初めての心配
まだ日が落ちる前、自宅マンションに着いてゲンカンノドアを開けると、明かりが消えていた。
「あれ?」
今朝、俺は由梨子さんに今日は早く帰ると話していたハズだ。
首を捻りながら、リビングへと歩いていく。
「ただいま~?由梨子さん?」
リビングも明かりがついていない。
当然、由梨子さんの姿もなかった。
キッチンに行くと特に準備されている形跡もない。
「おかしい…」
こんなことは初めてだった。
俺が帰る時間が早い時は、必ず由梨子さんは全て食事の準備を終わらせている。
それが何一つ終わっていないのだ。
急な買い物に出るなら出るで、メモ書きを置いていくハズだが、思うにメモ書きを残す必要がない時間帯に由梨子さんは出掛けたのかもしれない。
と、言うことは…かなり前に買い物に出たことになる。
由梨子さんがいつも買い物するのは、近所の大きな商店街だ。
マンションからは、さほど離れてない。
俺は何となく不安になって、財布とケータイと鍵をパーカーのポケットに突っ込んで、マンションを飛び出した。
商店街のゲートをくぐり抜け、早足で歩き出す。
由梨子さんの姿を探して店を覗いたりしてみたが、なかなか見当たらない。
「まさか…また具合を悪くして、救急車で運ばれたんじゃ…」
自分が発した縁起でもない言葉を振り払うように、俺は左右に頭を振った。
ふと、目の前に花屋を見つけ、以前に由梨子さんが好きだと話していた花のことを思い出した。
由梨子さんはいつも小さなブーケを作って、食卓に飾ってくれていた。
確か…パステルカラーのひまわりみたいな花だったような…。
思えば、退院祝いに俺は何も由梨子さんに用意してない。
元々、プレゼントを考えるのが苦手なのもあり、後で商品券でも渡そうと思っていたのだ。
なんせ、幼稚園の折り紙の朝顔以来、女性にプレゼントなどしたことがない俺だ。
はぁ…我ながらなんともやっつけで、自己嫌悪で落ち込む。
光のお土産が頭を過ったが、俺が準備した訳でもなく、それに中身をまだ確認してないが、化粧品を退院祝いに渡すってどうなんだ?
それに初めて渡すプレゼントならば、手元に残らない物の方が気を負わず受け取ってもらえるんじゃないだろうか?
いや、由梨子さんを探す方が先だし…でも…。
意を決して、花屋に入り“ガーベラ”というらしいパステルカラーのその花を、可愛らしく見繕ってもらって、急いでブーケにしてもらった。
さすがにこのまま持ち歩くのは恥ずかしいので、袋に見えないように入れて貰う。
あとは由梨子さんに遠慮することなく、受け取ってもらえることを祈るだけだ。
再び商店街を早歩きで進むと、いつもののんびりとした雰囲気には相応しくない怒鳴り声が遠くから聞こえてきた。
「だ~か~ら、一杯付き合えば直ぐに帰してやるって言ってんだろうがぁ~?」
「そんな暇は1秒も無いって言っているでしょう!」
良く見ると、60メートルぐらい先の立呑屋“いっちゃん”の前辺りに、人だかりが出来ている。
様子を見ながら小走りで走っていくと、人だかりの中心で酔っぱらいのヒョロッとしたオッサンと小さくともパワフルボディーの肉屋のオバチャンが言い争いしている。
オバチャンの後ろには…由梨子さん!?
慌てて走る速度を早め、人だかりを掻き分けて行くと、肉屋のオバチャンがいち早く俺の姿を見つけ、パーカーの襟首を掴んでオッサンの前に立たせた。
「この子が由梨子ちゃんの旦那さん!昼間から飲んだくれてるアンタと違って、イケメンで会社の社長さんなんだよ!」
えっ!?オバチャン!?
突然のことに思考が止まる。
「え??ちょっと待っ…」
否定しようとオバチャンの方を向くと、涙目の由梨子さんの顔が見えた。
初めて見た由梨子さんの泣き顔に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
何で?
何で今朝、可愛い笑顔で俺を見送ってくれた由梨子さんが、こんなに顔色青く震えて泣かなきゃいけない状況になっているんだ?
落ち着いた筈の由梨子さんへの気持ちが、怒りと共に一気に熱くなろうとする。
いや待て、俺。
まずは下を向いて、そこにいる推定身長145㎝の勇ましい肉屋のオバチャンに話を聞こう。
オバチャン…多分ウィンクだと思われるが、ほぼ両目を閉じちゃってる状態を繰り返している。
思うに…この下手くそなウィンクは話を合わせて助けろ!と言うことなんだろう。
事の一部始終を見てないが、少ない情報から由梨子さんがオッサンにお酌を強要されたことは理解した。
由梨子さんの泣き顔を見てしまった今、何とかしなけりゃ男じゃない!
芝居なんて学芸会のクラスの出し物でしかやったことないけど、今の俺なら出来る!
いや、やってやる!
由梨子さんは…今から俺の嫁だ!!
さっきズレた眼鏡の位置を中指で戻し、乱れたパーカーの襟と顔をキリッと正して、俺はオッサンと対峙した。
「今来たばかりなので話が良く分からないのですが、うちの妻に何か御用なんですか?」
「あ~?妻だぁ~?オレは~そのベッピンさんに美味しい酒をついで貰いたいって言っただけだよ~。」
おぼつかない足取りを見ると、このオッサン、相当酔っぱらってるし、目も座ってる。
正直、理性的にも理論的にも話が噛み合わない可能性しか見えない厄介そうな相手だ。
「申し訳ないですが、妻は先日退院したばかりで、まだ本調子ではないんです。見たところ顔色も優れませんので、お酌を辞退させて下さい!」
荒ぶる相手には、情に訴えつつ冷静に対応するのが一番だ。
喧嘩腰では、余計に話が長引く。
頭を下げて数秒、オッサンは何も言ってこない。
殴りかかられたらどうしようか?と思っていたのだが、胸ぐらを掴まれるような素振りもない。
恐る恐る顔をあげると…オッサン!?
