お外って庭とか?電波なんてないし、ましてや夢の中だぞ?」
テンションの上がった子供は、伝えたい気持ちが前のめりになっているようで、要領を得ない会話になってしまう。
「ちがーう! お外は違うこのへやのことだよ!」
「ん?違うこの部屋ってことは、夢の外ってことか?」
まだ意味がわからないし、そもそもシエラは、スマホを初めて見たのだから使い方も知らないはずだ。
「もうセトったらぁ~! みたい? みたい? ねぇねぇ? みたい?」
ちょっとウザい絡み方で、もったいぶってきやがった。純粋なシエラにこんなウザ絡みを教えたやつは、後で俺が制裁をくわえてやる。
「シエラさんのスマホテクみたいなーー」
と、俺は棒読みで催促をした。俺は大人だ。大人は子供のウザ絡み程度では腹などたてないのだ。
「セトはしょうがないなぁ~! ちょっとだけだよ?」
シエラは迷うことなく、スマホの画面をタップしカメラ機能のボタンを押した。
「何でシエラはスマホの使い方なんて知ってるんだ?」
「あのね!『できる女』は、じらし?て男を惑わすんだって、マリィが言ってたから秘密!」
俺が制裁をくわえる対象の面が割れた。マリエットには後で何かしらの制裁を加えることが決定した。
「シエラさん、それは違うぞ!『できる女』はホウレン草がちゃんとできるんだぜ?」
「しぇーら、ホウレン草きらぃー…苦いし、まじゅぃ…」
「そのホウレン草じゃないんだ!報告、連絡、相談で、ホウレン草だ」
と、俺は早々にマリエットの洗脳を解くことにした。
そして、なぜシエラがスマホを使えるのか、さっきまでの短時間で何があったのかを聞こうと思う――。