な、泣いている!?
「大将ぅ~!俺の奢りでコイツに手羽先餃子持たせてやってくれ~!」
しかも、なんか立呑屋の大将に向かって注文してるし!
は、はい!?
「悪かったなぁ~、うちの女房と喧嘩したもんだから~鬱憤ばらしで飲んでたら~アンタの女房がベッピンで優しそうで羨ましくてさぁ~。」
「はぁ…」
「俺も~女房に優しく出来りゃなぁ…。大丈夫だぁ~俺は…怒ってないからぁ~!さっさと帰って女房孝行してやれぃ~!」
「あ、ありがとうございます!!」
良く分からないが、千鳥足で立呑屋に戻っていくオッサンにお礼を言って、安堵から深く息を吐いて振り向いた。
そこには安心した様に口を両手で覆ってポロポロ泣いてる由梨子さんと、親指をサムアップしてニカッと笑っているオバチャンがいて、なんとか由梨子さんのピンチを救えたことに胸を撫で下ろした。
オバチャンが俺と由梨子さんの間に居なければ、泣いてる由梨子さんを抱きしめていたなぁ…俺。
そんな俺の思考を知ってか知らずか、オバチャンはバシバシと思いのほか力強く手首のスナップを効かせて俺の二の腕辺りを叩いて、良くやった!と誉めている。
オバチャン、その労いは痛すぎる!
ふと何か思い出したように、オバチャンは俺の二の腕を叩く手を止めた。
「あ、そう言えば由梨子ちゃん退院祝いがまだだったわよね?うちの売り物で悪いけど、ローストビーフサラダ持っていって!」
「いいえ、そんな悪いです!」
まだ涙が止まらない由梨子さんは、突然のオバチャンの申し出に遠慮の言葉を繰り返している。
「遠慮はナシだよ!オムツも外れない赤ん坊の頃からの付き合いなんだから!」
オバチャンに手招きされて躊躇していると、由梨子さんと二人で腕を引かれ、肉屋の店先まで連行された。
たっぷりとパック詰めされたローストビーフサラダとオバチャン自慢の自家製和牛コロッケを袋に詰めて、笑顔と共に持たせてくれた。
「由梨子ちゃん、痩せてベッピンさんに戻っちゃったし、今日みたいに悪い虫が付かないように、本当に佑都くんに嫁に貰ってもらいなさいよ!」
「「えっ!?」」
肉屋のオバチャンが言った言葉に、俺と由梨子さんはビックリして声を上げた。
「アンタたち並んだら、ホッントにお似合いだわよ!酔っぱらいのあのオッサンが夫婦だって信じるのも頷けるわ!」
再び、下手くそなウィンクを炸裂させながらオバチャンが言う。
いや、ちょっと待て!
今日、芽生えたばかりの感情に、ドッカンドッカン肥料を与えてくるオバチャンの言葉に目眩がする。
由梨子さんは顔を真っ赤にして、戸惑って下向いちゃってるし…。
困った…オバチャンからすれば、さっきまで泣いていた由梨子さんをリラックスさせる為の冗談なんだろう。
しかし、俺にしてみれば、またもや由梨子さんへの気持ちに即効性バツグンの液肥を与えられた気分で、冷静に考えられない。
…なんだこの展開は!?
ふと気付くと、俺と由梨子さんの周りには商店街の人たちの輪が出来ていて、次々と心ばかりの贈り物を渡された。
退院祝いという名の荷物に埋もれそうになってる由梨子さんから、荷物を無言で取り上げる。
「佑都さん?」
いつも俺が荷物を持とうとすると「仕事中ですし、私の方が力持ちですから!」とぷに子版・由梨子さんには良く遠慮されていた。
曲がりなりにも俺は男だし、研究室に入り浸りとはいえ、適度に身体を動かしているから女性に荷物を持たせるほど体力がない訳じゃない。
しかし結局、仕事熱心な鉄壁の由梨子さんの笑顔に押されて、仕方なく由梨子さんの後ろをポケットの中で手を握りしめて歩く格好になっていた。
今は、いつもの様な遠慮の言葉を聞きたくない。
俺は色々な感情を誤魔化すように歩き出した。
が、不意に右の袖を後ろから掴まれた。
「コラコラ、奥さんを置いていっちゃダメでしょ?」
「へっ!?」
振り替えると肉屋のオバチャンが、俺の右手に由梨子さんの左手を握らせた。
いきなりのことで動揺しまくる俺に、オバチャンがそっと小声で俺に話す。
「嫁取りの話はともかく、せめて今日ぐらいは虫除けになっておやり。今日は由梨子ちゃんずっと男の人に声かけられたりで大変だったんだから。」
由梨子さんは恥ずかしそうに、そして申し訳なさそうに俺の顔を見て、直ぐに俯いてしまった。
表情はもう見えないけど、髪の毛の隙間から赤くなった由梨子さんの耳が見えた。
少しでも今、俺と同じ気持ちで耳まで赤く染めてくれているなら…嬉しい。
「分かりました。」
オバチャンに会釈して、俺は由梨子さんの手を壊れ物を扱うように淡く握り、少し戸惑う様に由梨子さんが握り返してきたことを確認してから歩き出した。
自宅に着くまで何を話せば良いのか全く分からず、終始無言だったが、俺も由梨子さんも手を離すことはなかった。